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2017年11月8日水曜日

歩き出せば口実は浮かぶ(『かくて行動経済学は生まれり』)

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先日取り上げた『かくて行動経済学は生まれり』から、今回は「逃げる」話題について2点ご紹介します。ひとつめは「日常生活における逃げ」についてです。エイモス・トヴェルスキーに関する話です。

ものを頼まれたら(パーティーに行く、スピーチをする、何かを手伝うなど)、たとえそのときは承諾しようと思っても、すぐに返事をするべきではないと、エイモスはよく言っていた。考える時間を1日とるだけで、前の日には引き受けようと思っていた誘いの多くを断りたくなることに、きっと驚くはずだ。これと一緒に編み出したのが、ある場所から逃げ出すための方法だ。退屈な会議やカクテルパーティーにつかまってしまって、そこから逃げ出す口実が思い浮かばないことはよくある。だがエイモスは、どんな集まりであれ、帰りたいと思ったら立ち上がり、そこから離れることをルールとしていた。歩き始めてしまえばいくらでもアイデアは浮かび、口実がすらすらと出てくると彼は言う。(p. 221)

もうひとつは、本ブログで何度か取り上げているテーマ「虐殺からの逃亡」についてです。こちらはダニエル・カーネマンが子供だった頃の逸話です。

その後、彼らは命を守るためにまた町を離れ、コートダジュールのカーニュ・シュル・メールへ向かった。そこはあるフランス軍の大佐が所有している場所だった。それから数か月間、ダニエルはその狭い地域から出ることはなかった。彼は本とともに時間を過ごした。『80日間世界一周』を何度も何度も読み、イギリスのすべてのもの、特に主人公のフィリアス・フォッグに夢中になった。フランス人大佐が残していった本棚には、ヴェルダンの塹壕戦についてのレポートがぎっしり詰まっていて、ダニエルはそれもすべて読んだ。(中略)

ヴィシー政府と、報奨金目当ての人々の協力で、ドイツは前より簡単にユダヤ人狩りができるようになった。ダニエルの父は糖尿病を患っていたが、治療を受けるほうが、病気を放置するよりも危険だった。そしてふたたび彼らは逃亡した。はじめはホテルに滞在していたが、とうとう鶏舎に逃げ込んだ。その鶏舎は、リモージュ郊外の小さな村の酒場の裏にあった。そこにはドイツ兵はいなかった。いたのは民兵団だけだ。彼らはドイツに協力してユダヤ人を捕まえ、フランスのレジスタンスを根絶やしにするのに手を貸していた。

父親がどうやってその場所を見つけたのかダニエルにはわからなかったが、ロレアルの創始者が関わっていたのは間違いないだろう。会社から食料がずっと送られていたからだ。両親は部屋の真ん中に仕切りを立て、ダニエルと姉が多少のプライバシーを保てるようにしてくれたが、鶏舎はそもそも人が住むところではない。冬が寒さが厳しく、ドアが凍って開かなくなった。姉はコンロの上で寝ようとして服を焦がした。(p. 57)

2017年7月28日金曜日

逃げることが英雄的だった(『進化は万能である』)

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英国の著述家マット・リドレーの作品は楽しみにしており、昨年翻訳された『進化は万能である』をようやく読了しました。

題名が示すように、本書では「進化」現象が生物に限定されるものではなく、さまざまな領域でみられることを論じています。たとえば、経済・教育・政府・宗教・通貨といったソフト・サイエンスの章が登場します。過激な論調あり、やや飛躍的(に感じられるよう)な論理もありますが、リチャード・ドーキンスの系譜を感じさせるスタイルや主張は、個人的には十分に楽しめました。

ところで、同氏は興味の対象がハード・サイエンスにとどまらず、拡散するタイプの人なのだろうかと感じて少し調べてみたところ、いまさらながら納得しました。そもそも貴族の家系で世襲議員でもあり、金融危機前の一時期には銀行の取締役会会長も務めていたのですね。元気のいい、一介のサイエンス・ライターかと思っていましたが、大違いでした。

さて今回ご紹介する文章は、本題からはずれた内容です。「逃げる」話題について、2つの章から引用します。まずは、第10章「教育の進化」からです。

経済史学者のスティーヴン・デイヴィスは、現代の学校形態はナポレオンがプロイセン王国を破った1806年にその起源を有すると考えている。苦汁をなめたプロイセンは、同国でも並ぶ者のない知識人のヴィルヘルム・フォン・フンボルトに意見を乞い、厳格な義務教育プログラムを策定した。おもな目的は、若者を戦争中に逃亡しない従順な兵士に育成することにあった。現在の私たちが当然と受け止めている学校教育の特徴の多くは、これらのプロイセンの学校で導入されたものだ。

(中略)

『教育の再生』という著書でラント・プリチェットは、19世紀日本の文部大臣の次のようなあからさまな発言を引用している。「あらゆる学校の管理において、なすべきことは生徒のためではなく、国家のためであることを忘れてはならない」(訳注 初代文部大臣、森有礼の言葉。原文は「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」)。(p. 233)

改めて考えてみれば、自由を尊重するリベラルな人々が、5歳の子供を12-16年にわたって一種の刑務所のような場所に送り出すというのも少々おかしな話だ。そこでは罰をほのめかして教室という監獄に児童を収容し、罰を匂わせて椅子にすわって指示に従うよう強いる。もちろん、現在はディケンズの時代とは違うし、多くの児童がすばらしい教育成果を上げるが、それでも学校は人を教化しようとする、いたって全体主義的な場所だ。私の場合、刑務所のたとえはまさにぴったりだった。私が8歳から12歳のあいだを過ごした寄宿学校は規則が厳しく、苦痛を伴う体罰が頻繁に用いられ、ナチス・ドイツの戦争捕虜がトンネルを掘り、食べ物を貯め込み、鉄道の駅まで田園地帯を逃亡するルートを計画した話に、生徒は共鳴したものだった。逃亡はしょっちゅうで、厳しい罰が与えられたが、周囲からは英雄扱いされた。(p. 233)

もうひとつ、こちらは第11章「人口の進化」からです。

イギリス、フランス、そしてアメリカ政府はドイツからのユダヤ人移民の受け入れに強く抵抗し、それを正当化する理由として、あからさまな優生学的主張を使った。既存の定員に加えて、ユダヤ人の子どもたちをさらに2万人アメリカに受け入れることを認める法案は、1939年初頭、ハリー・ラフリンが組織した移民排斥主義者と優生学的圧力団体の連合によって連邦議会で否決された。1939年5月、ドイツを逃れた930名のユダヤ人を乗せた客船セントルイス号がアメリカにたどり着いた。船が入港許可を待つそのさなかにラフリンは、アメリカはその「優生学的、人種的水準」を下げるべきでないと主張する報告書を提出している。結局乗客のほとんどがヨーロッパに戻され、そこで大勢が殺されてしまった。(p. 268)

2016年1月28日木曜日

羊飼いの少年が期せずして成功する話(『バッテリーウォーズ』)

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バッテリーウォーズ』という本を読みました。内容は副題が示す通りのもので、「次世代電池開発競争の最前線」です。エネルギーや素材関係の話題には興味があるので期待して手に取ったのですが、読み始めのころはハズレだったかと案じました。書き出しには引きこまれず、突出したヒーローは不在、淡白な文体、そして地味な話題と、四重苦状態だと感じたからです。それでも100ページ目、150ページ目と読み進めていくうちに、実は楽しんでページを繰っている自分に気がつきました。そして静かなクライマックスに向けて一気に読了できました。

本書では研究開発やイノベーションの現場が、飾ることなく描写されています。登場人物は研究所や先端企業で働く頭脳明晰な人ばかりですが、彼らのふるまいや願望は一般人と同じで、等身大の群像劇が展開されています。様々なものごとがごったがえす中、技術はたゆまずに進歩し、ビジネスは拡大の機会をうかがい続けます。本書の中心的な役割はそういったイノベーション小史を楽しむ点にあると思いますが、それ以外の読み方もできます。日米におけるR&Dの比較という視点が持てたり、ベンチャー・ビジネスのケース・スタディーとしても参考になります。なおテスラモーターズのCEOイーロン・マスクも出番が少しありますが、端役の扱いです。

その本書から今回引用するのは、主題とはまるで関係のない話題です。モロッコ出身のアミーンという名の印象的な人物が登場しますが、彼の祖父が過ごした劇的な人生についてです。

一族の伝説は20世紀の初めごろにさかのぼる。アミーンの母方の祖父ベナディールが、12歳のときにアガディール港周辺の山で羊飼いをしていたころの話だ。ベナディールはしょっちゅう年配の男に叩かれた。しかしあるとき、耐えかねたベナディールが石をつかんで老人の頭を殴りつけると、相手は倒れて動かなくなった。少年はおびえて逃走した。

ベナディールが隠れていると、青果を積んで牽引車につながれた荷車が通りかかった。ベナディールは荷車によじ登ってすぐさま身を隠した。それから二、三日間、荷車は海岸沿いを進んでいった。ベナディールは積んである果物や野菜を食べて過ごした。しかしカサブランカに到着すると、荷主に見つかって路上に放り出されてしまう。ベナディールは歩きながら物乞いを始めた。汚れまみれで疲れきった彼は、一軒の家の前に立った。中にいたフランス人の婦人が哀れんで、ベナディールを招き入れた。それから彼の体をきれいにして、家事係としてこの家にいてよいと言った。

この婦人が何という名だったか、アミーンは覚えていない。ともあれ、婦人の夫はいくつもの店を所有する商人で、あるときベナディールはこの主人から一軒の店番を命じられる。ベナディールはこれをとても責任の重い仕事だと思い、きちんと朝5時に店を開け、真夜中に店を閉めた。夜は店で眠り、食事も店でとった。しばらくすると、主人は店の儲けが大きく増えたことに気づいた。そこで少年にさらに多くの店を任せ、彼を息子のように扱い始めたのだ。

1956年、モロッコはフランスとスペインから独立を勝ち取った。ベナディールを置いてくれたフランス人一家は、ほかの多くの外国人と同様に大あわてで帰国した。出国する際に、主人は事業をベナディールに譲った。こうして、アミーンの祖父は地元でかなりの大物になったのだった。(p. 72)

2014年9月30日火曜日

貧しくてもハッピーだった(起業家イーロン・マスク)

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EV(電気自動車)のテスラ・モーターズや米国西海岸の超高速交通システム構想などで名を馳せているイーロン・マスク氏の特集記事が、最新号の日経ビジネス(2014/9/29号, No.1759)で掲載されていました。もしかしたら日本の一般紙では彼をよくとりあげていて、世間のみなさんはすでにご存じのことかもしれません。しかし個人的には彼に関するまとまった文章をはじめて読んだので、いろいろと響くものがありました。今回は、彼にインタビューした記事から印象に残った箇所を引用します。

なお引用元の記事は、日経ビジネスのWebサイトでも公開されていました。登録ユーザーの方は無料で読めるはずです。(2014/9/29 21:30現在)

世界に役立たないなら、会社の存在意義はない (日経ビジネスONLINE)

はじめに、ベンチャーを立ち上げていた頃の生活や心持ちについてです。

本当に貧乏だったんです。私が学生時代に弟と最初のベンチャーを起業した当時は、文字通り無一文でした。学費をローンで借りており、むしろ借金があったほどです。家を借りるよりも安かったので、小さなオフィスを借りました。そこで寝泊まりして、シャワーを浴びるのは、歩いて数ブロック先にあった「YMCA」でした。

すごく貧しかったのですが、私はそれを恐れたりはしませんでした。なぜなら私は貧しくても不幸ではなかったからです。1999年に住んでいたアパートは2人の友人とシェアしていました。大人数で住むと家賃や光熱費はとても安上がりになります。貧しくてもハッピーであることは、リスクを取る際に非常に大きな助けになります。


つぎは問題の火星移住計画について。

スペースXでは、人類が複数の惑星で生存できる道があるかどうかを確かめたいと思っています。人類の文明と技術が高いレベルにあるうちに、宇宙を探検し、火星に恒久的な基地を建設したいのです。

私は悲観主義者ではなく、未来に関して楽観的です。終末論が好きなわけでもありません。しかし歴史は、技術が波のように進歩したり、後退したりすることを示唆している。歴史上の多くの文明はそのような経験を繰り返してきました。そうならないことを願いますが、技術の後退が起きる前に火星に基地を作ることは重要だと思います。


今までは彼の狙いを知らなかったため、とんでもない話だと思っていました。しかし、この発言を読んで印象が変わりました。わたしも自分なりに似たような想いを抱いていたからです(ずっと先のことだと考えていましたが)。

最後の引用です。こちらもいいです。

私は単純な成長だけを目的に企業を成長させようとは思っていません。会社の成長よりもEVをもっと普及させることの方がはるかに重要です。それが世界にとって良いことだからです。株価うんぬんは関係ありません。「私たちは世界に役立つことをしている」。それが一番大事で、それこそが私のモットーです。(p.49)


もうひとつ、こちらはイーロン・マスクの言葉ではなく、少し前にチャーリー・マンガーが彼を評した言葉です。(日本語は拙訳)

Munger Hosts Groupies, Mocks Wall Street, Praises Buffett (Bloomberg)

「イーロン・マスクは天才だと思います。私はその言葉を軽々しくは使いませんが」。彼らが会話をしたかどうか質問されて、マンガーはそう答えた。「その上、この世に現れた最高に大胆で果敢な人間の一人でもあります。私は『IQが190なのに自分では250だと考えている人間は誰であろうと、いかにも危ないと思うね』と言ってきたので、その件は非難してくれてかまいません」。

"I think Elon Musk is a genius, and I don't use that word lightly," Munger said in response to a question about whether they'd talked. "He's also one of the boldest men who ever came down the pike. So put me down as saying I've always been afraid of the guy whose IQ is 190 and he thinks it's 250."

2014年2月10日月曜日

公園のながめをあきらめきれない(ベノワ・マンデルブロ)

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少し前に『フラクタリスト―マンデルブロ自伝―』を読みました。マンデルブロと言えば異様な図形「マンデルブロ集合」が有名ですが、金融の世界でもファット・テールを指摘するなど、重要な成果を残しています。


科学者の伝記を読む理由はいつも同じで、偉大な業績を成した人物はどのように考えてどのように判断するのか参考にしたいからです。しかし本書ではその種の話題はあまり登場せず、第二次世界大戦期だった若者時代の逃避行や、独自の学者経歴を歩んでいく顛末・心境を中心につづられていました。その意味では当初のねらいに即した本ではなかったのですが、個人的に興味を持っている主題「逃げる」ことが少なからず描かれており、逆にそちらの話に引きこまれました。翻訳者の影響なのかもしれませんが、著者の文体は抑制が効いていて浮わついたところが少ないように感じられ、全般的に共感できる文章でした。今回はその「逃げる」ことについて本書から引用します。

最初の引用はナチス・ドイツがポーランドに侵攻する前のことで、マンデルブロの一家がワルシャワからパリへ逃げる話です。
二度と帰らない覚悟でこの地を離れるべきか? 私の年齢を考えると、タイミングは完璧だった。その一方で、パリに行った場合には父の身分がどうなるかわからず、母は仕事をやめて収入も手放さなくてはならないとすれば、ひどくまずいタイミングでもあった。しかしミルカの一件で迷いが消えた。ポーランドは両親が息子たちのために望む国ではなかったのだ。決断が下された。(中略)

両親の恐れていたあらゆることがポーランドで忌まわしい現実となる前に、二人の大胆な計画が功を奏した。私たちは南フランスへ行って土地の人のようなふるまいや話し方をして、その地でたくさんの誠実な友人を得た。(中略)

知り合いの中で、フランスへ移って生き延びることができたのは私たちだけだった。たいていの人は、ぐずぐずしているうちに状況がひどく悪化してしまった。ワルシャワ時代の知人で生き残ったのは二人だけだ。私たちの上の階に住んでいたプラウデ夫人は夫を亡くしたが、戦争が終わってから私と同い年の娘を連れてパリへやって来た。そして私の母に連絡をとり、友だち付き合いを再開した。ほかの人たちは貴重な陶磁器を手放せなかったり、べーゼンドルファーのコンサートグランドピアノが売却できなかったり、あるいは窓から見える公園の眺めをあきらめられなかったりして、動きがとれなかったらしい。母はそんな話にぞっとしながらも、感情を隠したまま耳を傾けていた。(p.79)

つぎはドイツ占領下のフランスで起きた彼の父親の話です。
フランスがドイツに占領されていたころのことだが、父の賢さと独立心と勇気を物語るエピソードがある。父は最終的な死の収容所へ連行される前の一時収容所に入れられていた。ある日、フランスのレジスタンス部隊が突入して警備兵を制圧した。ゲートを開放することはできるが収容所を防護することはできないと叫んだかと思うと、みんな逃げろと言って立ち去った。父は最寄りの町を目指して歩く収容者たちの長い列に加わったが、不吉な気配を察してわき道に入った。するとおののく父の目の前で、警備兵から連絡を受けたナチス武装親衛隊のシュトゥーカ爆撃機が、収容者たちを地上掃射した。父は家に帰り着くまでずっと細い道を選び、寝るときは人気のない小屋を見つけた。父以外で戦争を生き延びた人たちも、死の収容所へ向かう集団にいて逃げ道に気づいたら、即座にそこへ飛び込んだと言っている。父はまさにそういう人間だった。(p.42)

最後の話は、パリからフランスの中部へさらに避難したころの生活の様子です。
川を下った兵器工場のそばの平らな土地に小さなアパートがあり、その最上階に格安の貸間が見つかった。避難民支援の一環として、基本的な家具類は支給された。レオンと私は狭苦しい台所兼食堂で寝た。暖房用のストーブで料理もした。両親の部屋も暖まるようにと境のドアを開け放っても、漆喰と麦わらの混ざった三方の壁が丘陵地の外気に触れているので、部屋は冷えきってしまう。冬場には室内につららができた。一階にトルコ式トイレが一つあり、玄関には冷水しか出ない蛇口があった。言うまでもないが、浴室はなかった。(中略)

父はいつもメモをとりながら熱心に本を読んでいた。次にどんな運命が降りかかるかわからないということを忘れず、ぼろぼろの古い本で英語の書き方を勉強していた(「備えあれば憂いなし、だからな」)。何年もあとで私が見つけた革製のブリーフケースの中に、父の膨大な学習帳のうち数冊が奇跡的に残っていた。(p.110)

蛇足ですが、我が家では暖房を入れていないので、今年は寒い思いをしています。板張りの部屋の窓際に敷いた布団に入りこんだときには、マンデルブロのつららを思い返しています。

2013年6月20日木曜日

「ノー」という答えは受けつけない(アンディ・グローブ)

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インテルの歴代CEOで最高の人物といえば、アンディ・グローブでしょう。彼はハンガリー生まれのユダヤ人でしたが、冷戦下で東西対立がつづく時代に母国から逃亡し、アメリカに亡命しました。その顛末は自伝にも描かれていますが、今回は別の著者が書いた伝記『アンディ・グローブ』からご紹介します。この本は比較的新しく、邦訳は2008年に刊行されています。

国外への脱出について考えると、心配なことは山ほどあった。ちまたには噂が溢れ、噂が噂を呼ぶ有様だった。国境を無事に越えた人もいれば、第二次世界大戦中のジョルジュ・グローフ[アンディの父。アンディはのちにグローブに改姓]のように、忽然と姿を消した人もいた。「消える」のは望ましいとはいえない。二度と姿を現さないかもしれないからだ。

アンディがもしオーストリア国境を目指すなら、最終目的地はひとつしかなかった。「もちろんアメリカだ。共産党政権は『帝国主義に毒された、金儲けしか頭にない国』と呼ぶだろうけどね。彼らが軽蔑すればするほど、僕にはいっそうアメリカが好ましく思えてくる。アメリカは富と技術に満ちた神秘の国。自動車とハーシー・チョコレートで溢れているはずだ」

アンディは、かつて自分が「間抜け」呼ばわりしたマンツィに背中を押された。1956年にはアンディは年の離れたいとこを尊敬するようになっていた。彼女が人生でどのような経験をしてきたのか、理解できる年齢に達したのだ。「アウシュヴィッツからの生還者であるマンツィは、この世の地獄を目の当たりにしていた。いつでも冷静な彼女が、物事を針小棒大に語ることなどありえない」

12月初めのある午後、マンツィはアンディにこう語りかけた。「アンドリシュ。この国にとどまっていてはいけない。行きなさい、いますぐに」。ソ連軍が若者たちを問答無用で連行していた。彼らはすぐに消息不明になるのではないか、と心配されていた。にわかに、国内にとどまるのは海外逃亡を試みるのと同じくらい危険そうな雲行きになっていた。

このときもまたグローフ一家は果敢だった。行動すべきタイミングでは決然と動き、無駄な時間を過ごすことはなかった。「オーストリア国境を目指すべきだ」と家族3人で決めると、翌朝にはアンディはキラーイ通りのアパートを後にした。祖国ハンガリーの首都ブダペストにあるこのアパートは、アンディにとってただひとつの安息の場所だった。アンディはその晩、アパートに静かに別れを告げた。

(中略)

暗闇のなかを、ところどころで躓きながら進んでいく。犬が吠え、突如として夜空を閃光が走る。4人の学生たちは地面にひれ伏す。閃光が消え、あたりはふたたび一面の闇。男が現れ、ハンガリー語で「誰だ?」と探りを入れてくる。どうしてドイツ語ではなくハンガリー語なのだろう。男がつづける。「安心しろ、ここはオーストリアだ」。とうとう安全な場所にたどり着けたのだろうか……。

(中略)

逃避行の頼みの綱は、国際救済委員会(IRC)という組織だった。アンディがウィーンのIRC事務所を訪れると、職員たちは彼の英語力に驚いた。通訳を介さずに面談ができたのだ。ハンガリーでソ連軍と戦ったのかと尋ねられ、アンディは実際に戦ってはいないが、デモ行進には参加したと答えた。

(中略)

翌日届いた知らせにアンディは肩を落とした。IRCがアメリカへ移送すると決めたメンバーのなかに、アンディの名前はなかったのだ。「まるで胃のあたりを殴られた衝撃を受け、心臓が早鐘を打ちはじめた。何とか呼吸するのがやっとだった」。それでもアンディはくじけなかった。血相を変えてIRC事務所に駆けつけ、いつもの行列の先頭に割り込むと、嘆願を試みた。あまりの説得力に、IRCの職員たちはアンディの訴えを聞き入れ、アメリカ行きを認めた。「僕はうれしくて言葉もなかった」(上巻p.85)


余談です。インテルは1980年代に日本企業とのDRAM競争に負けて経営資源をロジック(CPU)へ集中させました。そのインテルとフラッシュメモリー分野で協業しているマイクロンは、エルピーダの買収をいよいよ完了しようとしています。初期のインテル社員にとっては感慨深いものでしょうね。

2013年3月15日金曜日

李鶴洙(サムスン電子元副会長)

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今回は「備える、逃げる」というテーマについて、何年か前に手にとった本『サムスンCEO』で印象に残っていた箇所をご紹介します。このテーマは自分の中でもそれなりに重要な位置を占めているものです。

1976年12月のとても寒い夜だった。ある病院が火事になり、そこから水に濡らしたベッドのシーツを身にまとってかけだしてくる者がいた。李鶴洙[イ・ハクス]だった。彼はその年、急性肝炎で大邱病院に入院していた。彼の病室は6階。そして、その病院で火事が発生した。当時、第一化織の管理部長だった李鶴洙は、「火事だ!」という叫び声で目が覚めた。彼は突然の出来事にもかかわらず、シーツを水で濡らし、非常口に向かって走り出した。幸いにも、外へ逃げることができた。彼のこのような行動は、以前から火災が起きることを予見し準備していたかのようだった。

彼が非常事態でも適切、迅速に対処できたのは、父親のおかげだった。彼が大邱病院に入院して数日も経たないうちに、父親が見舞いにやってきた。その時、父親は李鶴洙にこのように言ったという。

「私がさっき見たのだが、この病棟には非常口が2つある。右側の非常口は閉じられ、左側は空いている。もしかして知らないと思ったので知らせておく。人間はいつも準備しておくものだ

李鶴洙が「火事だ!」という声を聞いて目が覚めた時、最初に浮かんだのはこの父親の言葉だったという。そのため、彼は迷うことなく冷静に左側の非常口に向かって逃げ出せたのだった。(p.37)


余談になりますが、はじめて買った株がノキアだったこともあり、アメリカ市場における各社の動きを注視していた時期がありました。当時はRAZRを擁するモトローラが息を吹き返す一方、サムスン電子もクラムシェル型(折りたたみ型)端末を連発していました。センスのよい日本各社の端末とくらべるとサムスンの初期製品は「ドン亀」といった見ためでしたが、折りたためないストレート型の端末が多い市場でクールな印象を与え、着実にシェアを伸ばしていました。

サムスンの最新型端末ギャラクシーS4が本日発表されました。製品のデモを一瞥して同社の大躍進ぶりに感嘆するとともに、この業界の生態系は次の新たな勝者を望んでいるようにも感じられました。

2013年2月18日月曜日

ウォッカの大瓶を買ってきてあげる(ミセスB)

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以前にとりあげた『最高経営責任者バフェット』は、バークシャ・ハサウェイ傘下のそれぞれの子会社を率いるCEOの横顔を描いた著作です。その一人であるミセスBといえば、ウォーレン・バフェットとやりあった頑固者として有名ですね。今回は、彼女の生い立ちを引用します。ずっと印象に残っている文章です。

1998年8月11日火曜日、ローズ・ブラムキン(104歳)は、故イザドーの未亡人として、ルイ、フランシス、シンシア、シルビアの母として、12人の孫、21人のひ孫のいるおばあちゃんとして、そしてネブラスカ・ファニチャー・マート(NFM)の創業者としてオマハのゴールデン・ヒル共同墓地に埋葬された。家族、友人、隣人から非常に尊敬されていたこともあり、葬儀に参列した人の数は1000人を超えた。しかし、このころすでに孫のアーブとロンによって経営されていたオマハの店は、その日も休まず営業している。「店を閉めることなど母は望まないと思いますから」と、娘のフランシス・バットがオマハ・ワールド・ヘラルド紙の記者に対して答えている。

1937年、ローズ・ブラムキンが44歳の時、兄弟から500ドル借りて創業したネブラスカ・ファニチャー・マートは、彼女の忍耐力のおかげで、今やネブラスカ州オマハの中心部に77エーカー(約9万4000坪)の事業用地を所有し、1500人の従業員を抱え、家具・カーペット類・家電製品・電子機器等の年間売上高は3億6500万ドルに上る。利幅を業界平均より10ポイント下に抑えることで、市場を完全に支配し、家具の売り上げではオマハで約4分の3のシェアを獲得している。しかも、数量ベースでは全米最大の家具小売業者となっているのである。NFMの60年間の歴史を通して売上高は常に増加傾向をたどり、毎年記録を更新している。従業員1人当たりの売上高は他の国内小売業者よりも40%多く、純利益率はほぼ2倍。年間売上高にいたっては、平均的なウォルマートの店舗の8倍以上もある。特に何がすごいかというと、1平方フィート(約0.09平方メートル)当たりの売上高は865ドルで、これはホールセールクラブ(会員制倉庫型安売り店)最大手でディスカウント業界首位のコストコよりも100ドルも多いのである。帝政ロシア時代、まだつつましかったミセスBの駆け出しのころからは、とても想像できないことだ。

1893年12月3日、ローズ・ゴーリックはロシア帝国(現ベラルーシ共和国)のミンスク市に近いユダヤ人村シドリンで生まれた。父ソロモンと母チャシアの間に生まれた8人の子どものうちの一人だった。家は2部屋しかない掘っ立て小屋で、わら製のマットの上で寝ていた。当時のユダヤ人居留地ではよくあることだが、父は研究に明け暮れ、母は家計を支えるために食料品店を営んでいた。ローズは正式な教育を一度も受けたことがない。グラマースクール(小学校)にさえ行ったことがなかった。わずか6歳のころから店の手伝いをしていたと、のちに回想している。あるとき、「夜中に目を覚ましたら、母がパンをこねていた」のを覚えているという。「で、そのとき、こう言ったのさ。『ママがこんなに一生懸命がんばってるなんて、なんか悲しいよ。あたしが大きくなるまで、待ってて。あたしがお仕事見つけてアメリカに行く。そしたら、ママをアメリカに呼んであげる。大きな町に行ったら、きっとお仕事見つかると思うの。ママをお姫様にしてあげるね』って」

13歳になるころには、もう村を離れる覚悟を決めていたという。靴底を減らさないように靴を肩に背負い、最寄りの駅まで約30キロの道のりをはだしで歩いた。汽車に乗り、仕事を求めて訪ねた店は25軒。そしてついに仕事をくれる店を見つけた。衣料品店だった。それから3年もたたないうちに、店をやりくりするようになり、男性従業員6人を従えるようになった。

1913年、20歳のとき、靴の販売をしていたイザドー・ブラムキンと結婚。しかし翌年、第一次世界大戦が勃発。皇帝のために戦う気のなかったイザドーは兵役を逃れるためにロシアを離れた。それから3年後の1917年、ローズは夫のあとを追ってアメリカに行こうと決意し、シベリア鉄道に乗った。シベリアまで来た彼女は、ロシアと中国の国境付近で兵士に呼び止められた。兵士には「軍のために革製品の買い付けに行くところだ」と答え、「帰りにウォッカの大瓶を買ってきてあげるから」と言ったら通してくれたそうだ。

船で太平洋を渡り、ワシントン州シアトルに着いた。英語も分からず、入国ビザも所持していなかったが、幸い、ユダヤ人移民援助協会とアメリカ赤十字の計らいで、移民帰化局(INS)のお役所手続きをパスし、アイオワ州フォートドッジで夫と合流することができた。彼女は亡くなるその日まで、この町の名を「フォートドッチビー」と発音している。おそらくロシアを離れたおかげだろう。彼女はここで命拾いすることになる。生まれ故郷の村ではユダヤ人2000人のうち「1900人が新年祭の当日、ヒトラーに殺された」そうだ。彼女いわく、「村人たちは自分たちの墓を掘らされた揚げ句、ナチスに灯油をかけられて葬られたのさ。あいつらに皆殺しにされたんだ。村中の人たちが」(p.140)

2012年4月15日日曜日

飢えた犬が骨に食らいつくような光景

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最近読んだ本『ハイパーインフレの悪夢』は、その時代に生きた人々の思いや世相が伝わってくる一冊です。インフレが高じたメカニズムを解明する類の本ではありませんが、歴史から何かを学ぼうとする人にとっては一読に値する本だと思います。

今回は同書からの引用で、1923年11月6日ごろに、あるイギリス人実業家がベルリンで見た光景です。第一次世界大戦でドイツが敗れ、1919年6月にヴェルサイユ条約を受諾した時点での為替レートは、1ポンド=20マルクでした。一方、この文章が書かれたのはハイパーインフレの末期で、1ポンド=3100億マルクまで減価していました。

わたしは自分が目にした光景に気分が悪くなりました。たまたま、フリードリヒシュトラッセとウンターデンリンデンのあいだのアーケードを通りかかったのです。するとその狭い空間に、ほとんど死にかけた3人の女がいました。肺病か飢餓の最終段階にあるようでした。おそらく飢餓のほうでしょう。女たちには施しを求める力さえありませんでしたが、わたしが無価値なドイツの札をひと束与えると、必死になってそれをつかもうとしました--飢えた犬が骨に食らいつくように。それを見て、わたしは衝撃を受けました。わたしはドイツびいきではありませんが、休戦から5年が経つ今、わたしたちがこのような事態を容認しているとは驚きです。ああいう惨めなものを見たことがない人たちに、ここの実情がほんとうに理解できるのか、疑問に思わざるをえません。(中略)もちろんベルリンでは、自動車や、ぜいたくに暮らす裕福な人々も見かけます。しかし貧しい地区で何が起こっているか、ご存知ですか?食糧を求める長い行列を見れば、説明は無用でしょう。(p.245)