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2013年6月12日水曜日

ニュートンは猫を飼っておった(物理学者 湯川秀樹)

少し前に読んだ本『「湯川秀樹 物理講義」を読む』は、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹さんがおこなった3日間の特別講義を文字に起こしたものです。今回は印象に残った話題、既成の学問からなにかを学ぶときのもうひとつの視点、についてご紹介します。

しかし、うしろのほうを振り返ってみますと、そこに長い歴史というものがあります。この歴史というものは、すでに決まったものとして、誰がどうして、どういう理論が出来てきたかを学校で習う。そういう見方をしますと、それは皆決まっている、皆教科書に書いてあるじゃないかということになる。どの教科書を見まわしても、ちょっと表現の仕方が違っているだけで、本質的には何も違わんじゃないかということになる。早い話が、私たちも皆さんも、物理を勉強する手始めはニュートン力学であったわけです。その点、昔も今も変わらないですね。これは18世紀のいつごろからか、今日まであまり変わっていないだろうと思います。

そういうふうに見ますと、別に出発点は変わりないし、それから先もいろんな学問はちゃんと生きておりまして、なんとか学、なんとか学となっております。熱力学があったり、統計力学があったり、あるいは電磁気学があり、相対論もあれば量子力学もある。すべてこと決まっているように見えます。しかしそれらを創り出してきた人々について見ると、後人がそれから何を、どのように学び取ってきたか、何をくみ出してきたかということと、創り出した人がどういうふうに考えたかということとは違うんです。これをまったく同じだと思う人は試験勉強だけをしてきた人です〔笑〕。あるいはまた就職のために勉強してきた人です。本当に物理屋としてやっている人にとっては、それぞれが違うはずです。

私はこれから、私がどういうふうに、何を学び取っているかをお話するつもりですが、昔学び取ったこと、考えてきたこと、その同じことを現在になって考え直してみますと、また非常に違うわけです。そこにはもはや既成の事実しかないんだというふうに見るのは非常に表面的な見方ですね。(p.10)


問題解決の手法として、トヨタの「なぜなぜ」を5回繰り返すやりかたは有名です。偉大な先人がどのように考えたかという意味で、湯川博士も同様のことを指摘しているように感じられます。

もうひとつ。こちらはおまけで、ニュートンの逸話です。なお動物に対するニュートンの感情は、以前読んだ本でもとりあげられていました(過去記事)。

ニュートンも錬金術にはすごくこっていたんですよ。ニュートンがやったのは何かというと、光学の本を書きまして、それに力学、錬金術、そして神学の4つの部分に分けて考えられます。神学というのとはちょっと違いますが、つまり聖書年代学です。バイブルに書いてあることは全部本当である。その年代を明らかにする--そういう学問です。まあ、古代史みたいなものですね。残された文献から見ると、文献の数としてはそれほど多くないかもしれないが、しかし実際それに費やした時間は多分ほかのものよりも多いのです。

皆さん、非常におかしいとお思いになるでしょう。しかし、おかしいのはおかしくないんであって〔笑〕、もし彼が何か物理学者の理想像にぴったり当てはまって、それ以外の夾雑物[きょうざつぶつ]を持たない人であったとしたら、それは実在性がないということです〔笑〕。私は昔、ニュートンという人は実に実在感のない人だと思っていたんです。ニュートンとはどういう人かというと、年がら年じゅう勉強ばかりしている人だと思っていたんです。しかし、年がら年じゅう勉強ばかりしている人というのはどこにも存在していないのです〔笑〕。

私の小さいころに、ニュートンという偉い人について、いろんな本に書いてあった逸話が2つあります。一つはですね、彼、一生懸命に勉強しておってですね、お腹が空いてきたから、卵を鍋にほうりこんだところが、卵でなくて時計が茹で上がっていたという話です。つまり、われを忘れて勉強しておる。模範的な学者である〔笑〕。皆さんももっと勉強しろ、それくらいにならなきゃ偉くなれないぞという話です。もう一つの話も似ておりまして、彼は猫を飼っておった。猫が隣に行くのに、通路として塀に穴をあけておいてやった。その猫が赤ん坊を生んだら、子猫のためにもっと小さな穴をあけてやった、という話です。この2つの逸話は非常によく似ている。そのくらい迂闊でないと偉い学者になれない〔笑〕。(p.14)

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