ot
ラベル 科学者のやり方 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 科学者のやり方 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年9月20日木曜日

ミクロがわかってもマクロがわかるとは言えない(『次なる金融危機』)

0 件のコメント:
次なる金融危機』という本を読みました。本書の主張をまとめると、「家計部門や企業(除金融)部門の債務が、GDPと比較して高い割合へ上昇するほどに、経済危機を招きやすく、かつ回復も遅れる」というものでした。主流の経済学派からは大きく逸れた見解らしいですが、一市民としての感覚からすれば納得できる仮説だと感じました。なお同書の著者は、過剰債務がみられる国として中国などを挙げ、大きな揺り返しがやってくること必至と予測しています。

その本題とは別に、同書から今回ご紹介するのはハード・サイエンス関連の話題です。本ブログで取り上げる話題のひとつに、「ものごとを分析する際には還元的に捉えよ」というものがあります。その「還元的分析」に関して注意をうながすような文章がありましたので、引用します。

以上のようなわけで、ミクロ経済学からマクロ経済学を導くことはできない。だが、だからといって、ブランシャールが言うように、広く受け容れられてきた分析的マクロ経済学の核心、つまりその検討と展開の場が、夢想かもしれないことを意味しない。すべての経済学者が賛成する基礎から出発して、マクロ経済学を導き出す道が存在するのだ。だが、実際にその道を進むには、これまで主流派が避けてきた考え--複雑性を受け容れねばならない。

高い層の現象を低い層のシステムから直接的に推定するのは不可能だという発見は、今では純正な科学では共通の認識だ。それが複雑なシステムにおける、いわゆる「創発(エマージェンス)だ。 [参考記事]

ひとつの複雑システムの支配的な諸性質は、考えられた単独の要素の性質よりも、むしろ要素の相互作用に由来する。(中略)

(マクロ経済学のような)高いレベルの現象は(ミクロ経済学のような)低いレベルの現象から導き出され得るし、また導き出されねばならない、という信念の誤りについては、1972年--ルーカスが講演するよりも前に--ノーベル物理学賞受賞者のフィリップ・アンダーソンがつぎのように述べていた。

「この種の考えの主な誤りは、還元主義的な仮説が決して『構築主義的』な仮説を意味しないことだ。あらゆる事柄を単純な法則に還元できる能力は、そうした法則から出発して宇宙を再構築する能力を意味しない」

アンダーソンは、物理学で、とくに「ミクロ」から「マクロ」へと延ばす(外挿する)態度を排斥した。そうした排斥が素粒子の振る舞いにあてはまるならば、人間の行動にはどれほど多く応用されねばならないのだろうか。

「素粒子の大きな複雑な集合体の振る舞いは、少数の粒子の性質の単純な外挿として理解されるべきではない、ということが分かる。そうではなくて、複雑性のそれぞれのレベルにおいて、新しい性質が現れるのだ。だから、新しい振る舞いの理解には、他の場合と同じように、その性質について私が基本的と思う研究を必要とする」

アンダーソンは、科学には階層が存在するという考えをすすんで受け容れた。つまり、諸科学をほぼ直線的に階層として配列できるというわけだ。その着想に従えば、「科学Xの基本的存在は、科学Yの法則に従う」(表1を参照)。しかし、彼は、X欄のどの科学もY欄の相当する科学の応用版として扱えるという考えを排斥した。

表1
XY
固体物理学もしくは多体物理学素粒子物理学
化学多体物理学
分子生物学化学
細胞生物学分子生物学
......
心理学生物学
社会科学心理学

「だが、この階層は、科学Xは『単なる応用Y』を意味するのではない。各段階でまったく新しい法則、考え、一般化を要する。それにはインスピレーションや創造性が、前段階と同じ程度に必要だ。心理学は応用生物学ではなく、生物学は化学の応用ではない」(p. 28)

なお本書の主張は冒頭に示したとおりですし、引用文を読まれてお気づきと思われますが、本書を読むために自腹で購入する必要はないと思います。あくまでも個人的な意見ですが。

2018年8月30日木曜日

(解答)なぜリスは周囲に危険を告げるのか

0 件のコメント:
前回の投稿で取り上げたリスの問題に対する解答部です。引用元の本は『広い宇宙に地球人しか見当たらない75の理由』です。

リスの行動は、その声が意味論的情報を伝えないとした場合にのみ意味をなす。リスの「タカ警報」を考えてみよう。まず、それはぴいーっという高い音の声だ--実験が明らかにしたところでは、タカはその位置を特定しにくい。つまりリスは自分の位置についてタカにはほとんど知らせていないのだ。次に、自分だけが遮蔽物に向かって逃げると、かえって目立つ。一群のリスが一斉に逃げ回る中の1匹でいる方がよい。タカに目をつけられる可能性が小さくなるからだ。同様に、高い鳴き声を聞いて遮蔽物を求めて逃げるリスは、その場に立っているリスよりタカに食べられる可能性は低い。つまり淘汰はタカを察知したときに声を上げるリス、また高い声を聞いたときに遮蔽物目指して逃げるリスの方に有利に作用する傾向がある。人類がこの状況を見るとき、われわれはリスが情報を伝えていると解釈する。しかしそうなっているわけではない。この行動は単純に、有効だからということで世代を超えて伝えられる形質にすぎない。この種の行動が進化するには、リスがお互いの行動を知っている必要もない。単語も言語もない。ただ進化の力があるだけだ。(p. 464)

2018年8月28日火曜日

(問題)なぜリスは周囲に危険を告げるのか(『広い宇宙に地球人しか見当たらない75の理由』)

0 件のコメント:
少し前の投稿で取りあげた『広い宇宙に地球人しか見当たらない75の理由』の文章から、もう1点ご紹介します。今回の内容はリスの生態に関するパラドックス的な問題です。この手の問題を解くには該当分野におけるミクロな専門知識が欠かせないと考えがちですが、例によってチャーリー・マンガー的な取り組みをすれば、きれいに答えを出せるかもしれません。次回の投稿で解答部をご紹介しますので、どうぞお考えになってください。

なお私自身の成績ですが、あいにく今回はよく考えずに文章を読み進めてしまったので、0点です。もったいない読書の仕方だと反省しました。

事象についての当初の解釈が間違っているかもしれない例を一つだけ挙げよう。開けた土地に住むジリス(地上生活をするリス)のいくつかの種にとっては、2種類の捕食者がいる。スピードに任せて空中から襲ってくるタカと、地上でこっそりと忍び寄って襲ってくるアナグマだ。リスが捕食者を察知すると、二つの防御方式のいずれかを選ぶ(もう擬人的な言い方をしている)。アナグマを察知すると、巣穴の入り口まで戻って直立姿勢を維持する。アナグマはその姿勢を見て、リスはそのアナグマを察知しているので、襲っても時間とエネルギーの無駄だということを知る。タカを察知したときは、直近の遮蔽物に向かってまっしぐらに走る。リスは2種類の警戒音も出す。アナグマの場合は、粗い、かたかたという音を立て、タカの場合は、高い、ぴーいーという音を出す。近辺の他のリスはこの音を聞いて、アナグマ警報なら巣穴に戻り、タカ警報なら遮蔽物に向かって走る。人はまずあたりまえのように、リスは声をかけ合って、要するに「注意しろ、あたりにアナグマがいるぞ、巣に戻った方がいい」とか「あっ、タカだ、そこから逃げろ」とかのことを言っているのだと思うものだ。しかしそうなのだろうか。

捕食者を察知しての個々のリスの行動が示すように、いずれのリスも、関心は自らの身を守ることにある。実際、進化論はそうならざるをえないことを言う。リスは知り合いの運命を気にしてはいられないだろう。しかしリスの警戒音が意味を持つ情報を伝えるとすれば--リス語で「アナグマだ」とか「タカだ」と声を上げているとすれば--パラドックスにぶつかる。淘汰で有利になるのは、黙ってこそこそと逃げて、他のお人好しが食べられるようにするリスの方だろう。声を上げる集団の中の声を上げない個体が淘汰では有利で、そういうリスが自分の遺伝子を伝える。しかしそれではすぐに、声を上げないリスばかりの集団になるはずだ。声を上げる本能はどこから生じるのか。(p. 463)

2018年8月16日木曜日

人類の余命(『広い宇宙に地球人しか見当たらない75の理由』)

0 件のコメント:
最近読み終えた本『広い宇宙に地球人しか見当たらない75の理由』は、個人的には引きこまれてしまう類の本で、全編をとおして楽しんで読めました。本書では、異星人(本書では地球外文明、ETCと記す)の存在を裏付ける現実的証拠がまだみつからない理由について、さまざまな分野からあげられた説明を科学的かつわかりやすく再構成しています。また14年前に刊行された邦訳の増補改訂版ということで、新しい科学的発見や知見が盛り込まれています。さらには、それぞれの理由に対して著者自身の見解が付け加えられています。話題は物理学にとどまらず、ハードサイエンスの各部門(地球科学、生物学、化学)や数学そしてSF小説に及んでおり、そういった専門用語の訳文の正確さも十分だと感じました(単純な校正モレは散見されます)。ただし「人類や地球生物の未来は、多難で暗いものである」と繰り返し説明されるので、心配が募りやすい方にはお勧めできません。

今回ご紹介するのは、本書で取り上げられていた思考法についてです。この「デルタt論法」と呼ばれる思考法は単純ながらも強力で、読んでいて感心の一言でした。ただし個人的に感銘を受けた点は、この論法自体や具体的な効力ではなく、ものごとを形而上的にとらえてモデリングする能力のほうです。

1969年、学生時代のリチャード・ゴットはベルリンの壁を訪れた。休暇でヨーロッパ旅行をしている途中で、ベルリンの壁を見に行くのも予定の一つだった。その前にはたとえば4000年前にできたストーン・ヘンジを見て、それにふさわしい感動を得た。ベルリンの壁を見たとき、この冷戦の産物はストーンヘンジほど長い間立っているのだろうとかと思った。冷戦時代の外交戦略の詳細に通じ、両陣営の相対的な経済力・軍事力を知る立場にあった政治家なら、根拠のある推定をしたかもしれない(政治家の実績から判断すれば、それは間違っていただろうが)。ゴットにはそんな専門知識はなかったが、次のような推論をした。

まず、自分がいるのは、壁が存続している間のランダムな時点だ。壁が築かれる(1961年)のを見ているのではなく、壁が壊されるのを見ているのでもない(今は1989年にそうなったことはわかっているが)。ただ休暇でそこにいただけだ。したがって、壁が立っている期間を4つに分けたまん中の2つ分の間に壁を見ている可能性が50パーセントだと推論を進めた。自分がその期間の最初にいるなら、壁は寿命の4分の1の間存在しており、まだ4分の3の寿命が残っていることになる。言い換えると、壁はこれから、すでに存在している期間の3倍の期間続くことになる。自分がそこにいるのが同じ期間の最後だとしたら、すでに寿命の4分の3が経過しており、残りは4分の1だけとなる。言い換えると、壁がこれから存在しつづけるのは、これまで存在してきた期間の3分の1だけだということだ。ゴットが見たときの壁は、できて8年だった。そこで1969年夏のゴットは、壁はあと2年と3分の2(8*1/3)から24年(8*3)立っている可能性が50パーセントあると予想した。あのテレビの劇的な映像を見た人なら思い出すように、壁が壊されたのは、ゴットが訪れてから20年後のことだった--予測の範囲内に収まる。(中略)


物理学で予測をするときは、50パーセントの可能性ではなく、95パーセントの可能性で考えるのが標準となる。ゴットの論法はそのまま使えるが、数字が少し変わる。自分が何かの事物を見ていることに特別のことがない場合、その事物はその時点での年齢の39分の1から39倍の間続く可能性が95パーセントある。(p. 276)

デルタt論法を使ってコンクリートの壁や人間関係の寿命を推定するのは楽しいが、それはもっとゆゆきしきことの推定にも使える。ホモ・サピエンスの余命だ。人類は誕生して17万5000年ほど。ゴットの規則を適用すると、人類の残りの寿命はおよそ4500年から680万年である可能性が95パーセント。それからすると、人類の寿命は18万年ないし700万年程度ということになる(哺乳類に属する種の平均寿命は200万年ほどと言われる。いちばん近い近縁種のネアンデルタール人は20万年だったらしい。やはりヒト科に属し、人類の直接の祖先かもしれないホモ・エレクトゥスは、140万年続いたかもしれない。するとゴットの推定は、種の寿命についても、確かにおおよそは正しいと言える)。(p. 278)

蛇足ですが、この手の話題を進めると「地球外への移住」にも行きつきますが、そこで思い当たるのはやはりイーロン・マスクです(過去記事)。最近は欠点が目立つようになってきましたが、新たな世界を切り開けるのは彼のような変人だろう、と個人的には考えています。「世界を動かすのは凡人であり、世界を変えるのは変人である」というのが私の持論です。なお「変人」という言葉に語弊を感じられる方は、「神経発達症を強く有している者」と読みかえてください。

2018年2月12日月曜日

問題解決の技法(6)逆から考えよ(クロード・シャノン)

0 件のコメント:
数学者クロード・シャノンが行った問題解決に関する講演について、最終回です。今回の話題は本ブログでよく取り上げるものですが(ラベル「逆にやる」を参照ください)、いつもとは別の天才が取り上げていることでも、その威力がうかがえます。前回分はこちらです。なお、意味段落での改行を追加しました。(日本語は拙訳)

もうひとつ触れておきたいやりかたがあります、数学上の研究をする際にたびたび出くわすものですが、問題を逆向きに考える方法です。ある前提条件Pに基づいて解Sを求めようとして、煮詰まっているとしましょう。そのとき、その問題を反転させて、「解Sは問題を解く上での所与の定理や公理、あるいは定数である」と仮定するのです。その上で、前提条件Pを求めるための術を考え出します。それが正しいやりかただと想像してみてください。するとその方向から問題を解くほうが、かえって易しいことに気づくかと思います。適切で単刀直入な道筋がみつかります。そうだとすれば、その問題を小さく分割した個々において、同じように考えることも多分に可能でしょう。別の例で言えば、たとえば印をつけた道筋がこうあって、このように中継していく点があちらへ続いているとします。そのとき、小さな段階ごとに反転させるやりかたがとれるでしょうから、証明するまでの困難な段階はおそらく3つか4つで済むものと思います。

設計の作業でも、同じことができると思います。私はコンピューターを設計することが時折あり、その種類は多岐にわたりました。そのなかで、ある所与の数量をもとに、ある数を計算させたいと考えたものがありました。それは「ニム」という名の石取りゲームを実行する機械となりますが、実に難しい仕事だとわかりました。この種の計算は実現可能ではあるものの、極めて多数のリレー[継電器]が必要になります。しかし「問題を反転させたらどうなるか」と考えた結果、もし所与のものと望まれる結果を入れ替えれば、至極簡単に実現できることがわかりました。さらにその考え方を発展させ、フィードバックを使うようにしました。そうすることで当初よりもずっと単純な設計になりました。つまり望まれる結果を起点にして戻ってくる際に、所与の入力値に合致するまでその値を使い続けるわけです。ですからその機械の内部では、利用者が実際に入力した数を得るまでは、さらにはPに照らした際に正しい手順である数に達するまでは、複数の数値を含む範囲Sをとりつつ、逆方向から動作しています。

このように、さきに触れた思想に基づいて解を求める方法を説明しましたが、大多数のみなさんにはひどく退屈だったのではないでしょうか。そこで、本日持参したこの装置をお見せしたいと思います。今回お話しした設計に関連する問題が、一つ二つ仕込んであります。これまでお話ししてきたことが反映してあると思いますので、この周りに集まってごらんになってください。この机の周りにみなさんが一度に集まれるかどうかは、何とも言えませんが。(おわり)

Now one other thing I would like to bring out which I run across quite frequently in mathematical work is the idea of inversion of the problem. You are trying to obtain the solution S on the basis of the premises P and then you can’t do it. Well, turn the problem over supposing that S were the given proposition, the given axioms, or the given numbers in the problem and what you are trying to obtain is P. Just imagine that that were the case. Then you will find that it is relatively easy to solve the problem in that direction. You find a fairly direct route. If so, it’s often possible to invent it in small batches. In other words, you’ve got a path marked out here - there you got relays you sent this way. You can see how to invert these things in small stages and perhaps three or four only difficult steps in the proof.

Now I think the same thing can happen in design work. Sometimes I have had the experience of designing computing machines of various sorts in which I wanted to compute certain numbers out of certain given quantities. This happened to be a machine that played the game of nim and it turned out that it seemed to be quite difficult. If [typo for It?] took quite a number of relays to do this particular calculation although it could be done. But then I got the idea that if I inverted the problem, it would have been very easy to do - if the given and required results had been interchanged; and that idea led to a way of doing it which was far simpler than the first design. The way of doing it was doing it by feedback; that is, you start with the required result and run it back until - run it through its value until it matches the given input. So the machine itself was worked backward putting range S over the numbers until it had the number that you actually had and, at that point, until it reached the number such that P shows you the correct way.

Well, now the solution for this philosophy which is probably very boring to most of you. I’d like now to show you this machine which I brought along and go into one or two of the problems which were connected with the design of that because I think they illustrate some of these things I’ve been talking about. In order to see this, you’ll have to come up around it; so, I wonder whether you will all come up around the table now.

2018年1月16日火曜日

問題解決の技法(5)構造化せよ(クロード・シャノン)

0 件のコメント:
数学者クロード・シャノンが行った問題解決に関する講演について、5回目の投稿です。冒頭は単純な話題のように読めますが、読み進めるともっと奥行きがある話題だと感じました。前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

次に申し上げられるのは、「問題を構造的に分析する」という考えです。たとえばある問題に対して、解がこうあるとしましょう。その場合、大きな跳躍が二度必要となるかもしれません。そのときには、大きな跳躍を多数の小さな跳躍に分割するやりかたが考えられます。一連の公理に基づいて、ある定理や結論を証明しようとするとき、それを一息に証明しようとしても、私の手には余るかもしれません。しかし、いくつかの下位的な定理や命題を描き出すことはたぶんできますので、それゆえにそれらを証明できれば、やがては当初の解へと到達できるでしょう。言い換えればこうなります。まず下部に位置する一連の解1,2,3,4などを以て、この領域を歩む道を用意します。そしてあるものを基礎として次のものを証明してみます。さらに、証明の済んだものを基礎として、その次を証明できるか試みます。最終的な解Sへつながる道に至るまで、この作業をつづけるわけです。

数学の世界では実際のところ、極端なほど遠回りな手順を踏んで見いだされた証明がたくさんあります。ある定理から証明に取りかかった人が、あちこちへとさまよっている自分に気づきます。問題解決に乗り出したその人は、良好ながらも次につながらないと思える結果を数多く証明していきます。しかしやがては、与えられた問題に対する解へつながる裏口に行きつくことになります。そうなったとき、つまり解を見つけたときに、[解への道筋を]容易に単純化できることが非常によくあります。「ある段階でここを近道していたとすれば、今度はあちらを近道できるかもしれない」というわけです。

設計の仕事においても同じことが言えます。あきらかに扱いにくく厄介なものごとを行う方法を設計できる場合でも、非常に多くの能力が必要とされることがあります。しかし自分で操れるものやしっかりと握れるものを手にできれば、その問題を小要素に分割しはじめることができ、実のところある部分は余計だということもわかるでしょう。そもそもからして、それらは必要のないものだったのです。

Next one I might mention is the idea of structural analysis of a problem. Suppose you have your problem here and a solution here. You may have two big a jump to take. What you can try to do is to break down that jump into a large number of small jumps. If this were a set of mathematical axioms and this were a theorem or conclusion that you were trying to prove, it might be too much for me try to prove this thing in one fell swoop. But perhaps I can visualize a number of subsidiary theorems or propositions such that if I could prove those, in turn I would eventually arrive at this solution. In other words, I set up some path through this domain with a set of subsidiary solutions, 1, 2, 3, 4, and so on, and attempt to prove this on the basis of that and then this one the basis of these which I have proved until eventually I arrive at the path S.

Many proofs in mathematics have been actually found by extremely roundabout processes. A man starts to prove this theorem and he finds that he wanders all over the map. He starts off and prove a good many results which don’t seem to be leading anywhere and then eventually ends up by the back door on the solution of the given problem; and very often when that’s done, when you’ve found your solution, it may be very easy to simplify; that is, to see at one stage that you may have short-cutted across here and you could see that you might have short-cutted across there.

The same thing is true in design work. If you can design a way of doing something which is obviously clumsy and cumbersome, uses too much equipment; but after you’ve really got something you can get a grip on, something you can hang on to, you can start cutting out components and seeing some parts were really superfluous. You really didn’t need them in the first place.

2017年12月24日日曜日

問題解決の技法(4)一般化せよ(クロード・シャノン)

0 件のコメント:
数学者クロード・シャノンが行った問題解決に関する講演について、4回目の投稿です。前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

研究活動を行う際に役立つ思考上の工夫としては、他には一般化があると思います。特に数学上の研究では威力を発揮します。「隔絶した特殊な結果を証明する」、そのような形で発展した代表的理論、とりわけ定理に取り組む人は、まず一般化から始めるものです。N次元で考える前には2次元で試すでしょうし、ある種の代数の問題であれば、普遍代数学の領域で考えるものです。実数の領域に関することであれば、普遍代数やその類の領域へ移って考えるでしょう。このことさえ忘れずに実行すれば、実際はたやすく取り組めます。なにか答えを見つけたときには、ただちに「もっと一般化できないか」と自問することです。「より多くを含んだ広範な記述ができないだろうか」と。思うに、工学の分野でも同じように留意されるべきです。賢明な方法で何かを達成した人があらわれたら、それをみて次のように自問するのがよいでしょう。「同じ原則をもっと一般的な形で適用できないだろうか。この巧妙なアイデアを同じように使って、もっと幅広い範疇のさまざまな問題を解決できないだろうか。この特定のことを使える領域が、どこか他にないだろうか」と。

Another mental gimmick for aid in research work, I think, is the idea of generalization. This is very powerful in mathematical research. The typical mathematical theory developed in the following way to prove a very isolated, special result, particular theorem - someone always will come along and start generalization it. He will leave it where it was in two dimensions before he will do it in N dimensions; or if it was in some kind of algebra, he will work in a general algebraic field; if it was in the field of real numbers, he will change it to a general algebraic field or something of that sort. This is actually quite easy to do if you only remember to do it. If the minute you’ve found an answer to something, the next thing to do is to ask yourself if you can generalize this anymore - can I make the same, make a broader statement which includes more - there, I think, in terms of engineering, the same thing should be kept in mind. As you see, if somebody comes along with a clever way of doing something, one should ask oneself "Can I apply the same principle in more general ways? Can I use this same clever idea represented here to solve a larger class of problems? Is there any place else that I can use this particular thing?"

「一般化」というアイデアをチャーリー・マンガーの言葉に置き換えるとすれば、「ハードサイエンスにおけるエートス」がうってつけのように思います。(過去記事1, 過去記事2)

2017年12月12日火曜日

問題解決の技法(3)異なる観点から見つめよ(クロード・シャノン)

0 件のコメント:
数学者クロード・シャノンが行った問題解決に関する講演について、3回目の投稿です。前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

対象となっている問題に迫る方法として他に考えられるのは、できるだけ異なった形式でその問題を記述しなおしてみることです。たとえば言葉を変えてみたり、視点を移動させたり、可能な限りあらゆる角度から見つめたりします。そうすることで複数の角度から同時に、問題を凝視できるようになります。それによって、その問題における本当に基本的な部分が見通せるようになり、重要な諸要因を結びつけることで解を導き出せるでしょう。このやりかたを実行するのは実のところむずかしいのですが、大切なことです。もしそうしなければ、思考の轍(わだち)へと容易にはまってしまうからです。問題に取り組み始めた地点から円周上をずっと回ってきて、ここまでたどり着けさえすれば、先が見通せるようになるかもしれません。しかしそれでは、「問題をみつめる際のある種のやりかた」に縛りつける思考上の障害物から離れられません。それがために、当該の問題に関する新参者があらわれたときに、先に述べたようなやりかたで解を見つけてしまう例が非常によくみられます。一方で問題に取り組んでいた本人は、何か月にもわたる苦労の末に解を見出した次第です。新人のほうはその問題を新鮮な視点からみつめたのに対して、本人のほうは思考の轍へとはまっていたのです。

Another approach for a given problem is to try to restate it in just as many different forms as you can. Change the words. Change the viewpoint. Look at it from every possible angle. After you’ve done that, you can try to look at it from several angles at the same time and perhaps you can get an insight into the real basic issues of the problem, so that you can correlate the important factors and come out with the solution. It’s difficult really to do this, but it is important that you do. If you don’t, it is very easy to get into ruts of mental thinking. You start with a problem here and you go around a circle here and if you could only get over to this point, perhaps you would see your way clear; but you can’t break loose from certain mental blocks which are holding you in certain ways of looking at a problem. That is the reason why very frequently someone who is quite green to a problem will sometimes come in and look at it and find the solution like that, while you have been laboring for months over it. You’ve got set into some ruts here of mental thinking and someone else comes in and sees it from a fresh viewpoint.

今回の説明は、今さらながら合点のいく文章でした。「問題とは、手持ちの道具では容易に解決できないもののことである。だからこそ問題を解決するには、両者の関係性を変えることが有効的だ」、個人的にはそう受けとめました。問題のほうを取り換える方法としては、第1回目の説明であったように単純化したり、今回の説明のように違う視点でとらえるやりかたが考えられます。他方、手持ちの道具を取り換えるためには、他の領域や分野から道具を借りてくることになるでしょう(参考記事1, 参考記事2)。

クロード・シャノン氏のこの講演は気軽に訳し始めたので、これほど楽しめるとは思いもしませんでした。チャーリー・マンガーの教えと照らし合わせながら読み込んだことで、これまで気づけなかったものごとの本質を浮かび上がらせてくれました。

2017年11月24日金曜日

問題解決の技法(2)よく似た問題をさがせ(クロード・シャノン)

0 件のコメント:
数学者クロード・シャノンが行った問題解決に関する講演について、2回目の投稿です。前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

(前項と)非常によく似た手順ですが、似たような既知の問題を探るやりかたもあります。これは、次のように図式的に言い表せると思います。まず、自分の抱えている問題Pに対して、おそらく未発見の解Sがあるとします。その領域に携わり経験を積んでいれば、ある程度似ている問題P'とそれに対する発見済の解S'について、見聞きしたことがあるでしょう。そうとなれば、あとはP'とPの間にある類似性を見つけた上で、同じ類似性をS'とSの間に見出し、取り組んでいる問題に対する解へと立ち戻ればよいだけです。そもそも成すべきことはそれだけなのかもしれません。経験を積んでいれば、すでに求められた何千もの解を知っているものです。当該領域における経験が必要なのは、それがためなのです。頭の中にP'やらS'やらが散り散りとであれ満たされていれば、取り組んでいる問題Pに対してある程度近いものを見つけられますし、つづいて解Sに似たS'へと向きを変え、やがてはSへと立ち戻れるわけです。どのような類の思索をめぐらす場合でも、大きな跳躍を1回果たすよりは、小さな跳躍を2回重ねるほうがずっと容易だと思います。

A very similar device is seeking similar known problems. I think I could illustrate this schematically in this way. You have a problem P here and there is a solution S which you do not know yet perhaps over here. If you have experience in the field represented, that you are working in, you may perhaps know of a somewhat similar problem, call it P', which has already been solved and which has a solution, S', all you need to do - all you may have to do is find the analogy from P' here to P and the same analogy from S' to S in order to get back to the solution of the given problem. This is the reason why experience in a field is so important that if you are experienced in a field, you will know thousands of problems that have been solved. Your mental matrix will be filled with P's and S's unconnected here and you can find one which is tolerably close to the P that you are trying to solve and go over to the corresponding S' in order to go back to the S you’re after. It seems to be much easier to make two small jumps than the one big jump in any kind of mental thinking.

今回の話題は昨今の表現で言うところの「パターンの再利用」であり、わかりやすい話題だったかと思います。一方、この手の話が登場すると即座に思い返されるのが、チャーリー・マンガーの説く「学際的メンタル・モデル」です(過去記事多数)。上の文章では類似性を見つける際に「特定の領域」と限定していますが、チャーリーの場合は領域を超えた類似性の存在に焦点を当てています。おそらくシャノン氏は聞き手にとって理解しやすい水準に話題を設定したものと思われますが、スケール(規模)の面でチャーリーの主張と補完的なところがおもしろいと感じました。シャノン氏の主張は同程度のスケールでみられる類似性の水平的繰り返しと読める一方で、チャーリーの主張は異分野すなわち別のスケールに対して適用すべき垂直的繰り返し(フラクタル)と受けとめることもできます。単なる個人的解釈にすぎませんが、チャーリーの哲学をまた一歩理解できたような気がしました。

2017年11月12日日曜日

問題解決の技法(1)単純化せよ(クロード・シャノン)

2 件のコメント:
クロード・シャノンという人物の名前は、ITや工学を専門としている方であれば見聞きしたことがあるかと思います。彼がどの領域で業績を残したのか、私自身はその程度しか知りませんでしたが、たまたま彼の講演記事を目にして興味を持つようになりました。今年の夏に刊行された伝記『A Mind at Play』が好評のようで、その流れで彼の業績や発言が見直され、めぐりめぐってここに至ったことになります。

今回からの一連の投稿では、その講演で取り上げられた「問題解決に使える考え方」の各々について、拙訳付きでご紹介します。なお原文テキストは、以下のサイトを参照しました。

Creative Thinking (Claude Shannon at Bell Lab. March 20, 1952)

まずはじめにお話ししたいのは、「単純化」という考え方です。解決すべき問題はどのような種類のものでもかまいません。たとえば、機器の設計や物理学上の理論構築、数学における定理の証明といった種類のものが挙げられます。「そういった問題からあらゆることを排除しつつ、本質となる部分だけを残すように努める」やりかたが、きわめて有効的だと思います。つまり、大きさを切り詰めるわけです。取りくむ問題がなんであっても、本質的でないあらゆるたぐいのデータがある程度つきまとい、混乱のもととなっていることがほとんどです。そこで、その問題をいくつかの主たる論点へと落とし込めれば、何をやろうとしているのかいっそう明確に理解できるようになり、おそらくは解をみつけられることでしょう。それがために、追究していた問題を剥ぎとることになるかもしれません。当初とりくんでいた問題とは似つかない場所にまで単純化するかもしれません。しかし多くの場合において、単純な問題の解を出せたことで、最初に取りくんでいた問題に対する解に到達するまで、解を洗練させていくことができるものです。

The first one that I might speak of is the idea of simplification. Suppose that you are given a problem to solve, I don’t care what kind of a problem - a machine to design, or a physical theory to develop, or a mathematical theorem to prove, or something of that kind - probably a very powerful approach to this is to attempt to eliminate everything from the problem except the essentials; that is, cut it down to size. Almost every problem that you come across is befuddled with all kinds of extraneous data of one sort or another; and if you can bring this problem down into the main issues, you can see more clearly what you’re trying to do and perhaps find a solution. Now, in so doing, you may have stripped away the problem that you’re after. You may have simplified it to a point that it doesn’t even resemble the problem that you started with; but very often if you can solve this simple problem, you can add refinements to the solution of this until you get back to the solution of the one you started with.

この手の話題は本ブログでくりかえし取り上げています。言うまでもないかもしれませんが、そこには二つのねらいがあります。第一に、卓越した人物が共通して取りあげる話題はなおさら重要だ、と再認識すること。第二に、重要なことはそらで言えるようになり、日常的に使いこなせること(過去記事の例1例2)。個人的には、第二のほうが「言うは易く行うは難し」のままです。

2015年6月14日日曜日

創発とは(『わたしはどこにあるのか』)

0 件のコメント:
読了したばかりの本『〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義』は「人間の意識」とはどのようなものなのか、科学的な説明を試みている著作です。そのなかで説明されていた「創発」という概念をはじめて知りました。チャーリー・マンガーが主張する「とびっきり効果」(Lollapalooza effect)と似ており、印象に残りました(参考記事の例)。今回は創発を説明した箇所を引用します。

創発とはミクロレベルの複雑系において、平衡からはほど遠い状態(無作為の事象が増幅される)で、自己組織化(創造的かつ自然発生的な順応志向のふるまい)が行なわれた結果、それまで存在しなかった新しい性質を持つ構造が出現し、マクロレベルで新しい秩序が形成されることだ。創発には「弱い創発」と「強い創発」の2種類がある。弱い創発とは、元素レベルの相互作用の結果、新しい性質が出現すること。創発された性質は個々の要素に還元できる。つまりレベルが進んでいった段階を把握できるわけで、決定論的な立場と言える。これに対して強い創発では、新たに出現した性質は部分の総和以上なので還元できない。無作為の事象が拡大していくので、基礎的な理論や、別レベルの構造を支配する法則を理解したところで、性質の法則性が予測できない。(p.155)

こちらはおまけで、物理学者ファインマンの発言です。

物理学者が尻尾を巻き、決定論の裏口からこっそり逃げ出したのは、カオス理論も一因だが、量子力学と創発によるところが大きい。リチャード・ファインマンが、1961年にカリフォルニア工科大学の新入生を前に行った講演の中で、こう宣言したのは有名な話だ。「その通り!物理学は降参した。特定の状況で何が起こるのか、予測する術を我々は持たないし、そんなことは不可能だと分かった―予測できるのは異なる事象ごとの確率だけだ。自然界を理解したいという物理学の理想が削られたと言わざるを得ない。ある意味後退でもあるが、それを避ける方法を誰も見つけられなかった……だから当面は、確率計算に専念するとしよう。『当面』といったものの、永遠に続きそうな気がしてならない。この謎を解明するのは不可能であり、これが自然の真の姿なのだ」(p.158)

2014年11月10日月曜日

ブタによって浪費される学生時代(リチャード・ドーキンス)

0 件のコメント:
前々回に取り上げた『好奇心の赴くままに ドーキンス自伝I』から、さらに引用します。最初は、遺伝子同士がどのように相互関連するのか比喩を使って表現した文章です。本ブログでよく取り上げる話題「モデル同士の相互作用」に通じるものがあり、ひとつの見方として参考になると思います(過去記事1, 過去記事2, 過去記事3)。

私の遺伝学のチューターだったロバート・クリードは、変わり者で女性嫌いの唯美主義者、E・B・フォードの生徒であり、フォード自身は偉大なR・A・フィッシャーから大きな影響を受けていて、私たちはみなフォードから、フィッシャーに戻れと教えられた。私はこうしたチューターから、そしてフォード博士自身の講義から、遺伝子は体に及ぼす影響に関しては、原子のように孤立しているのではないことを学んだ。むしろ、一つの遺伝子の効果は、ゲノム内の他の遺伝子から成る「背景」によって条件づけられているのである。つまり、遺伝子は互いの効果を修正しあっているのである。のちに私自身がチューターになったとき、私はこのことを生徒たちに説明するために一つのアナロジーを考えついた。体は、天井に並んだフックに取り付けた無数の紐によってほぼ水平に吊るされた1枚のベッド・シーツの形によって表される。それぞれ1本の紐は1つの遺伝子を表す。遺伝子の突然変異は、天井に取り付けられた紐の張り具合で表される。しかし -- ここがこのアナロジーの重要な部分だが -- 、それぞれの紐は、下に吊るされたシーツに孤立して取り付けられているわけではない。むしろ、それは複雑なあやとりのように、多数の他の紐と絡まり合っている。このことは、どれか1つの紐に絡んでいる他のすべての紐の張り具合にも、あやとり全体に及ぶ一連の連鎖反応によって、同時に変化が起こる。そして結果としてシーツ(体)の形は、各遺伝子がシーツの「自分の」小さな単一の部分に個別に作用することによってではなく、すべての遺伝子の相互作用によって影響を受ける。体は肉屋の各部名称の図のように、対応する特定の遺伝子に「切り分け」できるようなものではない。むしろ、1つの遺伝子が、他の遺伝子との相互作用によって体全体に影響を与えうるのである。この喩え話を精巧にしたいなら、あやとりを横から引っ張ることによる環境的 -- 非遺伝的な -- 影響を取り込めばいい。 (p.246)

次の引用はドーキンスの啓蒙者魂を規定するような、ガリレオ・ガリレイにまつわるエピソードです。

アーサーはまた、ガリレオについてけっして忘れられない話をしてくれたが、それはルネサンス科学のどこが新しいかを要約するものだった。ガリレオは一人の学識者に、自分の望遠鏡を通して天文学的現象を見せていた。その紳士は概略、次のようなことを言ったとされる。「先生、あなたの望遠鏡による実演は非常に説得力がありますから、もしアリストテレスが積極的に逆のことを言っているのでなければ、私はあなたを信じます」。現在なら、誰か権威と考えられている人間がただ断言しただけのことのほうが好ましいからと言って、実際の観察によるあるいは実験による証拠を、きっぱりと退けることのできる人間が誰かいれば、きっと驚くだろう -- あるいは驚くべきだ。しかし、これが要点なのだ。変わったのはそこだった。 (p.248)

上の引用でドーキンスは、現代科学がなしとげた進歩を評価しています。しかし同時に、非ハード・サイエンス的な領域に対して反省をうながしているようにも読めました。

最後の引用です。こちらもなかなか厳しいご意見です。

ときどき思うのだが、学生時代は、十代で無駄に浪費されるにはあまりにももったいない。ひょっとすれば、熱心な教師たちは、ブタの前に真珠を投げる代わりに、生徒たちが真珠の美しさを評価できるだけの大人になるよう教える機会を与えられるべきなのかもしれない。 (p.204)

2014年11月6日木曜日

オックスフォードが私をつくりあげた(『ドーキンス自伝I』)

0 件のコメント:
進化生物学者リチャード・ドーキンスの自伝『好奇心の赴くままに ドーキンス自伝I』を読みました。出世作『利己的な遺伝子』を読んで以来、彼の著作は少しずつ手にするようにしています。彼の主張や熱情と同じように、情緒ゆたかな文体は濃厚なところがあり、読み手を選ぶかもしれません(わたしは好きです)。今回引用する話題は「学ぶことについて」です。

オックスフォード大学が私をつくりあげたと書いたが、本当は私をつくりあげたのはその個別指導(チュートリアル)システムであり、これはたまたま、オックスフォード大学とケンブリッジ大学に特有のものだった。オックスフォードの動物学課程には講義や実験室での実習ももちろんあったが、それらは他のどこの大学と比べてとりわけ驚くようなものではなかった。いい講義もあれば、よくない講義もあったが、私にとってはほとんど大差がなかった。というのも、私はまだ講義に出ることの意味がわかっていなかったからである。それは情報を受け入れるということではないはずで、したがって、私がそれまでしていたこと(そして事実上すべての大学生がいまでもしていること)、つまり考えるための配慮がまったく残されないまま奴隷のようにノートを取ることには、なんの意味もない。この習慣から私が離れることができた唯一の機会は、かつてペンを持ってくるのを忘れてきたときだった。(中略)

その1回の講義については私はノートを取らず、ただ聴く--そして考える--だけにした。それはとりわけいい講義ではなかったが、私は、そこから他の講義--なかにはもっとずっといい講義もあった--よりもずっと多くを得た。なぜなら、ペンがないことが、私に聴いて考える自由を与えてくれたからだ。しかし私は自らの教訓を学び取り、以後の講義でノートを取るのを止めるだけの分別はなかった。

理屈のうえでは、講義ノートを取るのは試験勉強のために使うためのはずだが、私は自分のノートを見返すことはけっしてなかったし、同級生のほとんどもそうしていなかったのではないかと思う。講義の目的は情報を伝えることではないはずだ。そのためには書籍や図書館があり、今日ではインターネットもある。講義は刺激を与え、思考を呼び起こすべきである。あなたは、優れた講師が目の前で独り言を言い、思考に触手を伸ばし、高名な歴史学者A・J・P・テイラーのように、何もないところから何かを掴むのを観察しているのだ。独りごとを言い、内省し、熟考し、明晰にするために言い換え、ためらい、それから把握し、ペースを変え、考えるために休む優れた講師は、問題を考える方法、それについての情熱を伝える方法に関して、一つの役割モデルになりうる。もし講師が、だらだら読むように情報を伝えるのなら、聴き手はそれを読んでいるのと同じことだろう--たぶん、講師自身の本で。

ノートを取るなという私の忠告は、少しばかり誇張しすぎだ。もし、講師が独創的な考え、あなたに考えさせるような衝撃的なことを言ったのなら、そのときはぜひとも、後でそれについて考える、あるいは何かを探すために、メモを書いておくべきだ。 (p.239)

私はヒトデの配管についての最低限の事実は覚えているが、問題なのは事実ではない。問題は、それを発見するよう私たちに仕向ける方法なのだ。私たちがしたのは、教科書をくわしく勉強するだけではなかった。図書館に行って新旧の書物を調べ、その話題について自分が世界の権威に可能な限り近づくまで、もとの研究論文の軌跡を1週間でたどっていった(現在なら、この作業の多くをインターネットでするだろう)。毎週の個別指導で刺激を与えられる以上、ヒトデの水力学について、あるいはどんな話題についてであれ、単に本を読むだけですむことはないのである。その1週間、私は寝て、食べて、ヒトデの水力学の夢を見ていたことを思いだす。管足が私の瞼の下を行進し、水圧で動く叉棘(さきょく)が探り、海水が朦朧とした私の脳の中を脈動していった。小論文を書くのは心の浄化(カタルシス)であり、このまるまる1週間を正当化するのが、この個別指導なのだ。そしてまた次の週には新しい話題が出され、新しいイメージの祭りが図書館で呼び起こされるだろう。私たちは教育されつつあった……。そして私は、今日自分にいささかでも文才が備わっているとみなされるならば、その大半がこの週ごとに課された訓練の賜(たまもの)であると信じている。 (p.245)

最後はおまけです。リチャード・ドーキンスが生まれたのは1941年で、大英帝国が傾きはじめたばかりの時期でした。生誕の地はアフリカのケニアで、幼少期の思い出のほとんどはアフリカで占められています。次の引用は、アフリカならではのエピソードです。

ときどき私は[ドーキンスの母親]、隣のレノックス・ブラウンの農場に伝言を届けに、ボニーと呼ばれていたルビーの持ち馬で送り出された。はじめてその家に行ったとき、ボーイが、メンサヒブと呼んでいた大きな応接間を私に見せてくれた。その部屋は、私が待っているあいだ、輝く日の光を遮るために降ろされた安っぽいカーテンのために暗かったが、突然、私は自分一人ではないことに気づいた。ソファーに体をすっかり伸ばして横たわる一頭の巨大な雌のライオンがいて、私に向かって大きなあくびをしたのだ! 私はほとんど身がすくんでしまった。そのとき、レノックス・ブラウン夫人が入ってきて、ライオンをピシャリと打って、ソファーから押しのけた。私は伝言を渡して家を辞した。 (p.80)

2014年10月30日木曜日

物理学を理解するには(リチャード・ファインマン)

0 件のコメント:
ファインマン物理学(第3巻)電磁気学』を拾い読みしていたところ、示唆に富んだ文章があったのでご紹介します。なお、原文はカルテックのWebサイトで公開されています(ただし、巻構成は日本語版と異なります)。

The Feynman Lectures on Physics (California Institute of Technology)

物理学者が問題をいくつかの見方からみるために手段を必要とする。現実の物理現象の正確な解析は大へん複雑なのが普通であって、物理的状態のどれをとっても複雑すぎて、微分方程式を解いて直接に解析できないほどである。しかし条件のちがう場合に対する解の性格についてある感覚を持っていれば、体系の振舞について適切な理解をもつことは可能である。場の線、容量、抵抗、インダクタンスなどの概念はこの目的に極めて役に立つ。従ってこれらの分析に今後かなりの時間を使うことになる。こうして、電磁気の事情がちがうときに何が起こるかについてある感覚をもつようになる。しかしながら、場の線のような発見的な模型で、すべての場合に適切で正確なものは一つもない。法則を表す正確な方法は唯一つしかなく、それは微分方程式を使う方法である。これは基礎的であり、我々の知る限り正確という利点をもつ。諸君がもし微分方程式を知っていれば、いつでも微分方程式に立ちもどればよい。習い残したことなど決してないのだから。

事情がちがうとき、何が起こるかを知るまでには少し時間がかかる。そのためには方程式を解かねばならない。方程式を解くたびに、解の性質について少し覚えることになる。解を覚えておくためには、場の線とかその他の概念を使って勉強するのは役に立つ。このようにして実際に方程式を"理解"できるようになる。数学と物理学のちがいはここにある。数学者や非常に数学的な心を持つ人は物理を"勉強"するとき迷ってしまうが、それは物理学を見失うからである。彼等はいう。"いいですか、これらの微分方程式 -- マクスウェル方程式 -- は電磁気学のすべてです。方程式に含まれていないものは何もないと物理学者は言います。なるほど方程式は複雑ですが、要するに数学的な等式にすぎません。従って方程式を数学的に理解し尽くせば、物理学を理解することになる筈です"。 残念なことにそうはいかない。物理をこういう考えで勉強する数学者 -- こういう人が沢山いた -- は物理学に貢献することがなく、実は数学にも貢献することがないのが普通である。彼等が失敗するのは、現実の世界の物理的状態は非常に複雑であるので、方程式のもっと広い理解が必要となるからである。

方程式を理解するとはどういうことか -- つまり、厳密に数学的な意味以上に -- これについてはディラックが次のように言っている。"実際には解かないで解の性質を知る方法があるとき私は方程式の意味を理解する"。従って、方程式を解かないで与えられた情況の下で何が起こるべきかを知る方法をもつときに、この情況に応用された方程式を"理解"しているのだ。物理的な理解は全く非数学的、不確実で不精確なものであるが、物理学者にとっては絶対に必要である。 (p.14)

前回などの投稿で、チャーリー・マンガーが「物理学はとても役に立つ」といった発言をしていますが、その一端がうかがえる文章だと思います。またものごとを考える際の一例として、p.11では「一番便利な眺め方は何か」を問うべきだと記しています。これも重要な示唆ですね。(関連記事)

もうひとつ、こちらはおまけです。

人類の歴史という長い眼から、たとえば今から1万年後の世界から眺めたら、19世紀の一番顕著な事件がマクスウェルによる電磁気法則の発見であったと判断されることはほとんど間違いない。アメリカの南北戦争も同じ頃のこの科学上の事件に比べたら色あせて一地方の取るに足らぬ事件になってしまうであろう。 (p.13)

世紀の天才ファインマンは、人類が遠い将来まで存続する可能性をどのように推し量ったのでしょうか。いずれ機会があれば考え直してみたい設問です。

2014年8月2日土曜日

『人類5万年 文明の興亡: なぜ西洋が世界を支配しているのか』

0 件のコメント:
人類5万年 文明の興亡: なぜ西洋が世界を支配しているのか』(著者:イアン・モリス)を読みました。原書のタイトルは"Why The West Rules - For Now"で、和訳では副題に回っています。本書では西洋がここ数世紀にわたって国際社会を支配している理由を、東洋文明圏と対比しながら迫っています。この手の歴史書を読むのは、国家や文明の栄枯盛衰をモデルとして学びとりたいからですが、その意味では十分に満足できる作品でした(そして後述するように、もっと満足できました)。

これから読まれる方に差しさわりのない内容を、今回は2か所ご紹介します。ひとつめは、チャーリー・マンガー的表現である「学際性」について触れた文章です。

大学教授というものは、管理的な役割には不平をこぼすのが常だが、1995年にスタンフォード大学に移ったとき、私はすぐに、委員会に属することは狭い学問領域の外で何が起きているかを知る絶好の機会だと気づいた。それ以来、大学の社会科学史研究所や考古学センターの運営に携わり、古典学部の部長、人文科学研究所の副所長を務めながら、大規模な発掘調査を行っている。おかげで遺伝学から文芸批評まであらゆる分野の専門家を出会うことができた。そのことが、なぜ西洋が世界を支配しているのかの解明に影響しているかもしれない。

私は、一つ、大きなことを学んだ。この問いに答えるには、歴史の断面に焦点を合わせる歴史家の力、遠い過去に対する考古学者の認識、社会科学者の比較研究の手法を組み合わせた幅広いアプローチが必要なのだ。それは様々な分野の専門家を集め、深い専門知識を活用することによって可能になる。シチリアで発掘を行ったときにまさに私がしたことだった。炭化した種子を分析するための植物学、動物の骨を特定するための動物学、収納壺の残滓を調べるための化学、地形の形成プロセスを再現するための地質学をはじめ、大勢の専門家の協力が欠かせなかったため、私はそういった分野の専門家を探し出した。発掘調査の監督は学問の世界の指揮者のようなもので、優れた演奏家を総動員する。

この方法は、発掘報告書の作成には有効だ。他者が使えるようなデータを蓄積することが目的だからだ。しかし、大きな問いに対する統一的な答えをまとめるには適していない。したがって本書では、集学的アプローチではなく、学際的アプローチを取る。専門家の一団を注意深く見守るのではなく、自分自身で様々な専門家の知見を集めて解釈する。

このアプローチには、分析が偏る、表面的になる、ありがちな間違いを犯すなど様々な危険が伴う。私は、中国文化をその道何十年という研究者ほどには理解できないし、遺伝学者のように進化についての最新情報に精通しているわけでもない。(サイエンス誌は平均13秒に一度ウェブサイトを更新しているらしい。この文章を書いている間にも遅れを取ってしまっただろう)。しかし一方で専門領域に留まり続ける者は、決して全体像を見ることができない。本書のような本を書く場合、学際的アプローチを用いて一人でまとめるのは最悪の方法かもしれないが、私には一番ましに思える。私が正しいかどうかは、読者の判断にゆだねるしかない。(上巻 p.31)


もうひとつは、広く適用できるモデル「後進性の優位」についてです。

5000年前、ポルトガル、スペイン、フランス、イギリスにあたる地域がヨーロッパ大陸から大西洋に突き出ていたことは、地理的には大きなマイナスだった。メソポタミアやエジプトでの日々の営みから遠く離れていたからだ。ところが500年前、社会は大きく発展し、地理の意味を変えた。かつては決して渡れなかった大洋を渡れる新しい種類の船の完成によって、大西洋に突き出た地形がにわかに大きなプラスになった。アメリカ大陸や中国、日本へと漕ぎ出したのは、エジプトやイラクの船ではなく、ポルトガル、スペイン、フランス、イギリスの船だった。海洋貿易で世界を結び始めたのは西ヨーロッパ人であり、西ヨーロッパの社会は急速に発展し、東地中海の旧コアを追い越した。

私は、このパターンを「後進性の優位」と呼ぶ。社会が発展し始めたときから存在するものだ。農村の都市化(西洋では紀元前4000年、東洋では紀元前2000年頃)に伴って、農業の発生を可能にした特定の土壌や気候へのアクセスは、農地の灌漑用水や交易ルートとして用いられる大河へのアクセスほど重要ではなくなった。その後も国家は拡大し続けたため、今度は大河へのアクセスが、鉄、長距離の交易ルート、マンパワーの源などへのアクセスほど重要ではなくなった。このように、社会発展に伴って必要なリソースも変化する。かつてはそれほど重視されなかった地域が、その後進性に優位を見出すこともある。

「後進性の優位」がどのように生じるのかをあらかじめ述べるのはむずかしい。後進性がどれも等しいわけではないからだ。400年前、多くのヨーロッパ人は、カリブ海の植民地には北アメリカの農地より明るい未来があると思ったようだ。今になってみれば、なぜハイチが西半球で最も貧しい地域となり、アメリカが最も豊かな地域となったのかがわかる。だが、こういった結果を予測するのはかなり困難だ。

それでも「後進性の優位」が明確に示しているのは、第一に、各コア内の最も先進的な地域は時とともに移動するということだ。西洋では、初期の農業時代には、ティグリス・ユーフラテス川流域の丘陵地帯が最も進んでいたが、やがて国家の出現に伴って南のメソポタミアやエジプトの川の流域へと移り、貿易が重要になり、帝国が拡大するにつれ、西部の地中海沿岸地域へと移った。一方東洋では、先進地域は黄河と長江に挟まれた地域から長江流域へ、さらには西の渭水や四川へと移っている。(上巻 p.42)


追記です。類書の『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド)は広く知られ、評判も高い本だと思います。しかし本書はそれと肩を並べるあるいは超えるほどの出来栄えだと、個人的には評価しています。それというのも、本書の構成(つまり著者のとったアプローチ)自体からも学べることがあるからです。それは、「骨太な構成が骨太な結論を導いている」という点です。結論のほうは深入りしませんが、構成のどこが骨太だと感じたのか、簡単に触れておきます。

本書では、著者が主張を展開する上で2つの軸を用意しています。ひとつめが、西洋と東洋の両文明圏の発展度合いを測る尺度として「社会発展指数」と称する指標を導入したことです。この指数によって、両文明の社会的状況や能力が歴史的にどのように上下するかを定量化し、その上で定性的な歴史的解釈によって肉付けしています。文明の度合いをどうやって測るのかは大きなテーマだとは思いますが、著者が選んだ評価項目はそれなりに納得できます。なお本文中では歴史的エピソードの記述がつづきますが、随所に逸話が盛り込まれ、飽きることなく読み進められました。

もうひとつが、西洋圏の範囲として狭義の欧米だけでなく、文明の曙である中東を含めたことです。つまりメソポタミアやエジプトも西洋の一部とみなした上で、東洋(中国、朝鮮、日本、東南アジア等)と比較しています。従来型の定義からは逸れますが、本書を通読してみれば、「西洋=ユーラシア大陸の西側」とした定義は妥当だと思います。

これらの本質的な軸を設けたことで、歴史的事実の細部に囚われることなく、大きな流れをとらえて歴史解釈を進める助けになっただろうと想像します。歴史という長い時間軸では、「精確にまちがえるよりも、おおよそ正しい」視点を持つことが重要だと思います。その意味で、著者のとったアプローチからは学ぶところが多いと感じました。

2014年5月12日月曜日

デカルト『方法序説』

0 件のコメント:
デカルトの『方法序説』を拾い読みしていたところ、有名な一節にたどりつきました。ものごとを考えるときに還元主義的に取り組む方法です。本ブログでよく取り上げているダーウィンやチャーリー・マンガーのやりかたは、ここに通じていたのですね。岩波文庫の翻訳から引用します。

法律の数がやたらに多いと、しばしば悪徳に口実をあたえるので、国家は、ごくわずかの法律が遵守されるときのほうがずっとよく統治される。同じように、論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという堅い不変の決心をするなら、次の4つの規則で十分だと信じた。

第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断のなかに含めないこと。[参考記事]

第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。[参考記事]

第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。[参考記事]

そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。[参考記事1][参考記事2] (p.28)

2014年3月2日日曜日

わかりやすい解法が見つかりました(ベノワ・マンデルブロ)

0 件のコメント:
複雑なものごとを分析する方法として、本ブログではチャーリー・マンガーのやりかたを繰り返し取り上げています。要約すると「学術界などから借りてきた種々のモデルを使って事象を説明できるか試し、よりよい説明モデル群を見いだす」とするものです。モデル化できるということは、行く末をある程度は予想できることにつながります。あらゆるものが容易にモデル化できるわけではないと思いますが、チャーリーは「徐々にものごとがうまくつながって認識できるようになる」と説明しています。

今回ご紹介するのは、少し前に取り上げた数学者マンデルブロの自伝『フラクタリスト―マンデルブロ自伝―』からの引用です。彼が大学に入学する前に体得した天才的なモデル化の話です。

数学教授のコワサール先生は、このころリセ・デュ・パルクに着任したばかりだったが、それから長いあいだここで立派な教員生活を送ることになる。トープの教授というエリート集団の中でも、コワサール先生は抜きん出ていた。毎日、1日の半分ほどを私はコワサール先生とともに過ごした。先生は黒板の前に立ち、やたらと長い問題を書いた。それは先生が過去何世代もの教師たちの経験を踏まえて、ばかばかしいほど複雑な計算が必要となるようにわざと作成したものだった。問題はいつも代数的または解析幾何学的に記述されていた。

私の中で、同じ問題を幾何学的に言い換える声が聞こえた。テュールにいたあいだずっと、私は時代遅れの数学の教科書を使って勉強していた。1930年代の教科書と比べて、あるいは今日の教科書と比べても、図版がはるかにたくさん載っていて、説明が充実し、やる気をかき立てる内容となっていた。そんな教科書で数学を勉強した私は、何世紀にもわたってきわめて特殊な図形が幅広く集められた一大図形"動物園"を知悉(ちしつ)するに至っていた。だからたとえ解析的な装いをまとっていても、そしてそれが私にとって"見知らぬ"装いであり、図形の基本的な性質とは無縁のように見えても、私はいろいろな図形をすぐさまそこに見出すことができた。

私はいつも最初にさっと図を描いた。そうするとすぐに、なにかが欠けていて美的に不完全だと感じられた。たとえば単純な射影変換や、何らかの円に関する反転操作を加えるとよくなったりした。この種の変換を何回かおこなうと、たいていの図形はもっと調和のとれたものになった。古代ギリシャ人ならこの新しい図形は「対称性が高い」と言っただろう。まもなく対称性を探して調べることが、私の勉強の中心となった。この愉快な作業は、とんでもなく難しい問題を単純な問題に変えた。必要な代数はあとで必ず補える。どうしようもなく複雑な積分の問題も、見慣れた図形に"還元"すれば簡単に解ける。私は手を挙げて自分の発見を発表したものだ。「先生、幾何学的なわかりやすい解法が見つかりました」。先生がどれほど難解な問題を考えても、私はたちまち解いてしまった。それからは、特に意識的に追い求めたわけでもないのに、即座に難なく、いかなる難問もクリアしてしまう一本の道が、私の前には開きつづけたのだった。1944年にリヨンで過ごした冬のあいだ、学期が進むにつれて、私の特異な才能は強固で信頼できるものであることが明らかになっていった。(p.133)


本ブログでメンタル・モデルに関する話題をはじめて読まれる方は、たとえば以下の過去記事がご参考になるかと思います。いずれもチャーリー・マンガーの講話の一部です。

2014年1月26日日曜日

2機の飛行機が空中衝突する確率(『異端の統計学 ベイズ』)

7 件のコメント:
「ベイズの定理」と言えば「モンティ・ホール問題」が思い浮かびます。「天才」マリリン・ヴォス・サヴァントが出した回答が、「並み」の数学者たちからバカ扱いされたものです(けっきょくは彼女が正解)。ご存知の方が多いと思いますが、ウィキペディアから以下に引用します。

モンティ・ホール問題 (ウィキペディア)

「プレイヤーの前に3つのドアがあって、1つのドアの後ろには景品の新車が、2つのドアの後ろにはヤギ(はずれを意味する)がいる。プレイヤーは新車のドアを当てると新車がもらえる。プレイヤーが1つのドアを選択した後、モンティが残りのドアのうちヤギがいるドアを開けてヤギを見せる。
ここでプレイヤーは最初に選んだドアを、残っている開けられていないドアに変更してもよいと言われる。プレイヤーはドアを変更すべきだろうか?」


正解は同ページで説明されていますが、「ドアを変えても確率は五分五分」という答えは不正解です。

この問題の答えを解説する文章をどこかで読んだときから「ベイズの定理を実践で使いこなしたい」という願望を抱いてきました。またチャーリー・マンガーがどこかで発言した「追加された情報によって逐次見直す」やモンテカルロ法の話題もひっかかっていました。何かきっかけとなる知識が得られないかと期待して読んだのが、今回ご紹介する本『異端の統計学ベイズ』です。個人的には当たりの一冊でした。

ベイズを始祖とする統計学の一派(ベイズ主義者)は、別の主流派(頻度主義者; ごく一般的な統計学)から不遇の扱いを受けてきました。しかし頻度主義では解けない現実上の難問を、ベイズの手法を使うさまざまな人たちが試行錯誤を通じて解決していきます。本書ではベイズの定理の数学的な説明はほとんど登場しないかわりに、歴史の舞台で各種の難題に立ち向かう人たちの姿が生き生きと描かれています。それらの登場人物の行く末を痛ましく感じたり、立派な生き方から学んだり、反面教師にしたりと、引き込まれる文章が随所にありました。ベイズの定理を真剣に学びたいと決意させてくれたのは、心にふれるさまざまなエピソードが取りあげられていることが大きいと思います。趣味の問題ですが、翻訳の文章も良質と感じました。

さて、本書からの引用です。はじめの2つは「過去に事例がないことを予測する例」で、こちらは飛行機の衝突事故の話題です。

ベイリーが亡くなった年に、崇拝者の一人がインシュランス・カンパニー・オブ・ノース・アメリカ社のクリスマスパーティーでマティーニをすすっていると、サンタクロースに扮した主催会社のCEOがとんでもない質問をした。

「誰か、2機の飛行機が空中衝突する確率を予測できる人間はいないか?」

そしてこのサンタは、自社の主任保険数理士であるL・H・ロングリー・クックに、そのような事故がまったく起きたことがないという前提で予測を行うよう求めた。商用機はそれまでに一度も深刻な空中衝突を起こしたことがなかった。過去に経験したことがなく反復実験もできない場合、正統派の統計学者なら、予測はまったく不可能だと答えるしかない。(中略)

ロングリー・クックはクリスマス休暇の間じゅうこの問題を考え続け、1955年1月6日には件のCEOに宛てて、今後の状況に関する警告を送った。業界の安全記録によればそれまでに航空機同士の事故は1件もなかったが、航空事故一般に関する入手可能なデータを見る限り、「これからの10年間に起きる旅客機同士の衝突事故の件数は0から4までのどれかであると思われる」したがって保険会社は、高額な保険料を支払わねばならない大惨事に備えて旅客機の保険料率を上げ、再保険を買わねばならないというのだ。2年後に、この予測が正しかったことが証明された。ニューヨーク市の上空でDC-7型機とロッキード社の大型機コンステレーションが衝突して、乗客乗員やマンションの住人など計133人が命を落としたのである。(p.179)


こちらはスペースシャトルの事故の話題です。

ところが驚いたことに、こうして大学人が疑いの目を向けるなか、アメリカ空軍のある契約業者が、ベイズの理論を使ってスペースシャトル・チャレンジャーの事故のリスクを分析した。空軍は、アルバート・マダンスキーが冷戦中にランド・コーポレーションで行ったベイズ派の研究に資金を提供していたが、それでもアメリカ航空宇宙局(NASA)は、不確定要素を主観的に表現するのはいかがなものかという態度を崩さなかった。そのためNASAが1983年にスペースシャトルの打ち上げ失敗の確率を評価する報告書をまとめたときも、資金を出したのは空軍だった。NASAの契約業者テレダイン・エネルギー・システムは、計1,902回のロケットモーター発射で32件の失敗が確認されたという事前の経験に基づいてベイズ解析を行い、「主観的な確率と運用経験」からして、ロケットブースターが故障する確率を35分の1と見積もった。当時NASAはブースターが故障する確率を10万分の1としていたが、テレダイン社は「事前の経験と確率分析に基づく保守的な故障評価を基本にするのが賢明というものだ」といって譲らなかった。けっきょく、チャレンジャーは25回目になる1986年1月28日の打ち上げで爆発し、7名の乗組員は全員死亡した。(p.384)


つぎはベイズ的なアプローチを文章で表した箇所です。企業分析のプロセスもこれに当てはまると思います。

ラプラス同様ジェフリーズも、生涯にわたってそれまでの観察を新たな結果に照らして更新する作業を続けた。「怪しいところがある主張は……科学のもっとも興味深い部分を構成している。科学のどの進歩にも、完璧な無知からはじまって証拠に基づく部分的な知識がしだいに確実になるという段階を経て事実上確実といえる段階に至る、という変遷が含まれている」のだ。(p.111)


最後はFRBの話です。事実というよりも伝説ととらえるべきでしょうか。なお傘の話題については、個人的には同感です。わたしも折りたたみ傘をカバンの底へ入れっぱなしのやりかたでした。

フェルドシュタインの説明によると、連邦準備制度理事会はベイズを使って、起きる確率が高くてダメージの少ない出来事よりも、起きる確率が低い大災害のリスクにより大きな重みをつけているという。フェルドシュタインはベイズを、雨の確率が低い場合も雨傘を持っていくべきかどうかを決断しなければならない男性に喩えて見せた。傘を持っていったのに雨が降らなければ、不自由な思いをする。だが、傘を持っていかずに土砂降りになったらずぶ濡れだ。「よきベイジアンは、雨が降らない日でも雨傘を持っていくことが多い」というのがフェルドシュタインの結論だった。(p.424)


今回の話題に関連する本(の題名)を以下にご紹介します。どちらも新刊で、わたしも昨日知ったばかりです。

・『シグナル&ノイズ 天才データアナリストの「予測学」
おもしろそうなので、近いうちに読みたいと思っています。

・『モンティ・ホール問題
12月に出たばかりの本です。件の問題について、その顛末や類題などが詳細に書かれています。

(2014/1/26追記) コメント欄で、飛行機事故の具体的な情報(ウィキペディア)を枯山さんがご指摘くださっています。

2013年11月6日水曜日

樹木が発生するのは水を好むからではない(エイドリアン・ベジャン教授)

0 件のコメント:
流れとかたち ― 万物のデザインを決める新たな物理法則』という本を最近読みました。熱力学の大家である著者はマクロな視点に立ち、無生物の物理的傾向と生物の進化さらには人間文明の方向性を、ひとつの統一原理「コンストラクタル法則」によって説明しようとしています。これは「あらゆるものごとは、流れをよくする形へと変化する傾向がある」とするものです(英文Wikipedia)。本書で展開される説明はそれなりに説得力のあるものがつづき、なるほどと感心させられます。ただし適用範囲が壮大で、すべて納得できるかというと疑問符がつくかもしれません。意欲作というか問題作というか、先週末に丸の内の丸善をのぞいたときには各所に平積みされており、話題を呼びそうな作品です。

一般に、ミクロ的な基本原理の積み重ねでものごとを説明できればそれに越したことはありません。しかしそれがむずかしかったり、本質をつかみにくい場合には、本書の著者が提示するように俯瞰してとらえるやりかたは有効的だと思います。今回同書から引用する文章はその「俯瞰」の話題とは少し離れますが、本ブログでとりあげる話題に関連する箇所をご紹介します。

まずは、発想の逆転について。チャーリー・マンガーおなじみの思考プロセスですが、この発想には仰天させられました。

熱力学の第二法則によれば、自然界は局地的にも全体的にも、湿気の多い所から少ない所へ水を動かす傾向を示すことになっている。木も草も、湿気の少ない空気が大気から水分を吸い取るために使うストローのようなものだ。(中略)コンストラクタル法則は、樹木と森林が現れて存続するのは大地から大気への水の迅速な移動を促進するためであることを教えてくれる。(中略)樹木が「発生する」のは、そこに水があり、(上方へ)流れなければならないからであって、「木は水を好む」からではない。(p.198)


つぎは、規模の経済についてです。なお、この話題は本書の主題の一部を占めるもので、他の場所でも何度かとりあげられています。

たとえば、質量1,000キログラムのゾウが1キロメートル移動すると、移動する質量1キログラム当たりの食物摂取量は0.0562に比例する。質量が10キログラムのジャッカル100頭が同じく質量1キログラムを同じ距離だけ移動させたら、その1キログラムに必要な食物の量は0.383に比例する。ここで大事なのは、2つの食物必要量の比率、0.0562/0.383(約7分の1)という数値だ。結論として、ゾウが質量1キログラムを移動させると、ジャッカルの質量1キログラムを移動させるときと比べ、食物のコストはわずか7分の1にしかならない。

この事実から、さらに2つの大きな考えが浮かび上がる。第一にこれは、工学、経済学、ロジスティックス、ビジネスの各領域で認められている規模の経済という現象に、理論物理学的な基盤を提供してくれる。何かを大量に動かすときの効率は、規模に応じて向上する。第二にこれは、進化にはものの動きの向上へと向かう方向性があるという考えを際立たせてくれる。雨粒があって初めて川が生じるように、地球上では小さい動物が出てきてから大きい動物が登場した。ゾウより前に単細胞生物が、オオアオサギより前に蚊ぐらいの大きさの昆虫が現れた。コンストラクタル法則を使うと、動きが活発になるだけでなく、動きの効率も向上するという紛れもない傾向が見て取れる。(p.151)


最後の引用は、「コンストラクタル法則」に対する著者の所信表明の中でも東洋的なひろがりが感じられる箇所です。

コンストラクタル法則は、進化についてのダーウィンの考えに物理的原理の後ろ盾を与える。この法則は、特定の変化が他の変化よりも良い理由を説明し、そうした変化は偶然ではなく、より良いデザインの生成を通じて現れることを示してくれる。コンストラクタル法則はまた、進化についての私たちの理解を拡げ、生物学的変化という自然の傾向が、無生物の世界を形作るものと同じ傾向であることを示してくれる。

コンストラクタル法則とはそういうものだから、私たちが森の中を歩くときに感じる統一性の圧倒的な感覚の科学的根拠を提供してくれる。大地も、樹木も、大気も、私たち自身も、本当につながっている。いっさいのものは、同一の普遍的な力によって形作られ、創造の一大交響楽を奏でながら、それぞれが全体を支えているのだ。(p.223)


本書は万人向けするものではないと思いますが、生物の進化や地球物理的な現象のどちらにも興味のある方には刺激を与えてくれる作品です。個人的にはものごとをながめる視点のひとつとして、このメンタル・モデルを積極的に使っていきたいと感じました。

なお、規模の経済については過去記事で何度かとりあげていますが、以下の2つの投稿では「規模の不経済」が登場しています。この件は企業分析を行う際の要所のひとつと感じています。

規模の不経済(チャーリー・マンガー)
何も発明していない男、サム・ウォルトン(チャーリー・マンガー)

2013年9月14日土曜日

「他の人を先に」と祈る(『わたしたちの体は寄生虫を欲している』)

0 件のコメント:
少し前の投稿で、脳における認知のしくみを記した文章を『脳のなかの天使』から引用しました。今回ご紹介する文章も似た話題で、今度は別の本『わたしたちの体は寄生虫を欲している』から引用します。「恐怖という感情」についてです。

まずは脳が恐怖を感じるしくみについてです。

恐怖を感じたとき(あるいは、後に述べるように、怒りを感じたとき)、あなたの心臓は激しく鼓動する。それは、副腎の滑車が動きだし、扁桃体から、より原始的な部分である脳幹に、信号が送られるからだ。「恐怖モジュール」と呼ばれるこのシステムは、主に、「逃走」か(頻度は低いものの)「闘争」によって捕食者に対処するために進化したものだが、脅威を感じただけで発動する厄介なシステムでもある。恐怖やそれに先立つ衝動は、周囲の状況を誤解している場合さえある。扁桃体の一部は、常時、「怖い、怖い」というシグナルを出しているらしい。そして、ほとんどの場合、扁桃体の他の部分がそのような信号を抑えている。だが、恐怖を引き起こすものを見たり、聞いたり、経験したりすると、その抑制は解除され、脳の中で爆発が起きたかのように、瞬時に恐怖が全身を駆けめぐるのである。(p.161)

以前の投稿で引用した文章には「視床下部」という言葉がありましたが、これは上の文章(3行目)の「脳幹」に含まれる部位です。

次の引用は「人間が恐怖を感じるようになった経緯」についてです。いまさらと思われるかもしれませんが、本書のような視点で改めてふりかえってみると、われわれの身体がどのようにできているのか、ずっと納得できます。

人間と大型の捕食動物の歴史の大半において、わたしたちは間違いなく獲物であり、そのことが数百万年前に進化した脳内の恐怖モジュールを持続させ、人類が進化するにつれてそれはより精巧なものになっていった。わたしたちの系統に捕食者を見つけようとするなら、4本の足とトカゲのような尻尾を持ち、体が鱗に覆われていた時代にさかのぼらなければならないだろう。当時でさえわたしたちは、捕食者であると同時に被食者であったはずだ。3億年にわたってわたしたちは「やめて! 食べないで!」と叫ぶ動物だったのだ。

また4つの根拠から、人間はつい最近まで食べられていたことがわかっている。1つ目は、実際に人間が捕食された事件が数多く記録されていることだ。植民地時代のインドでは、トラは1年に1万5,000人以上の人を食べていたらしい。またアフリカでは、タンザニアだけで1990年から2004年の間に、少なくとも563人がライオンに殺された。トラやライオンだけではない。ピューマ(≒クーガー)も人を食べる。ジャイアント・イーグルは人間の子どもを食べる。さまざまな種のクマも人を食べる。オオカミ、ヒョウ、アリゲーター、クロコダイル、サメ、そしてヘビまでもが人間、特に子どもを食べる。しかもこうした事件は、捕食者の数も種類も少なくなった近年になっても起きているのだ。(p.163)


人間はじつに無防備な動物であり、足を1本なくしたヌーやおとなしい乳牛を別にすれば、足を骨折したり歯をなくしたりした捕食動物にとって、唯一、簡単に捕まえられる獲物なのだ。わたしたちは暗いところではほとんど何も見えないので、祖先たちは夜、洞窟にいるときに音が聞こえたら、しゃがみ込んで耳をすまし、もしそれがトラやクマなどの大型肉食動物であれば、どうか他の人を先に食べてくれるようにと祈った。(p.162)


なお題名から察して、本書の話題は寄生虫ばかりと想像されるかもしれませんが、その話題は前半部だけです。それ以外にも人類の過去を振り返った上で、さまざまな話題を展開しています。内容はむずかしくなく、楽しんで読める一冊です。