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2012年12月16日日曜日

合衆国憲法制定会議(アレグザンダー・ハミルトン伝)

前回の投稿で、チャーリー・マンガーはアメリカ合衆国の憲法制定会議について触れていました。話の出所を調べようと思い、伝記作家ロン・チャーナウが書いた『アレグザンダー・ハミルトン伝』をあたってみたところ、内容が一致する箇所があったのでご紹介します。

また[草案を作る]この小委員会では、総じて秘密主義が好ましいという意見が優勢で、予備投票は記録されないことになった。さらに公正を期するため、小委員会は「議場での発言は、許可なく印刷されず、ないしは公表されたり伝達されてたりもしない」ことも決めた。(中略)

新しい憲章を作る会議に、このような非民主的な規則が用いられたのはなぜなのだろう。代表の多くは、自分たちのことを賢明な独立した市民だと考えており、彼らが気にかけていたのは、派閥などという唾棄すべきものではなく、公共の福利だった。「もし討議が公開で行なわれていたとしたら、派閥の怒号に邪魔されて満足な成果を出せなかっただろう」とハミルトンは述べている。「後になって討議の内容が明らかになっていたら、扇動的な雄弁に多くの材料を与えていたことだろう」。非公開の会議だったおかげで、活発で自由な議論が交わされ、史上屈指の啓発的な文書が生まれたのだ。だが同時に、この秘密主義のせいで、会議の内部事情は中傷的な伝説の材料となり、ハミルトンの後のキャリアに悪影響を及ぼすことにもなった。(p.450)


ベンジャミン・フランクリンが「生涯最高の威厳ある立派な会議」と絶賛したこれらの賢人は、いかなる人々だったのか。12邦の代表55名--ロードアイランドは変節して会議をボイコットした--は、アメリカを代表する人々とはあまり言えない。全員が白人で教育を受けた男性であるうえ、大半が裕福な資産家だった。過半数が弁護士で、そのため前例というものを気にしていた。プリンストンの卒業生(9名)が、イェール(4名)とハーヴァード(3名)よりも圧倒的に多かった。平均年齢は42歳で、32歳のハミルトンや36歳のマディソンは若いほうだった。(p.453)


さて、衆院選の投票に向かう時間です。

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