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2013年7月31日水曜日

生の短さについて(セネカ)

古代ローマの哲学者セネカ(小セネカ)の文章で印象に残ったものがあったので、ご紹介します。「生の短さについて」の冒頭部分です。

パウリーヌス、死すべき身ながら、大方の人間は自然の悪意をかこち、われわれ人間は束の間の生に生まれつく、われわれに与えられたその束の間の時さえ、あまりにも早く、あまりにも忽然と過ぎ去り、少数の例外を除けば、他の人間は、これから生きようという、まさにその生への準備の段階で生に見捨てられてしまうと言って嘆く。彼らが考えるところの、この万人共通の災いに恨みを漏らすのは、何も一般の大衆や無知な俗衆に限ったことではない。名のある人々もまた、この思いに捉えられ、怨嗟の声をあげるのである。医家の中でも最も偉大な人の例の言葉も、この思いに由来する。曰く、「生は短く、術は長い」。自然を諫めて、哲学者にはそぐわない争いを起こしたアリストテレースの告発も、この思いからのものである。曰く、「自然は動物にはこれほど長い寿命を恵み与え、人間の5倍も10倍も長く生きられるようにしておきながら、それに比べて、多くの偉業をなすべく生まれついた人間に定められた寿命はあまりにも短い」。われわれにはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである。人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。しかし、生が浪費と不注意によっていたずらに流れ、いかなる善きことにも費やされないとき、畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる。我々の享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。莫大な王家の財といえども、悪しき主人の手に渡れば、たちまち雲散霧消してしまい、どれほど約しい(つましい)財といえども、善き管財人の手に託されれば、使い方次第で増えるように、われわれの生も、それを整然と斉える(ととのえる)者には大きく広がるものなのである。(p.451)


この文章は単行本『セネカ哲学全集1』からの引用ですが、同じ翻訳者名で文庫版も出ています。『生の短さについて(岩波文庫)』です。おそらくですが、文章も同じものかと思われます。

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