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2013年4月19日金曜日

建設的なパラノイア(ジャレド・ダイアモンド)

少し前の本ですが、チャーリー・マンガーが推薦する本に『銃・病原菌・鉄』という作品があります。新たな歴史観を示してくれた意欲作として日本でも広く読まれたものと思います。著者ジャレド・ダイアモンド氏の著作動向を気にとめていたところ、今年になって新作『昨日までの世界』が翻訳されていたので一読しました。パプアニューギニアでのフィールドワークの成果をもとに書かれているせいか、でだしの3章ほどはスローペースに感じられ、読み進めるのにやや難儀しました。しかし第4章や5章あたりからエンジンがかかり、結末まで興味深く読めました。今回は同書から、ニューギニア人のような人々から学べるリスク管理の話題をご紹介します。

ニューギニアへ野外観察にいきはじめた当初、私はまだ未熟だった。警戒心や注意力といったものもまだまだ不十分で、自分がおかれた自然界の状況に十分な注意が払えないような研究者だった。そんなあるとき、私はニューギニアの密林の奥地で、鳥類調査のために現地人たちと1か月間を過ごしたことがある。最初の1週間で低地における調査を終え、つぎにもっと高地に生息する鳥類が調べたくなった。そこで、ベースキャンプを数千フィート、山の上の場所に移動することに決めた。私たち一行は山を登っていき、やがて翌1週間滞在するベースキャンプを張る場所を、高い木の茂る森のなかにある場所に決めた。そこは、尾根がなだらかに下降している先の、平らに開けた空き地で、周囲を歩きながら野鳥を観察するにはもってこいの場所だった。近くに渓流もあり、遠くまで水を汲みにいかなくても必要な水が確保できる地形だった。キャンプを設営することに決めた場所は急な崖の縁で、視界も開け、谷底から舞い上がってくるタカやアマツバメ、オウムを観察することができた。しかも、その土地の片隅には、みごとな巨木がそそり立っていた。私は、こんな美しい環境で1週間も過ごせるのだという思いに胸がふくらみ、ニューギニア人の助手たちにつぎのように告げた。あの巨木の苔むした幹の脇のところにテントを張ることに決めたので、準備にとりかかってください。

私のこのひと言に対する彼らの反応はまさに驚きだった。彼らが、私の頼みにほんとうにひどく動揺し、あの巨木の幹の脇で寝るのは嫌だといったからである。彼らの言い分はつぎのようなものだった。あの巨木はすでに枯れて、死んでいる。だから、われわれがテントで夜、眠り込んでいるあいだにわれわれの上に倒れ込んできて、われわれを殺すかもしれない。たしかに、彼らのいうとおり、巨木はすでに枯れていた。しかし私は、彼らの大げさな物言いにびっくりして、とっさに反論した。

「たしかに、この木は巨木だが、幹はまだしっかりしている。ぐらついてもいない。腐ってないんだから、風で倒れるようなことはまずない。いずれにしても、風なんか吹いていない。この木が倒れるとしても、それはまだ何年も先の話だ!」だが、私の言葉もむだだった。ニューギニア人たちがおびえきっていたからである。そして、あの木の真下のテントで眠るくらいなら、夜空の真下で野宿するほうがましだ。あの巨木が倒れ込んできてもつぶされることのない、あの木の根元から離れた場所で、吹きさらしの地べたの上で眠るほうがましだ、と主張したのである。

そのとき私は、彼らの怖がりようは大げさで、ほとんど被害妄想だと思った。ところが、それはそうでもなかった。その後、数か月つづいたニューギニアの森での観察活動のあいだ、木が倒れる音を耳にしない日が1日としてなかったからである。木が倒れてきて、下敷きになって死んだニューギニア人の話を、いくつも聞かされたからである。そして、ニューギニア人が森のなかで野営することが多々ある人々である、ということを思い出したからである--おそらく、1年に100日は野営しているだろうから、40年の人生のあいだに、4000日は野営している計算になる。そして私は、この計算でピンときたのである。例えば、1000回に1回しか死なないようなことでも、年100回それをおこなうような生活をしていれば、10年以内に死んでしまう確率が高いのである。ニューギニアの平均寿命40歳をまっとうできないということだ。もちろん、この危険があるからといって、ニューギニア人は森の奥へいくことをやめたりはしないが、細心の注意を払うのである。枯れた巨木の根元で眠らないようにして、木の下敷きになって死ぬ危険を事前に回避しているのである。この意味において、私の助手のニューギニア人たちの被害妄想は理にかなっていた。私は、この種の被害妄想は「建設的なパラノイア」であると思う。

(中略)

私がニューギニア人から学んだもののうちで、建設的なパラノイアほど心に残ったものはない。建設的なパラノイアはニューギニア人のあいだでは一般的である。また、世界各地の伝統的社会においても、観察例が数多く報告されている。被害リスクの生起頻度が低い行為であっても、その行為を頻繁におこなうのであれば、リスクを冒して若死にしないように用心すべきなのである。あるいは、若くして手足を不自由にしないように、つねに細心の注意を払うべきなのである。ちなみに私は、アメリカでの生活においても、リスクは低くても、頻繁におこなう行為への対処法としてこれを応用している。そのような行為とは、たとえば、車の運転である。濡れると滑る浴室でシャワーを浴びたり、脚立に上がって照明の電球を交換したり、階段を上り下りしたり、つるつると滑る歩道を歩いたりすることも、1回あたりのリスクは低いが、生活のなかで頻度の高い行為であり、用心深く対応することに越したことはない。そんな私の用心深さにあきれかえってしまう人も、私のアメリカ人の友人のなかにはいる。しかし、私と同じ考えを持つ西洋人の友人も3人いて、彼らもまた低リスク高頻度の事象を相手にする自身の経験や職業のおかげで、用心深いのは被害妄想でもなんでもないことがわかっている人たちであり、建設的なパラノイアが生き延びるための知恵であるということがわかっている人たちなのである。その3人のうちひとりは小型航空機を操縦していた友人であり、もうひとりはロンドンの街中で非武装パトロールをしていた警察官の友人であり、最後のひとりはゴムボートに乗る釣りガイドをしていた友人である。彼らは、そうした仕事や活動をつづけるなかで、不用心が原因で落命した友人たちを目にした経験から、建設的なパラノイアの重要性を学んだのである。(下巻p.12)

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