本書では研究開発やイノベーションの現場が、飾ることなく描写されています。登場人物は研究所や先端企業で働く頭脳明晰な人ばかりですが、彼らのふるまいや願望は一般人と同じで、等身大の群像劇が展開されています。様々なものごとがごったがえす中、技術はたゆまずに進歩し、ビジネスは拡大の機会をうかがい続けます。本書の中心的な役割はそういったイノベーション小史を楽しむ点にあると思いますが、それ以外の読み方もできます。日米におけるR&Dの比較という視点が持てたり、ベンチャー・ビジネスのケース・スタディーとしても参考になります。なおテスラモーターズのCEOイーロン・マスクも出番が少しありますが、端役の扱いです。
その本書から今回引用するのは、主題とはまるで関係のない話題です。モロッコ出身のアミーンという名の印象的な人物が登場しますが、彼の祖父が過ごした劇的な人生についてです。
一族の伝説は20世紀の初めごろにさかのぼる。アミーンの母方の祖父ベナディールが、12歳のときにアガディール港周辺の山で羊飼いをしていたころの話だ。ベナディールはしょっちゅう年配の男に叩かれた。しかしあるとき、耐えかねたベナディールが石をつかんで老人の頭を殴りつけると、相手は倒れて動かなくなった。少年はおびえて逃走した。
ベナディールが隠れていると、青果を積んで牽引車につながれた荷車が通りかかった。ベナディールは荷車によじ登ってすぐさま身を隠した。それから二、三日間、荷車は海岸沿いを進んでいった。ベナディールは積んである果物や野菜を食べて過ごした。しかしカサブランカに到着すると、荷主に見つかって路上に放り出されてしまう。ベナディールは歩きながら物乞いを始めた。汚れまみれで疲れきった彼は、一軒の家の前に立った。中にいたフランス人の婦人が哀れんで、ベナディールを招き入れた。それから彼の体をきれいにして、家事係としてこの家にいてよいと言った。
この婦人が何という名だったか、アミーンは覚えていない。ともあれ、婦人の夫はいくつもの店を所有する商人で、あるときベナディールはこの主人から一軒の店番を命じられる。ベナディールはこれをとても責任の重い仕事だと思い、きちんと朝5時に店を開け、真夜中に店を閉めた。夜は店で眠り、食事も店でとった。しばらくすると、主人は店の儲けが大きく増えたことに気づいた。そこで少年にさらに多くの店を任せ、彼を息子のように扱い始めたのだ。
1956年、モロッコはフランスとスペインから独立を勝ち取った。ベナディールを置いてくれたフランス人一家は、ほかの多くの外国人と同様に大あわてで帰国した。出国する際に、主人は事業をベナディールに譲った。こうして、アミーンの祖父は地元でかなりの大物になったのだった。(p. 72)
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