<質問45> 経営者は本源的価値をどのように考慮して算出しているのですか。あのコカ・コーラ社にもペプシがあるように、どの企業が当社にとっていちばん脅威ですか。
<バフェット> 実のところベン・グレアムは、本源的価値の計算という点ではあまり細かくは示しませんでした。ちょうど相対取引価値と比較されるものです。はじめてその問題に取り組んだ人がイソップでした。未来のことがわかるのであれば、本源的価値とは現在から審判の日までに分配されるすべての現金の現在価値になります。それに対して資金を投じ、そしてお金を受け取るわけですね。手元の1羽は、茂みに隠れた2羽に相当します。ここで問題となるのは、茂みに2羽いることをどこまで確信できるか、茂みまでどれだけ離れているか、そして金利はいくらかです。イソップは、我々が検討する余地を残そうと考えました。ですから彼はすべてを細かくは説明せず、その後2000年にわたって我々は試行錯誤しているわけです。ベンはその計算方法として「茂みに潜む2ドルのために、1ドルなら支払う」と言ったものです。一方、[フィル・]フィッシャーは茂みにいる鳥の数を評価する際に定性的な要因を使いました。はじめのころはグレアムから大きな影響を受けていたので、以前のわたしは定量的にやっていました。しかしチャーリーに出会って、もっと定性的に考えるようにと言われました。マクドナルドのフランチャイズを買うときには、資金の出入りがいつ発生するか、そしてその割引率をどうするか考えるものです。しかし決め手となる質問「どんな脅威が想定されるか」の答えはどうかと言えば、バークシャーには大いなる強敵がいるとは思えません。プライベート・エクイティー(私募のファンド)は安い借入金を使って事業を買収しているので、彼らとは競合しています。この領域がわたしとチャーリーの主な仕事になっています。しかし、わたしたちが達成しようとしている後につづくモデルを持っていたり、築こうとしている会社は見当たりません。
<マンガー> さきほども言いましたが、これまでに築いてきたバークシャーのモデルは、ショー・ビジネスで言われるのと同じように、これからもしっかりと長続きすると思います。そう信じられるのは、長期にわたって持続するのに足る優位があるからです。巨大な企業でそれを有するところはほとんどありません。巨大になった後でもずっとそのままでいられる会社は稀です。すでに我々も、どこの会社もなかなかうまく進まない領域へと入りました。それでも我々は、ロックフェラーが築いたスタンダード石油[業界史上最強の石油会社]のようになると思います。ですから、この演壇に上がっている人間はもう重要ではないのです。聴衆のお若いみなさんは、急いでバークシャー株を売らないほうがいいですよ。
<バフェット> なぜ真似するところがもっと出てこないのでしょう。
<マンガー> それは、外科医である我らが友人エド・デイヴィスと同じことです。彼は自分で作りだした機器を使って手術する方法を考えだしました。他のやりかただと死亡率が20%のところ、彼は2%です。見学に来た他の外科医が「これはとてもできない」と嘆息したものです。非常にゆっくりとやっていたからです。そして、我々がバークシャーでやっていることを教えているビジネス・スクールも皆無ですね。
<バフェット> 歩みが遅いと、やる気をくじくわけですね。
<マンガー> なぜゆっくりやるのがむずかしいかと言えば、終える前に死んでしまうからです(笑)。
<バフェット> なぜ楽しいのでしょうね(笑)。
Q45: Station 4, Los Angeles. How does management factor into valuing instrinsic value. Which company do you fear the most, as even Coca‐Cola has their Pepsi?
WB: Actually Ben Graham didn't get too specific about intrinsic value in terms of calculations. Now it is equated rightly with private business value. Aesop was the first who came up with it. It is intrinsic value if you can foresee the future, the present value of all cash that will be distributed between now and Judgment Day. You put money in and you take money out. One in hand is worth two in bush. The question is how sure are you that two are in the bush, how far away is bush, what are the interest rates ‐ ‐ Aesop wanted to leave us something to play with over next two thousand years so he didn't spell it all out. In calculating it, Ben would say he wanted two dollars of cash in the bush and pay a dollar. Fischer would use qualitative factors to estimate the number of birds in the bush. I started out very influenced by Graham, so more quantitative, but Charlie came along and said look more at qualitative. If you buy McDonalds franchise, you think about the cash in, the cash out, when, and at what discount. Silver bullet question - are there any threats? I don't see big competitor to Berkshire. Private equity is buying businesses and leverage is cheap - so they are competing with us. That is main occupation for me and Charlie. I don't see anyone who has a model or is trying to build model which is going after what we are trying to achieve.
CM: As I said earlier, the Berkshire model as it is now constructed, as they say in show business, has legs and will go a long time. It is credible. It has enough advantage it will go a long time, and most big businesses don't have it. Of those who have gotten big, few have stayed big. We are in territory where many stop going well, but I think we'll be like Standard Oil. The people up here are no longer that important. You young people in the audience ‐ don't be too quick to sell the stock.
WB: Why not more copycats?
CM: It's like our friend Ed Davis, the surgeon, he figured out how to do an operation with instruments of his own creation, and death rate was 2% versus others who were 20%. Surgeons came to watch and they said well that looks too hard to do and it was slow. There is nothing in business school that teaches people to do what we do at Berkshire.
WB: Slowness deters more people.
CM: The difficulty with being slow is you're dead before it's finished. [laughter]
WB: Why so cheerful? [laughter]
2014年8月6日水曜日
2014年バークシャー株主総会; 歩みが遅いと、やる気をくじく
2014年8月4日月曜日
第4次世界大戦で使われる武器(アルバート・アインシュタイン)
ひとつめは最先端テクノロジーについてです。SF小説『ニューロマンサー
国防総省高等研究事業局(DARPA)は、人間改造の研究に多額の資金を提供している機関の一つだ。1970年代にはインターネット(当時はアーパネットと呼ばれていた)を開発した。同局のブレイン・インターフェース・プロジェクトは現在、シリコンではなく酵素とDNA分子で作られた超小型コンピューターに注目している。兵士の脳に埋め込めるものだ。最初の分子コンピューターは2002年に発表され、2004年には改良版ががん治療に使われるようになった。しかしDAPRAは、もっと高度なモデルによってシナプスの結びつきが加速され、記憶容量が増え、ワイヤレスのインターネット・アクセスが可能になると考えている。同じようにDAPRAのサイレント・トーク・プロジェクトは、脳内の言語化前の電子信号を解読してインターネット経由で送ることで、兵士が無線機やEメールなしで通信できる装置の開発に取り組んでいる。全米科学財団のレポートによれば、このような「ネットワーク化が可能なテレパシー」は、2020年代には実現するという。(下巻 p.325)
インターネット技術が民生に転用されて発展するまでのタイムラグは、たとえば30年間ほどと言えそうです(1970年 -> 2000年)。その数字をそのまま敷衍すると、一般市民の脳がインターネットに直結する時代がやってくるのは、2050年か60年ぐらいになりそうですね。
もうひとつは、原爆開発に関わったアインシュタインの残した警鐘で、非常に暗い未来の可能性を示しています。
1949年、アインシュタインはジャーナリストに言った。「第3次世界大戦がどのように戦われるのかはわからない。しかし、第4次世界大戦で人々が何を使うかはわかるよ……石、だ」。(下巻 p.340)
2014年8月2日土曜日
『人類5万年 文明の興亡: なぜ西洋が世界を支配しているのか』
これから読まれる方に差しさわりのない内容を、今回は2か所ご紹介します。ひとつめは、チャーリー・マンガー的表現である「学際性」について触れた文章です。
大学教授というものは、管理的な役割には不平をこぼすのが常だが、1995年にスタンフォード大学に移ったとき、私はすぐに、委員会に属することは狭い学問領域の外で何が起きているかを知る絶好の機会だと気づいた。それ以来、大学の社会科学史研究所や考古学センターの運営に携わり、古典学部の部長、人文科学研究所の副所長を務めながら、大規模な発掘調査を行っている。おかげで遺伝学から文芸批評まであらゆる分野の専門家を出会うことができた。そのことが、なぜ西洋が世界を支配しているのかの解明に影響しているかもしれない。
私は、一つ、大きなことを学んだ。この問いに答えるには、歴史の断面に焦点を合わせる歴史家の力、遠い過去に対する考古学者の認識、社会科学者の比較研究の手法を組み合わせた幅広いアプローチが必要なのだ。それは様々な分野の専門家を集め、深い専門知識を活用することによって可能になる。シチリアで発掘を行ったときにまさに私がしたことだった。炭化した種子を分析するための植物学、動物の骨を特定するための動物学、収納壺の残滓を調べるための化学、地形の形成プロセスを再現するための地質学をはじめ、大勢の専門家の協力が欠かせなかったため、私はそういった分野の専門家を探し出した。発掘調査の監督は学問の世界の指揮者のようなもので、優れた演奏家を総動員する。
この方法は、発掘報告書の作成には有効だ。他者が使えるようなデータを蓄積することが目的だからだ。しかし、大きな問いに対する統一的な答えをまとめるには適していない。したがって本書では、集学的アプローチではなく、学際的アプローチを取る。専門家の一団を注意深く見守るのではなく、自分自身で様々な専門家の知見を集めて解釈する。
このアプローチには、分析が偏る、表面的になる、ありがちな間違いを犯すなど様々な危険が伴う。私は、中国文化をその道何十年という研究者ほどには理解できないし、遺伝学者のように進化についての最新情報に精通しているわけでもない。(サイエンス誌は平均13秒に一度ウェブサイトを更新しているらしい。この文章を書いている間にも遅れを取ってしまっただろう)。しかし一方で専門領域に留まり続ける者は、決して全体像を見ることができない。本書のような本を書く場合、学際的アプローチを用いて一人でまとめるのは最悪の方法かもしれないが、私には一番ましに思える。私が正しいかどうかは、読者の判断にゆだねるしかない。(上巻 p.31)
もうひとつは、広く適用できるモデル「後進性の優位」についてです。
5000年前、ポルトガル、スペイン、フランス、イギリスにあたる地域がヨーロッパ大陸から大西洋に突き出ていたことは、地理的には大きなマイナスだった。メソポタミアやエジプトでの日々の営みから遠く離れていたからだ。ところが500年前、社会は大きく発展し、地理の意味を変えた。かつては決して渡れなかった大洋を渡れる新しい種類の船の完成によって、大西洋に突き出た地形がにわかに大きなプラスになった。アメリカ大陸や中国、日本へと漕ぎ出したのは、エジプトやイラクの船ではなく、ポルトガル、スペイン、フランス、イギリスの船だった。海洋貿易で世界を結び始めたのは西ヨーロッパ人であり、西ヨーロッパの社会は急速に発展し、東地中海の旧コアを追い越した。
私は、このパターンを「後進性の優位」と呼ぶ。社会が発展し始めたときから存在するものだ。農村の都市化(西洋では紀元前4000年、東洋では紀元前2000年頃)に伴って、農業の発生を可能にした特定の土壌や気候へのアクセスは、農地の灌漑用水や交易ルートとして用いられる大河へのアクセスほど重要ではなくなった。その後も国家は拡大し続けたため、今度は大河へのアクセスが、鉄、長距離の交易ルート、マンパワーの源などへのアクセスほど重要ではなくなった。このように、社会発展に伴って必要なリソースも変化する。かつてはそれほど重視されなかった地域が、その後進性に優位を見出すこともある。
「後進性の優位」がどのように生じるのかをあらかじめ述べるのはむずかしい。後進性がどれも等しいわけではないからだ。400年前、多くのヨーロッパ人は、カリブ海の植民地には北アメリカの農地より明るい未来があると思ったようだ。今になってみれば、なぜハイチが西半球で最も貧しい地域となり、アメリカが最も豊かな地域となったのかがわかる。だが、こういった結果を予測するのはかなり困難だ。
それでも「後進性の優位」が明確に示しているのは、第一に、各コア内の最も先進的な地域は時とともに移動するということだ。西洋では、初期の農業時代には、ティグリス・ユーフラテス川流域の丘陵地帯が最も進んでいたが、やがて国家の出現に伴って南のメソポタミアやエジプトの川の流域へと移り、貿易が重要になり、帝国が拡大するにつれ、西部の地中海沿岸地域へと移った。一方東洋では、先進地域は黄河と長江に挟まれた地域から長江流域へ、さらには西の渭水や四川へと移っている。(上巻 p.42)
追記です。類書の『銃・病原菌・鉄
本書では、著者が主張を展開する上で2つの軸を用意しています。ひとつめが、西洋と東洋の両文明圏の発展度合いを測る尺度として「社会発展指数」と称する指標を導入したことです。この指数によって、両文明の社会的状況や能力が歴史的にどのように上下するかを定量化し、その上で定性的な歴史的解釈によって肉付けしています。文明の度合いをどうやって測るのかは大きなテーマだとは思いますが、著者が選んだ評価項目はそれなりに納得できます。なお本文中では歴史的エピソードの記述がつづきますが、随所に逸話が盛り込まれ、飽きることなく読み進められました。
もうひとつが、西洋圏の範囲として狭義の欧米だけでなく、文明の曙である中東を含めたことです。つまりメソポタミアやエジプトも西洋の一部とみなした上で、東洋(中国、朝鮮、日本、東南アジア等)と比較しています。従来型の定義からは逸れますが、本書を通読してみれば、「西洋=ユーラシア大陸の西側」とした定義は妥当だと思います。
これらの本質的な軸を設けたことで、歴史的事実の細部に囚われることなく、大きな流れをとらえて歴史解釈を進める助けになっただろうと想像します。歴史という長い時間軸では、「精確にまちがえるよりも、おおよそ正しい」視点を持つことが重要だと思います。その意味で、著者のとったアプローチからは学ぶところが多いと感じました。
2014年7月30日水曜日
若い頃の投資で学んだこと(2)(ジェレミー・グランサム)
実のところ、1969年4月には決定的と言っていい出来事がもうひとつありました。その当時、マサチューセッツ州ニュートンにあるヴィクトリア風の魅力的な3階建ての家に、妻と私は心を奪われていました。しんとした静かな通りに面した家で、リンゴ園が隣接しており、背後にはまだ人の手が入っていない丘の斜面が続いていました。売り手の希望する値段は4万ドルでした(現在の感覚ではおそらく100万ドル以上だったでしょう)。直前に下落していたものの、我が家の資産には余裕がありました。そのため住宅ローンを借りずに家を購入し、新車のBMW2002型を買ったとしても(小型ながらも高速で目立ちすぎることもありませんでした。そしてかなり安かったのです)、まだ数千ドルが手元に残る計算でした。ところが提示した金額3万7千ドルは拒絶され、取り下げになりました。そしてその件を再検討している最中にも、手持ちの株価は崩れ始めました。振り返ってみれば、私は幸運でした。「かもしれない」にすっぱり別れを告げて、1株60ドル台前半でおさらばしたのです。結局のところ、アメリカン・レースウェイに集まった当初の群衆のほとんどは新しもの好きと好奇心によって構成され、熱狂的な客はまったくと言っていいほど付きませんでした。アメリカ人が自分たちのスポーツと感じるには、本物のレーシング・カーではなく、自分たちの乗っているような車でないとダメなのです。そんなこととは露知らずでした。さて、完全に破産したわけではなく、かといってすっかり心を入れ替えてもいなかった私は、損失分を取り返すことに熱を入れました。当然ながら、本物の勝ち馬に早々と出くわしました。その新しいアイデアとは「マーケット・モニター・データ・システム」と呼ばれるものです。後になってから振り返ってみても、まさに革新的な技術でした。どのブローカーの机上にも「モニター」つまり電子的画面を表示し、独自の市場を作ってオプション取引を行うことができました。ただし、ある数学教授によるこの発明にはあやまちが一つだけありました。時代の先を行き過ぎていたのです。その技術が完全に受け入れられたのは15年後のことでした。いや、なんとも。さて、[株価が]好調に上昇したところで、株主にもわかるようになったことがありました。「モニターがインストールされると急に費用がかかるようになるが、ビジネスは入ってこない」ことです。ほとんど皆無でした。私にとってその後の展開は、典型的な調子よりもはるかにタカのように進みました。しかし破産寸前になった2週間をなんとか乗り切り、マージン借入と銀行ローンを返済する金額を確保した上で手元に5千ドルが残りました。すでに私は起業家として会社を立ち上げており、無給で働いていました。最初の通年期末に表計算ソフトに記録されていた預かり資産は10億ドルということはなく、ディーンの友人が出した資金1件のみで10万ドルでした。幸いなことに妻がMITプレスで働いていたおかげで、ある程度の収入は得ていました。ですから、ボストン・グローブ紙を買えるのはセルティックスの重要なゲーム[バスケットボール]があったときだけで、新しい服はご法度、必要な食料は1週間に一度バック湾にあるイングリッシュ・ティー・ルームに行って買いだめすることになりました。しかし、苦い薬をかなり飲んだものです。それほど苦くないのもひとつありましたが。たとえば、ニューヨークでの18カ月を特徴づけた倹約生活は、妻にとって愉快なものではありませんでした。今と同じように当時でも、お金があると生活の質に大きな違いが出る場所でした。財産を蓄えて帰郷することは、彼女にとって価値のあることだったと思います。おそらくそうです。しかし彼女にとっていちばん不満だったのは、仕事から帰ったあとにほぼ毎回料理をしなければならないことでした。現在の働く女性ならば我慢している人はいないでしょう。まあ当然だと思います。しかし自己弁護になりますが、60年代にはそうするのが風潮だったのです。ええと、たしかそうだったような気が..。しかし私たちの蓄えが根こそぎ失われたことや、それによって私たちの基本計画がどうなるのか、つまり裕福な身で故郷へ帰るために蓄えることについては、妻は何も触れませんでした。一言もです。経済面で穴の開いた私たちのボートが浮かんでいられるように、彼女はその役割をみずから担ったのです。しかし妻は尽きることのない貸しを私に対して積み残してくれました。つづく46年間にわたって、それは消えずに残り続けました。つまりそういうことなのです..。
In fact, in April 1969 came another nearly defining event: my wife and I fell in love with a charming threefloor Victorian house in Newton, Mass on a very quiet street next to an apple orchard and backing on to some undeveloped hillside. Asking price: $40,000 (today's guess, perhaps $1 million or more). Our family capital account after its then recent decline would still have allowed us to: a) buy the house without a mortgage; b) buy a new BMW 2002 (small, fast, not too showy, and remarkably cheap); and c) have a few thousand left over. But our $37,000 offer was turned down and we backed off. And, even as we reconsidered, our stock began to crumble and I was lucky, with hindsight, to be able to say goodbye to all might-have-beens and to scramble out in the low $60s a share. It turned out that American Raceway's original crowd was based almost completely on novelty and curiosity and had nearly no hard-core followers; Americans liked their blood sports to be in cars that looked not like real racing cars, but in cars that looked just like their own. Who knew? Well, I was neither totally broke nor fully chastened, and was eager to make back my losses. Naturally, I bumped immediately into a real winner. The new idea was called Market Monitor Data Systems and this really was a breakthrough technology, even with hindsight. It was going to put a "Monitor," an electronic screen, on every broker's desk, so that they could trade in options, making their own market. This brainchild of a mathematics professor had only one flaw: it was way ahead of its time. Fifteen years later the technology was completely accepted. Oh, well. After a good rise it became clear to stock holders that expenses rose rapidly with monitors installed and no business followed. Almost none at all. And, following the developments far more hawk-like than was typical for me, I managed to leap out two weeks before bankruptcy with enough to pay down margin and bank loans, leaving me with about $5,000. By then, however, I was in an entrepreneurial start-up that paid no salary and ended its first full year not with the $1 billion under management that had featured in our spreadsheets, but with one account from a friend of Dean's of $100,000. Fortunately, my wife had a job at MIT Press, which paid about what one would expect. So, the Boston Globe would only be bought after important Celtics games, absolutely no new clothes were allowed, and once a week we would stock up on an all-you-can-eat meal at the English Tea Room in Back Bay. But, oh my, did I have lots of painful lessons to absorb and at least one not so painful. First, my wife had not been amused by the frugality that characterized our 18 months in New York, a city then and now where some spending money makes a big difference in the quality of life. For her, to go home with a nest egg was maybe worth it. Maybe. Her biggest gripe was cooking in almost every day after work. No working wife today would stand for it, and rightly so. All I can say in my defense is that that was the style in the 60s. Very weak, I know. But, when confronted with the total loss of our savings and therefore our main plan - saving to go home well-off - my wife said nothing. And I mean nothing at all. She put herself to the task of keeping our financially leaky boat afloat. My wife, however, accrued an inexhaustible supply of IOUs. Well, inexhaustible for the next 46 years anyway. So …
2014年7月28日月曜日
若い頃の投資で学んだこと(1)(ジェレミー・グランサム)
ちなみにGMOの預かり資産の総額は、この3月末の段階で12兆円弱とのことです。
Summer Essays [PDF] (GMO's 2Q 2014 Letter)
1968年の夏に、私にとって決定的な出来事がありました。キーストーン社に勤めはじめて間もない頃で、私と妻は3週間の休暇をとって、故郷のイングランドとドイツへ帰った時のことです。やり手の人たちと昼食を共にする機会がありました。新参者だった私にはそこに加わる完全な資格はまったくもってなかったのですが、話題に出てきた「本日の銘柄、アメリカン・レースウェイ社」には心を奪われました。実のところ、圧倒されんばかりでした。同社はF1グランプリ・レースをアメリカに導入しようとしていました。ある既設のレース場を取得しており、レースも一度開催していました。目新しさに加えて純粋な興味も集めたことで、大変な数の観客になりました。レース場をもう何か所か保有すれば、どれだけの大金が稼げるか計算できました。私のような部外者にも失敗しようがない機会だと思えました。騒音やスピード、危険、そして死に至るリスクまであるのですから、まさにアメリカ的です。英国人がこぞってヒーローとみなしていた当時のチャンピオンだった[原文ママ]スターリング・モスが、取締役として加わっていました。そういうわけで、私は同社の株を買いました。1株7ドルで300株分です。(人生で決定的なことがあると、細かいことまで覚えているものです。それが正確な記憶のときもあります)。休暇から戻るまでの間に、株価はなんと21ドルになっていました。当時は外からビジネスに携わることはありませんでした。そうするのは非常にむずかしかったからです。さあ、そこで私が選んだ道を披露しましょう。初期の教訓を吸収した姿をお見せする絶好の機会です。私のとった行動とは、意欲的なバリュー志向の株式アナリストならだれでもやったと思われることでした。つまり保有する他の銘柄をすべて売り払い、その株を3倍に増やしたのです。1株21ドルで900株になりましたが、ほとんどは借入金で買いました。良心や道徳、行動全般を高めようとしたビクトリア期の小説ならば、思い上がった野心の先には悲劇が待っているところです。しかし現実がもたらす教訓とは、もっとややこしいものでした。そしてご存知のように、現実は人を焦らすことが好きなのです。クリスマスになる前に、アメリカン・レースウェイ社の株価は100ドルを付けました。当時の基準でみても、また当然ながら自分の期待とくらべてみても、私たちは金持ちになりました。寝室が4部屋あるロンドン郊外の値ごろな家であれば、1万ポンドで買えました。これはボストンでは4万ドルになります。私たちの資産は、信用取引込みの税引き前で8万5千ドルありました。しかし資金を引き揚げてイングランドへ帰るという筋書きをつづける可能性は、もっと複雑な状況へと早々に変化してしまいました。キーストーンに入社した1968年の4月から1年が経ち、ファンドマネージャーのひとりであるディーン・ルバロンといっしょに退社して資産運用会社を始めることにしたのです。我々は1969年の半ばに偵察活動を始め、1月にはボストンの下町にあるバッテリーマーチ通りに面したバッテリーマーチ・ビルに事務所を開きました。パッとしない社名で、「バッテリーマーチ資産管理」という会社でした。キーストーンを離れることを決めた際には、1969年初にいくぶん下がり始めていたものの、1968年終盤に新たな虎の子となった私の資産が重要な役割を果たしました。(つづく)
The defining event for me was in the summer of 1968, when my wife and I took a three-week holiday back in England and Germany, shortly after joining Keystone. Lunching with some of the hot shots - being a newbie I was by no means a fully-fledged member - I was fascinated, indeed, almost overwhelmed, by the story du jour: American Raceways. The company was going to introduce Formula 1 Grand Prix racing to the U.S. It had acquired one existing track and had one race, hugely attended out of novelty as well as genuine interest. With a few more tracks we could calculate how much money - a lot - the company could make. It seemed to me as a foreigner to have little chance of failure. With noise, speed, danger, and even the ultimate risk of death, it seemed, well, just so American. And every Brit’s hero, the then current champion Stirling Moss, was on the Board. So I bought 300 shares at $7. (For defining events in your life you do remember the details. Sometimes even accurately.) By the time we returned from our vacation - in those days we were never in touch with business, it was just too difficult - the stock was at $21! Here was my opportunity to show that I had internalized early lessons; to demonstrate my resolve. So I did what any aspiring value-oriented stock analyst would do: I sold everything else I owned and tripled up! Nine hundred shares at $21, mostly on borrowed money. In a Victorian novel aimed at improving morals, ethics, and general behavior, this is where tragedy follows hubris. But real life is more confusing as to how it delivers lessons and it likes to tease, apparently. By Christmas, American Raceways hit $100 and we were rich by the standards of those days, and certainly compared to my expectations. You could still buy a reasonable four-bedroom house in the London suburbs for £10,000 and in Boston for $40,000, and we had about $85,000 after margin borrowings and before taxes due. But, the possibility of continuing the storyline by cashing in our chips and going home to England quickly became more complicated: a year after joining Keystone in April 1968, I left with one of the fund managers, Dean LeBaron, to start a new investment management company. We started a reconnaissance patrol in mid- 1969 and by January we had an office in the Batterymarch building on Batterymarch Street in downtown Boston, bearing the unsurprising name of Batterymarch Financial Management. In deciding to leave Keystone, my new nest egg of late 1968 played a key role even though it had begun to decline some in early 1969.