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2025年11月14日金曜日

バフェットからの最後の手紙(2)オマハの謎めいた水

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「バフェットからの最後の手紙」より、前回投稿につづく文章です。(日本語は拙訳)

 

 まずはチャーリー・マンガーから始めましょう。彼は64年間にわたり、わたしにとって最良の友でした。その彼が1930年代に住んでいたのは、わたしが1958年に購入して住みつづけてきた家から1街区離れた場所でした。


若かったころのわたしは、紙一重でチャーリーと友人になり損ねました。わたしよりも6歳8か月ほど年上だったチャーリーは、1940年の夏にわたしの祖父がいとなむ食料品店で働いていました。10時間働いて2ドルの賃金でした(倹約精神はバフェット家の血筋に深く根ざしているのです)。翌年にはわたしもその店で同じように働きましたが、チャーリーに出会えたのは1959年になってからで、彼が35歳、わたしが28歳のときでした。


チャーリーは第二次世界大戦で従軍した後、ハーバードのロー・スクールを卒業してからは、カリフォルニアに根を下ろしました。しかし彼はオマハで過ごした若かりし時期が自己を形成したと、常々語りつづけました。チャーリーは60年間以上にわたって甚大なる影響をわたしに及ぼしました。優れた先生でありながら庇護者をつとめる「兄者(あにじゃ)」でもあった彼は、他に望むべくもない存在でした。わたしたちのあいだで、見解は違えど論争になることは皆無でした。「たしか、そう言っておいたよ」、彼がそんな口を利くことはありませんでした。


1958年にわたしは最初で最後の自宅を購入しました。もちろん場所はオマハであり、(大雑把に言えば)わたしが育った場所から3km強ほど離れています。義理一族の住まいからは2街区も離れておらず、バフェット食料品店からは6街区ほどの距離でした。そしてわたしが64年間にわたって通勤してきたオフィスからは、自動車を運転して6-7分間で着く場所です。


それでは、別のオマハ人であるスタン・リプシーの話題にすすみましょう。彼は週刊新聞を発行していたオマハ・サン新聞社を、1968年にバークシャーへ売却してくれた人物です。その10年後に彼はわたしの要請に応じて[ニューヨーク州の]バッファローへ転居しました。バークシャーの関連会社が保有していた当時のバッファロー・イブニング・ニュース社は、朝刊紙の競合相手との闘争に終始し、手詰まり状態にありました。競合相手はバッファロー地域で唯一の日曜版を発行しており、わたしたちのほうが苦戦していました。


そこで、とうとうスタンがわたしたちの日曜版を立ち上げました。われらが新聞は何年間にもわたって、バークシャーが投資した金額3300万ドル比で年間100%以上の(税引き前)利益をあげました。これは1980年初頭のバークシャーにとって重要な資金となりました。


スタンが育ったのは、我が家から5街区ほど離れた場所でした。そしてスタンのご近所にはウォルター・スコット・ジュニアも住んでいました。ご存じのように、ウォルターは1999年にミッドアメリカン・エナジー社をバークシャーに引き入れてくれました[同社はバークシャーの中核的なエネルギー企業]。2021年に亡くなるまで彼はバークシャーの重要な取締役でありつづけるとともに、わたしの親友でもありました。何十年間にもわたって慈善活動に率先して勤しんでくれたウォルターの功績を、オマハさらにはネブラスカ州は心に刻んでいます。


ウォルターは[公立の]ベンソン高校で学びました。実はわたしもそこに入学するはずでした。ところが、わが父が1942年の連邦下院議員選挙で4期務めてきた現職候補に勝利したことで、みんなを驚かせた上にわたしの予定も変わってしまいました。人生とはまさかの連続ですね。


さあ、まだ続きがあります。


ドン・キーオと彼の若々しい一家が1959年に住んでいたのは、我が家からまさしく通りをはさんだ向かい側にある家でした。さらに言えば、そこから100メートルも離れていない場所にマンガーの一家が住んでいました。当時のドンはコーヒーを扱う営業マンでしたが、やがてはコカ・コーラ社の社長となる定めにありました。そしてバークシャーの取締役に専念してくれるようにもなります。


わたしがドンに出会ったころ、彼は年収12,000ドルをとっていました。彼は奥さんのミッキーと5人の子供を育てており、全員がカトリック系の学校へ進むことになっていました(学費は必要)。


ドンとわたしの家族は堅い友情で結ばれました。ドンはアイオワ州北西部の農家出身で、オマハにあるクレイトン大学を卒業しました。彼はまだ若いころにオマハの女性であるミッキーと結婚しました。そしてコカ・コーラ社に加わったのちに、全世界における伝説的な存在となっていきました。


ドンがコカ・コーラ社の社長だった1985年に、苦難が待ち受けるニュー・コークを販売開始しました。そしてドンは、かの有名なスピーチを行うことになります。ドンは、コカ・コーラ社「究極のバカ者」殿と宛名書きされた郵便物が彼の机へ早々に配られてきたと説明しました。それがきっかけで彼は考えを入れ替えて、「『かつての』コークを元に戻します」と世間にむけて謝罪したのです。この「撤回」発言はすっかり有名になり、YouTubeでも視聴できます。「実のところ、コカ・コーラ製品はみなさんのものであって、当社が好きにできるものではありません」と彼は高らかに謳いました。その後、売上は急増しました。


ドンを取り上げたすばらしいインタビューは、CharlieRose.comで視聴できます(トム・マーフィー[ABC]とケイ・グラハム[ワシントン・ポスト]にも、珠玉のものがあります)。チャーリー・マンガーと同じように、ドンも中西部の男子としてありつづけました。情熱にあふれ、親しみやすく、アメリカ人そのものでした。


最後にあげるのがアジート・ジェインです。彼はインドで生まれて育ちましたが、わたしたちの次期CEOであるカナダ人のグレッグ・アベルと同じように、20世紀の終盤にオマハで何年間か暮らしていました。実際のところグレッグは1990年代に、我が家からファーナム通りに沿って数街区ばかり離れたところに住んでいました。ただしそのころに面識はなかったですが。


どうも、オマハの水には謎めいた成分が含まれているのでしょうかね。


*


I'll begin with Charlie Munger, my best pal for 64 years. In the 1930s, Charlie lived a block away from the house I have owned and occupied since 1958.


Early on, I missed befriending Charlie by a whisker. Charlie, 6 ⅔ years older than I, worked in the summer of 1940 at my grandfather's grocery store, earning $2 for a 10-hour day. (Thrift runs deep in Buffett blood.) The following year I did similar work at the store, but I never met Charlie until 1959 when he was 35 and I was 28.


After serving in World War II, Charlie graduated from Harvard Law and then moved permanently to California. Charlie, however, forever talked of his early years in Omaha as formative.  For more than 60 years, Charlie had a huge impact on me and could not have been a better teacher and protective "big brother." We had differences but never had an argument. "I told you so" was not in his vocabulary.


In 1958, I bought my first and only home. Of course, it was in Omaha, located about two miles from where I grew up (loosely defined), less than two blocks from my in-laws, about six blocks from the Buffett grocery store and a 6-7-minute drive from the office building where I have worked for 64 years.


Let's move on to another Omahan, Stan Lipsey. Stan sold the Omaha Sun Newspapers (weeklies) to Berkshire in 1968 and a decade later moved to Buffalo at my request. The Buffalo Evening News, owned by a Berkshire affiliate, was then locked in a battle to the death with its morning competitor who published Buffalo's only Sunday paper. And we were losing.


Stan eventually built our new Sunday product, and for some years our paper – formerly hemorrhaging cash – earned over 100% annually (pre-tax) on our $33 million investment. This was important money to Berkshire in the early 1980s.


Stan grew up about five blocks from my home. One of Stan's neighbors was Walter Scott, Jr.  Walter, you will remember, brought MidAmerican Energy to Berkshire in 1999. He was also a valued Berkshire director until his death in 2021 and a very close friend. Walter was Nebraska's philanthropic leader for decades and both Omaha and the state carries his imprint.


Walter attended Benson High School, which I was scheduled to attend as well – until my dad surprised everyone in 1942 by beating a four-term incumbent in a Congressional race. Life is full of surprises.


Wait, there's more.


In 1959, Don Keough and his young family lived in a home located directly across the street from my house and about 100 yards away from where the Munger family had lived. Don was then a coffee salesman but was destined to become president of Coca-Cola as well as a devoted director of Berkshire.


When I met Don, he was earning $12,000 a year while he and his wife Mickie were raising five children, all destined for Catholic schools (with tuition requirements).


Our families became fast friends. Don came from a farm in northwest Iowa and graduated from Omaha's Creighton University. Early on, he married Mickie, an Omaha girl. After joining Coke, Don went on to become legendary around the globe.


In 1985, when Don was president of Coke, the company launched its ill-fated New Coke.  Don made a famous speech in which he apologized to the public and reinstated "Old" Coke. This change of heart took place after Don explained that Coke incoming mail addressed to "Supreme Idiot" was promptly delivered to his desk. His "withdrawal" speech is a classic and can be viewed on YouTube. He cheerfully acknowledged that, in truth, the Coca-Cola product belonged to the public and not to the company. Sales subsequently soared.


You can watch Don on CharlieRose.com in a wonderful interview. (Tom Murphy and Kay Graham have a couple of gems as well.) Like Charlie Munger, Don forever remained a Midwestern boy, enthusiastic, friendly and American to the core.


Finally, Ajit Jain, born and raised in India, as well as Greg Abel, our Canadian CEO-to-be, each lived in Omaha for several years late in the 20th Century. Indeed, in the 1990s, Greg lived only a few blocks away from me on Farnam Street, though we never met at the time.


Can it be that there is some magic ingredient in Omaha's water?


2025年11月13日木曜日

バフェットからの最後の手紙(1)わたしが若かったころ

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バークシャー・ハサウェイのウォーレン・バフェットが、11/10(月)付けで最後のメッセージ「バフェットからの最後の手紙」を公開しました。その文章を順次ご紹介します。(日本語は拙訳) 

 ・Thanksgiving Message from Warren Buffett [PDF] (Berkshire Hathaway)

同志たる株主のみなさんへ、


今後わたしはバークシャーの年次報告書を書いたり、株主総会で延々とお話しすることはありません。英国人が言うように、わたしは「そっと退いていきます」。


まあ、そのような感じです。


この年末にはグレッグ・アベルが当社のトップとなります。彼はすばらしい経営者であり、疲れを知らぬ労働者でもあり、そしてものごとを正直に話してくれる人です。彼の任期が長くつづくことを願いましょう。


さて感謝祭をむかえるにあたり、この文章ではみなさんやわが子供たちにバークシャーの話をしたいと思います。バークシャーに投資しておられる個人投資家のみなさんは、とても特別な人たちの集まりで、自分の得た利益をあまり恵まれていない人たちへ贈るという点で、非常なまでに寛大な方ばかりです。そのようなみなさんと関わり続けてこられたことに満足しております。話の冒頭で少しばかり郷愁にふけることを、今年はどうか大目に見てやってください。そのあとに、わたしが保有するバークシャー株をどのように処分するのか、お話しします。そして最後に、ビジネスや個人的な見解をいくつか述べたいと思います。

 

* * * * * * * * * * * *


感謝祭の日が近づくにつれ、わたしは95歳まで生きてこられたことに感謝するとともに、驚きを覚えています。わたしが若かったころ、このような顛末をむかえるという考えに、分があるとは思えませんでした。当時のわたしは死の瀬戸際をむかえていたからです。


1938年当時にオマハにあった病院では、カトリックあるいはプロテスタントの二択によって市民を区分けしていました。当時はそれが自然な受けとめかたでした。


我が家のかかりつけ医だったハーリー・ホッツ先生は親しみやすいカトリック教徒で、黒色の医者用かばんを携えて往診してくれました。彼はわたしのことを「船長」と呼んでくれました。そして往診の際に多くは請求しませんでした。1938年に腹痛がひどかったときにホッツ先生がやってきて、ざっと診察した後に「明日の朝にはよくなっているよ」と言ってくれました。


その後、ホッツ先生は帰宅して夕食をとり、ブリッジを少々楽しんでいました。しかし、わたしを診察したときのいくぶんおかしな症状が頭から離れませんでした。そのため彼はその夜のうちに、わたしを急性虫垂炎の患者として聖カタリナ病院へ入院するように手配してくれました。わたしにとってそれからの3週間は、まるで女子修道院にいるかのようでした。そこで、新たな「演壇」を楽しむことにしました。その当時もわたしは話をするのが好きで、そんなわたしを修道女のみなさんは受け入れてくれました。


さらに小学3年生を受け持っていたマドセン先生は、クラスメート30名がそれぞれわたしへ手紙を書くように指示しました。たしか男子からの手紙は放り出しておき、女子からの手紙は繰り返し読んだかと覚えています。入院患者なりに役得があったわけです。


わたしの病気が回復するまでの最高潮といえば、麗しき叔母のイディーからもらった贈り物でした。ただし実のところ初週の過半は、どちらに転ぶかわからない病状ではありました。彼女は、実務で使えるほどの指紋採取器具をくれたのです。さっそくわたしは、面倒を見てくれていた修道女さんの指紋を片っ端から採取しました。(たぶんわたしは聖カタリナ病院があつかった初めての新教徒の子供だったのでしょう。だから何をしでかすか、あの人たちにはわからなかったのです)


これはもちろんまったくの世迷言ですが、「修道女のだれかがいつか悪事をおかす一方で、修道女たちの指紋採取を怠っていたとFBIは気づくはずだ」とわたしは推断していました。1930年代のアメリカ人は、FBIとその長官だったJ. エドガー・フーヴァーを崇めていました。わたしは、フーヴァー氏本人がオマハにやってきて、わたしが採取した価値ある指紋情報を調べるだろうと夢想していました。そして、その夢想はますます高ぶりました。エドガーさんとわたしが悪質な修道女をすぐに特定して逮捕するだろうと。そして国中から称賛の声があがるのも当然だと。


当たり前ですが、わたしの夢想が実現することはありませんでした。しかし皮肉なことに、わたしがフーヴァー氏の指紋を採取すべきだったことが 、何年か後になって明白となりました。それというのも、彼は地位を乱用して名声を失ったからです。


オマハの1930年代とはそのような時代でした。わたしや友だちが、橇(そり)や自転車、野球のグローブや電気仕掛けの電車を羨望していたころです。さてここからは、当時の他の子供たちがどんな様子だったのかを振りかえります。彼らのことは長い間知らずにおりましたが、我が家から実にご近所で生活し、のちにわたしの人生に多大な影響を及ぼした人たちのことです。


*

 

To My Fellow Shareholders:


I will no longer be writing Berkshire's annual report or talking endlessly at the annual meeting. As the British would say, I'm “going quiet.”


Sort of.


Greg Abel will become the boss at yearend. He is a great manager, a tireless worker and an honest communicator. Wish him an extended tenure.


I will continue talking to you and my children about Berkshire via my annual Thanksgiving message. Berkshire's individual shareholders are a very special group who are unusually generous in sharing their gains with others less fortunate. I enjoy the chance to keep in touch with you. Indulge me this year as I first reminisce a bit. After that, I will discuss the plans for distribution of my Berkshire shares. Finally, I will offer a few business and personal observations.


* * * * * * * * * * * *


As Thanksgiving approaches, I'm grateful and surprised by my luck in being alive at 95.  When I was young, this outcome did not look like a good bet. Early on, I nearly died.


It was 1938 and Omaha hospitals were then thought of by its citizens as either Catholic or Protestant, a classification that seemed natural at the time.


Our family doctor, Harley Hotz, was a friendly Catholic who made house calls toting a black bag. Dr. Hotz called me Skipper and never charged much for his visits. When I experienced a bad bellyache in 1938, Dr. Hotz came by and, after probing a bit, told me I would be OK in the morning.


He then went home, had dinner and played a little bridge. Dr. Hotz couldn't, however, get my somewhat peculiar symptoms out of his mind and later that night he dispatched me to St. Catherine's Hospital for an emergency appendectomy. During the next three weeks, I felt like I was in a nunnery, and began enjoying my new “podium.” I liked to talk – yes, even then – and the nuns embraced me.


To top things off, Miss Madsen, my third-grade teacher, told my 30 classmates to each write me a letter. I probably threw away the letters from the boys but read and reread those from the girls; hospitalization had its rewards.


The highlight of my recovery – which actually was dicey for much of the first week – was a gift from my wonderful Aunt Edie. She brought me a very professional-looking fingerprinting set, and I promptly fingerprinted all of my attending nuns. (I was probably the first Protestant kid they had seen at St. Catherine's and they didn't know what to expect.)


My theory – totally nutty, of course – was that someday a nun would go bad and the FBI would find that they had neglected to fingerprint nuns. The FBI and its director, J. Edgar Hoover, had become revered by Americans in the 1930s, and I envisioned Mr. Hoover, himself, coming to Omaha to inspect my invaluable collection. I further fantasized that J. Edgar and I would quickly identify and apprehend the wayward nun. National fame seemed certain.


Obviously, my fantasy never materialized. But, ironically, some years later it became clear that I should have fingerprinted J. Edgar himself as he became disgraced for misusing his post.


Well, that was Omaha in the 1930s, when a sled, a bicycle, a baseball glove and an electric train were coveted by me and my friends. Let's look at a few other kids from that era, who grew up very nearby and greatly influenced my life but of whom I was for long unaware.


2025年11月9日日曜日

おちょことバケツ(『新・バフェットの教訓』より)

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メアリー・バフェットなる人物らが著した本として、本書『新・バフェットの教訓』の以前の版は、過去に刊行されて流通してきました。その改訂版である本書を少し前に読んでみましたが、新味のある内容はこれといって目につきませんでした(節穴かもしれません)。そのためウォーレン・バフェットのことを継続的に観察してきた方々が、あえて手にとる類の本ではないと感じています。


そうは言いつつも、反省復習しながら一読できました。以下に引用した文は、経済や株式市場が現在のような状況にあるからこそ、(個人的に)心に刻んでおきたいと感じた言葉3つです。


 No. 12

我々にとって最高なことが起きるのは、

偉大な会社が一時的なトラブルに見舞われたとき……。

我々が買いたいのは、

手術台に横たわっているときの優良企業だ


No. 29

好機は稀にしか訪れない。

空から黄金が降ってきたときは、

おちょこではなくバケツで受け止めなさい


No. 31

株式市場とは、

忍耐力の低いものから高いものへ金[かね]を移転する装置である


2025年11月3日月曜日

日進工具(6157)、再訪

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わたしが当社(YahooJ株価)にはじめて投資したのは、2011年の東日本大震災のあとでした。精密微細加工用の工具を製造販売する当社のことはそれ以前から留意しており、震災がきっかけとなって株式を買い始めました(過去記事)。それ以降は2018年までの株価上昇の時期に一部を売却したものの(過去記事)、残りは継続保有してきました。


当社の業績はCovid-19以前にピークを付け、その後は現在まで下げ気味の横ばいをつづけている状況です。その当社が今回の決算発表(通期業績予想の下方修正)とあわせて、目を引く決定を発表しました。それは以下の2点です。


・自社株買いの実施

・プライム市場からスタンダード市場への市場変更


今回の文章では、これら3つの発表がどのように関わっているのか整理し、興味ぶかいと感じた点を記したいと思います。


<現在の業績>

まずは、今回発表された通期(2026年3月期)業績予想の下方修正にふれておきます。売上高は91億円(前期比3.1%減)、純利益が9.4億円(前期比25.7%減)と、利益面での大幅な業績悪化を発表しました。この利益水準は10年前を下回るもので、たとえば2016年3月期には売上高が83億円、純利益は13億円に達していました。さらにCovid-19禍が始まる前の2019年3月期にはピークをつけ、売上高は104億円、純利益は19億円を超えていました。


このところ利益が減少している要因には、売上高の減少だけでなく、販管費の増加もあげられます。粗利益率は比較的安定しているのに対して、10年前とくらべて従業員数は30%弱増加し、研究開発費も漸増しています。ただし間接部門の強化は次なる売上増を果たすのに不可欠でしょうし、事業の質を示す利益率自体はまだ高い水準にとどまっています。


売上減少の要因としては、直近数年間では自動車産業における認証不正問題やトランプ関税が影響大だと当社は説明しています。これらは一時的な要因とみてよいかもしれません。また競合企業からの圧力が高まっている側面もあり、こちらは永続的なリスクだといえます。


一方で前向きに評価したい推移としては、得意とする製品領域(6mm以下)の売上構成比増加や海外売上比率の増加があげられます。さらに今後の戦略としては、インド市場での拡販やさらに要求度の高い精密微細領域の市場開拓を掲げています。こういった要因を総合的に見渡したうえで、いまは当社を「今後の成長が見込めない残念な会社だ」と見切る段階ではないと、個人的には判断しています。


そして業績予想の下方修正を発表すると同時に、当社は以下の2点を発表しました。


<自社株買いの決定>

今月から2026年3月19日までの期間において、発行済株式数の約10%、金額は20億円までを上限とした市場買い付けを行うことを決議しました(引用元PDF)。だれしもが思いつくことですが、これは上記の下方修正を意識した決定だと受けとめることができます。悲観した売り注文を引き受けて、株価下落を和らげる狙いがあるのだろうと。ただし10%という規模はそれなりに目を引きます。ましてや、当社は創業者色が強いゆえ自社株買いに消極的だったので、なおさらです。


そこで、この自社株買いの規模がどの程度のものなのか計算してみます。当社集計によれば、今年9か月間の1日あたり平均株式売買金額は0.21億円とのことです。また来年3月19日までの営業日は約100日なので、仮にこれまでと同じペースで取引されたとしたら、売り注文の大多数を当社が買い取ってしまう帳尻になり(0.21 * 100 = 21)、株価形成の面で大きな影響力をもつでしょう。下方修正発表は平時のイベントではないので株式売買数が急増しがちですが、それでも平時のたとえば10倍程度におさまるのではないでしょうか。


なお当社には余剰資金が現在約100億円あるので、今回投じる20億円規模の自社株買いをさらに2回繰り返しても余裕があります。


<スタンダード市場への市場変更>

当社が現在所属しているプライム市場から、11月7日付をもってスタンダード市場へ市場変更すると発表しました(引用元PDF)。これは自主的な判断によるもので、強制的に変更されるものではありません。かつてジャスダック市場に所属していた当社がプライム所属を経てスタンダードへ移ることは、単純にみると悲観的な状況にも思えます。しかしこの件は上述した動きと関連しており、以下にときほぐしてみたいと思います。


(当社発表資料より)


今回の決定に至ったのは言うまでもなく、プライム市場の基準を維持できなくなるリスクがあるからです。まずは「1日あたり平均売買金額」について。現在は0.21億円であり、上場維持基準0.20億円に肉薄しています。株価が上昇するか、市場での人気が高まって売買件数が増加すれば回復できる数字ではあります。しかし当社が採用している株主優待政策は長期保有の個人投資家を優遇しており、それが売買機会の停滞を招き、結果的に裏目に出ている見方もできます。一方のスタンダード市場については、この基準は設けられていません。


さらに「流通株式時価総額」については現在109億円であり、上場維持基準の100億円に近づいています。こちらも株価が上昇すれば回復できますが、それを期した自社株買いをすすめてしまうと流通株式数が減少するジレンマが待っています。しかしスタンダード市場へ変更することで、この制限は大幅に緩和されます(上場維持基準10億円)。つまり当社が自社株買いをすすめる以上、スタンダード市場へ変更したほうが目の前の株価を意識する必要がなくなります。


スタンダード市場への変更を悲観的にとらえた投資家が株式を売却する可能性もあります。それを考慮してか、当社は大口投資家(たとえば5%超の保有者には、フィデリティともう1社あり)に配慮し、立会外取引も応相談としています。それ以外にも単なる狼狽売りや投げ売りが発生することも想定されますが、10%の自社株買いの側に立つ者(すなわち継続株主)としては、安値を歓迎します。


最後に「流通株式比率」で、現在55.92%です。創業者一族は当社株式の多くを保有しており(おそらく33.4%超)、自社株買いを大規模に進めると流通株式が減って上場維持基準35.00%に近づいてしまいます。この点でもスタンダード市場のほうが要件が緩やか(25%)であり、当社の現状に合致するという意味ではスタンダード市場のほうが望ましいといえます。


このように、「業績見通しを下方修正することで予期される株価下落に対して、自社株買いを発表するとともに、スタンダード市場への変更を必然とし、それがさらなる株価下落を呼べば、自社株買いの価値がもっと高まる」、この関連構造が今回発表の興味深い点です(うまくいくかは別として)。


<おわりに>

先述したように、当社が現在保有する余剰資金は約100億円なので、今回の自社株買いによる株価訂正幅が小さければ、来年度以降も自社株買いを実施することが期待できます。当社も今回の発表文の中でその旨を示唆しています。たとえば現発行済株式数の5%規模であれば、自社株買いに必要な資金は10億円であり、今回以降に4年間継続しても余剰資金は十分に残っています。そしてそれだけの期間があれば、当社の製品である切削工具の市場が好転したり、拡販努力が実ったりすることで、業績が回復成長する可能性もあります。つまり株価上昇につながるダブルプレー達成の可能性も、それなりにあるでしょう。


その一方で、創業者一族たる経営陣がこのような株主還元を継続遂行したとしても、市場が当社の価値を評価しない事態も考えられます。その際には当社経営陣によるMBOのリスクが高まることを忘れてはならないでしょう(非上場企業となる不利益もありますが)。そもそも100億円の余剰資金があり、10億円近くの利益をあげるニッチトップの企業が190億円で売りに出されている現状をみて、見逃したい人がいるのでしょうか。だから経営陣はその好機を見送る代わりに、当社の資金を使って当社の株を買う道を選んだ、そう考えることもできます。このシナリオが実現する場合、MBOを実行する前の株価が安いうちに残りの株数を(できれば上限寸前まで)減らせるわけですから、合理的な道筋をたどっているといえます。このことも、わたしが興味を抱いた点です。