1958年、スプートニク以来あわただしく4か月がすぎたころ、アメリカは一連のエクスプローラー衛星の第1号を、フロリダ州ケープカナベラルから軌道上に打ちあげ、ついに宇宙開発競争に参加した。1月31日、4段式ジュピターC型ロケットによって空高く打ちあげられたエクスプローラー1号は、一泊旅行のカバンぐらいの重さである。このジュピター・ロケットは、打ち上げのたびに爆発する海軍のバンガード・ロケットより信頼度が高い。とにかくこうして軌道に乗せられた衛星は、スプートニクのと同じような電波信号を送ってきはじめた。
それから5週間後、今度は宇宙線検出器を載せたため、全重量が32ポンドになったエクスプローラー2号は、天空に打ち上げられて雲の中に姿を消した。ナチのペーネミュンデ・ロケット計画の生き残りで、いたって立ち直りの早いヴェルンハー・フォン・ブラウン[原文ママ]の指導のもと、陸軍の一チームがその行方を追い、次第に遠ざかっていくロケットの唸りと、インターホンを通して聞こえてくる電波信号音に耳を傾けた。すべてが順調と思われ、打ち上げから半時間のちには、彼らは自信たっぷりの説明会を開いている。
一方大陸の反対側では、陸軍ロケット研究の主な協力機関であるパサディナのJPL(ジェット推進研究所)で、エンジニアたちの一団が衛星追跡に苦労していた。使っているのは一部屋ほどの大きさのIBM704ディジタル・コンピュータだが、これがまたなかなか気むずかしい機械である。彼らは陸軍のロケットが投げ上げた金属のカンカラのような衛星追跡のため、飛行進行線内の速度が変わるにしたがって、ドップラー効果的に変わっていく電波信号の周波数、ケープカナベラルの観測者の目から消え去った時刻や、他の追跡ステーションの観測値など、原始的なぐらい数少ないデータを打ちこんだ。JPLチームはコンピュータ入力のときのほんの小さなちがいでも、出力に大きな変化をきたすことに気がついていた。若い研究室長アルバート・ヒッブスは、キャルテク[カリフォルニア工科大学]時代彼の卒業論文の顧問だったファインマンに、そのことをボヤいた。
するとファインマンは、同じデータを同じ速度で受けとれたら、コンピュータなんぞ負かしてやるぞ、と請けあったのである。そこで午後1時28分、エクスプローラー2号が発射台を離れるや、彼はJPLの会議室に腰を据え、コンピュータ入力のため手早くデータを選り分けているエンジニアたちに取り囲まれて、計算をはじめた。そのときそこに入ってきたキャルテク総長リー・デュブリッジは、ファインマンを見つけてびっくり仰天、ファインマンに「いま忙しいんだ。あっちに行っててくれ!」と怒鳴られて、二度びっくりしている。30分たつとファインマンは立ち上がって、計算がすんだと言った。彼の計算でいくと、ロケットは大西洋に墜落したことになる。彼はコンピュータから何とかはっきり答えを出させようと懸命のエンジニアたちを尻目に、さっさと週末旅行でラスベガスへ出かけてしまった。その間アンティグアとカリフォルニアのインヨカーンにある追跡ステーションは、たしかに背後の雑音を通して、軌道をまわる衛星の音が聞こえたと無理やり思いこみ、またフロリダの「目測」チームは、その夜一晩中まんじりともせず空を眺めていたという。ところがファインマンは正しかったのだ。陸軍は翌日午後5時になって、やっとのことでエクスプローラー2号は、軌道に達し得なかったと発表したのである。(p.366)
ファインマンのやりかたといえば、こちらの過去記事も見事なものでした。
・自分のやりかたで解く(リチャード・ファインマン)
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