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2014年2月10日月曜日

公園のながめをあきらめきれない(ベノワ・マンデルブロ)

少し前に『フラクタリスト―マンデルブロ自伝―』を読みました。マンデルブロと言えば異様な図形「マンデルブロ集合」が有名ですが、金融の世界でもファット・テールを指摘するなど、重要な成果を残しています。


科学者の伝記を読む理由はいつも同じで、偉大な業績を成した人物はどのように考えてどのように判断するのか参考にしたいからです。しかし本書ではその種の話題はあまり登場せず、第二次世界大戦期だった若者時代の逃避行や、独自の学者経歴を歩んでいく顛末・心境を中心につづられていました。その意味では当初のねらいに即した本ではなかったのですが、個人的に興味を持っている主題「逃げる」ことが少なからず描かれており、逆にそちらの話に引きこまれました。翻訳者の影響なのかもしれませんが、著者の文体は抑制が効いていて浮わついたところが少ないように感じられ、全般的に共感できる文章でした。今回はその「逃げる」ことについて本書から引用します。

最初の引用はナチス・ドイツがポーランドに侵攻する前のことで、マンデルブロの一家がワルシャワからパリへ逃げる話です。
二度と帰らない覚悟でこの地を離れるべきか? 私の年齢を考えると、タイミングは完璧だった。その一方で、パリに行った場合には父の身分がどうなるかわからず、母は仕事をやめて収入も手放さなくてはならないとすれば、ひどくまずいタイミングでもあった。しかしミルカの一件で迷いが消えた。ポーランドは両親が息子たちのために望む国ではなかったのだ。決断が下された。(中略)

両親の恐れていたあらゆることがポーランドで忌まわしい現実となる前に、二人の大胆な計画が功を奏した。私たちは南フランスへ行って土地の人のようなふるまいや話し方をして、その地でたくさんの誠実な友人を得た。(中略)

知り合いの中で、フランスへ移って生き延びることができたのは私たちだけだった。たいていの人は、ぐずぐずしているうちに状況がひどく悪化してしまった。ワルシャワ時代の知人で生き残ったのは二人だけだ。私たちの上の階に住んでいたプラウデ夫人は夫を亡くしたが、戦争が終わってから私と同い年の娘を連れてパリへやって来た。そして私の母に連絡をとり、友だち付き合いを再開した。ほかの人たちは貴重な陶磁器を手放せなかったり、べーゼンドルファーのコンサートグランドピアノが売却できなかったり、あるいは窓から見える公園の眺めをあきらめられなかったりして、動きがとれなかったらしい。母はそんな話にぞっとしながらも、感情を隠したまま耳を傾けていた。(p.79)

つぎはドイツ占領下のフランスで起きた彼の父親の話です。
フランスがドイツに占領されていたころのことだが、父の賢さと独立心と勇気を物語るエピソードがある。父は最終的な死の収容所へ連行される前の一時収容所に入れられていた。ある日、フランスのレジスタンス部隊が突入して警備兵を制圧した。ゲートを開放することはできるが収容所を防護することはできないと叫んだかと思うと、みんな逃げろと言って立ち去った。父は最寄りの町を目指して歩く収容者たちの長い列に加わったが、不吉な気配を察してわき道に入った。するとおののく父の目の前で、警備兵から連絡を受けたナチス武装親衛隊のシュトゥーカ爆撃機が、収容者たちを地上掃射した。父は家に帰り着くまでずっと細い道を選び、寝るときは人気のない小屋を見つけた。父以外で戦争を生き延びた人たちも、死の収容所へ向かう集団にいて逃げ道に気づいたら、即座にそこへ飛び込んだと言っている。父はまさにそういう人間だった。(p.42)

最後の話は、パリからフランスの中部へさらに避難したころの生活の様子です。
川を下った兵器工場のそばの平らな土地に小さなアパートがあり、その最上階に格安の貸間が見つかった。避難民支援の一環として、基本的な家具類は支給された。レオンと私は狭苦しい台所兼食堂で寝た。暖房用のストーブで料理もした。両親の部屋も暖まるようにと境のドアを開け放っても、漆喰と麦わらの混ざった三方の壁が丘陵地の外気に触れているので、部屋は冷えきってしまう。冬場には室内につららができた。一階にトルコ式トイレが一つあり、玄関には冷水しか出ない蛇口があった。言うまでもないが、浴室はなかった。(中略)

父はいつもメモをとりながら熱心に本を読んでいた。次にどんな運命が降りかかるかわからないということを忘れず、ぼろぼろの古い本で英語の書き方を勉強していた(「備えあれば憂いなし、だからな」)。何年もあとで私が見つけた革製のブリーフケースの中に、父の膨大な学習帳のうち数冊が奇跡的に残っていた。(p.110)

蛇足ですが、我が家では暖房を入れていないので、今年は寒い思いをしています。板張りの部屋の窓際に敷いた布団に入りこんだときには、マンデルブロのつららを思い返しています。

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