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2014年11月6日木曜日

オックスフォードが私をつくりあげた(『ドーキンス自伝I』)

進化生物学者リチャード・ドーキンスの自伝『好奇心の赴くままに ドーキンス自伝I』を読みました。出世作『利己的な遺伝子』を読んで以来、彼の著作は少しずつ手にするようにしています。彼の主張や熱情と同じように、情緒ゆたかな文体は濃厚なところがあり、読み手を選ぶかもしれません(わたしは好きです)。今回引用する話題は「学ぶことについて」です。

オックスフォード大学が私をつくりあげたと書いたが、本当は私をつくりあげたのはその個別指導(チュートリアル)システムであり、これはたまたま、オックスフォード大学とケンブリッジ大学に特有のものだった。オックスフォードの動物学課程には講義や実験室での実習ももちろんあったが、それらは他のどこの大学と比べてとりわけ驚くようなものではなかった。いい講義もあれば、よくない講義もあったが、私にとってはほとんど大差がなかった。というのも、私はまだ講義に出ることの意味がわかっていなかったからである。それは情報を受け入れるということではないはずで、したがって、私がそれまでしていたこと(そして事実上すべての大学生がいまでもしていること)、つまり考えるための配慮がまったく残されないまま奴隷のようにノートを取ることには、なんの意味もない。この習慣から私が離れることができた唯一の機会は、かつてペンを持ってくるのを忘れてきたときだった。(中略)

その1回の講義については私はノートを取らず、ただ聴く--そして考える--だけにした。それはとりわけいい講義ではなかったが、私は、そこから他の講義--なかにはもっとずっといい講義もあった--よりもずっと多くを得た。なぜなら、ペンがないことが、私に聴いて考える自由を与えてくれたからだ。しかし私は自らの教訓を学び取り、以後の講義でノートを取るのを止めるだけの分別はなかった。

理屈のうえでは、講義ノートを取るのは試験勉強のために使うためのはずだが、私は自分のノートを見返すことはけっしてなかったし、同級生のほとんどもそうしていなかったのではないかと思う。講義の目的は情報を伝えることではないはずだ。そのためには書籍や図書館があり、今日ではインターネットもある。講義は刺激を与え、思考を呼び起こすべきである。あなたは、優れた講師が目の前で独り言を言い、思考に触手を伸ばし、高名な歴史学者A・J・P・テイラーのように、何もないところから何かを掴むのを観察しているのだ。独りごとを言い、内省し、熟考し、明晰にするために言い換え、ためらい、それから把握し、ペースを変え、考えるために休む優れた講師は、問題を考える方法、それについての情熱を伝える方法に関して、一つの役割モデルになりうる。もし講師が、だらだら読むように情報を伝えるのなら、聴き手はそれを読んでいるのと同じことだろう--たぶん、講師自身の本で。

ノートを取るなという私の忠告は、少しばかり誇張しすぎだ。もし、講師が独創的な考え、あなたに考えさせるような衝撃的なことを言ったのなら、そのときはぜひとも、後でそれについて考える、あるいは何かを探すために、メモを書いておくべきだ。 (p.239)

私はヒトデの配管についての最低限の事実は覚えているが、問題なのは事実ではない。問題は、それを発見するよう私たちに仕向ける方法なのだ。私たちがしたのは、教科書をくわしく勉強するだけではなかった。図書館に行って新旧の書物を調べ、その話題について自分が世界の権威に可能な限り近づくまで、もとの研究論文の軌跡を1週間でたどっていった(現在なら、この作業の多くをインターネットでするだろう)。毎週の個別指導で刺激を与えられる以上、ヒトデの水力学について、あるいはどんな話題についてであれ、単に本を読むだけですむことはないのである。その1週間、私は寝て、食べて、ヒトデの水力学の夢を見ていたことを思いだす。管足が私の瞼の下を行進し、水圧で動く叉棘(さきょく)が探り、海水が朦朧とした私の脳の中を脈動していった。小論文を書くのは心の浄化(カタルシス)であり、このまるまる1週間を正当化するのが、この個別指導なのだ。そしてまた次の週には新しい話題が出され、新しいイメージの祭りが図書館で呼び起こされるだろう。私たちは教育されつつあった……。そして私は、今日自分にいささかでも文才が備わっているとみなされるならば、その大半がこの週ごとに課された訓練の賜(たまもの)であると信じている。 (p.245)

最後はおまけです。リチャード・ドーキンスが生まれたのは1941年で、大英帝国が傾きはじめたばかりの時期でした。生誕の地はアフリカのケニアで、幼少期の思い出のほとんどはアフリカで占められています。次の引用は、アフリカならではのエピソードです。

ときどき私は[ドーキンスの母親]、隣のレノックス・ブラウンの農場に伝言を届けに、ボニーと呼ばれていたルビーの持ち馬で送り出された。はじめてその家に行ったとき、ボーイが、メンサヒブと呼んでいた大きな応接間を私に見せてくれた。その部屋は、私が待っているあいだ、輝く日の光を遮るために降ろされた安っぽいカーテンのために暗かったが、突然、私は自分一人ではないことに気づいた。ソファーに体をすっかり伸ばして横たわる一頭の巨大な雌のライオンがいて、私に向かって大きなあくびをしたのだ! 私はほとんど身がすくんでしまった。そのとき、レノックス・ブラウン夫人が入ってきて、ライオンをピシャリと打って、ソファーから押しのけた。私は伝言を渡して家を辞した。 (p.80)

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