景気回復は目前に迫っていると信じていた父は、大不況にさいして、思い切った方針を打ちだした--生産の拡大、である。父は困難な時期こそ事業拡大の好機ととらえたのだ。販売が落ち込んで工場の稼動率が落ちると、父は、需要の回復に備えて倉庫に予備部品をどんどんためこむように命じた。営業部門にはよりいっそう販売を強化するよう促して、セールスマンの採用を増やした。後年、父が好んで語ってくれたエピソードに、次のようなものがある。ある日、父は画廊を訪ねた折りに、統計機分野におけるIBMの最大のライヴァル、レミントン・ランド社の総帥、ジム・ランドとばったり鉢合わせしたのだそうだ。大不況が泥沼の状態に陥っていた1933年のことである。さしもの父も参っていると見たのだろう、ランドはこう声をかけてきたという。「やあ、トム、君はまだセールスマンを雇っているのかね?」
父は答えた。「ああ、雇っているとも」
「そいつは驚きだ!」ランドは首をふった。「いまやどの企業も社員を一時解雇しているというのに、きみは新規にセールスマンを雇っているというわけか。それは豪気なことだな」
「私もこの道一筋でやってきた男だよ、ジム」父は答えた。「そしてもうすぐ60になる。この人生の節目を迎えた男にはいろいろなことが起きるものでね。急に飲酒に耽りだす者もいれば、若い女性に入れ揚げる者もいる。わたしのいけない癖はセールスマンを雇うことなんだ。だから、これからも雇いつづけるつもりさ」
これが別の業種だったら、父は破産していたかもしれない。けれども、IBMに関するかぎり、父の方針は正しかった--それに、幸運にも恵まれたと言っていいだろう。ニュー・ディールの間に、IBMの規模は倍に成長したのだ。1933年のはじめに全国産業復興法が成立すると、全企業は突然連邦政府に対し、史上未曾有の膨大な情報を提供しなければならなくなった。それを処理するために、政府官庁はIBMの機械を数百台と必要とした--ルーズヴェルトの、福祉、価格統制、公共事業計画を軌道にのせるためには、それしか方法がなかった。1935年に実施された社会保障のおかげで、"アンクル・サム"はIBMの最大の顧客となったのだ。膨大な情報に呑み込まれないようにする数少ない方法の一つは、IBMに電話を入れることだった。こうして、アメリカ全土の基本的な統計が、穿孔カードに入れられたのだった。(上巻 p.60)
2012年9月22日土曜日
還暦前のわたしのいけない癖(トーマス・J・ワトソン・シニア)
前回の投稿で「より積極的な経営者であれば、もう一歩進んで谷の局面では買収を行い」とありましたが、昔に読んだ本の一節を思い出しました。今回は、IBMのワトソン・Jrが書いたその本『IBMの息子』から、彼の父親である当時のIBMの社長ワトソン・Srが世界恐慌の最中にくだした決断を引用します。
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