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2025年12月6日土曜日

任天堂岩田社長が亡くなった前年の横顔

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 Switch2を今年発売した任天堂、その普及台数が一定数に達するまではビッグタイトルのリリースを控えていると思われます。そして来年には映画マリオ、再来年には映画ゼルダの公開を予定しており、主力タイトルの新作発売はその時期に合わせてくるのでしょう。その意味で、のちに振りかえったときに「2025年は凪ぎの12月だった」と総括されているかもしれません。そこで静かな年の12月6日として、昨年読んだ本『崖っぷちだったアメリカ任天堂を復活させた男』から、岩田聡元社長の話題を引用ご紹介します。


著者のレジー・フィサメィ氏はアメリカ任天堂でCEOを務めていた人物です。ドンキーコングを思わせる風貌をしたレジーは任天堂ダイレクトやE3といったメディアで、生前の岩田社長と息の合った共演をみせていたのが記憶に残る好漢です。本書では、あまり恵まれていない家庭に生まれながらも、前向きに考えて行動し、信念そして他者との接し方を大切にしつづけた結果、世界最大のゲーム市場において任天堂の歴史的成功(Wii, DS, Switch)に大きく寄与した半生が、颯爽と語られています。


今回ご紹介する文章は、病気で苦しんでいたころの岩田さんの身辺を記したものです。岩田さんらしさをうまく切り取ってくれています。


8時半ぴったりに岩田氏のアシスタントが来て、彼の部屋に通された。このとき岩田氏は社長の在任期間が10年を優に超えていたが、先代の3人が使っていた正式な大きな社長室に移ることはなかった。彼が好んだのは、12人を収容できるくらいの長方形の会議室の上座に机が置かれた、もっとシンプルな部屋だ。他にもプレゼンテーションや開発中のビデオゲームを見たりするために、2台の大きなテレビスクリーンが置かれ、キャビネットは本やビデオゲーム、ゲームのアクセサリーやコントローラーであふれている。会社の社長室というよりは、ゲームクリエイターの部屋と言ったほうがいい。(p.15)


岩田氏が最初にガンの診断を受けて、最初の手術を行ったのは2014年夏のことだ。彼がまだ入院中に、私は世界戦略会議に出席するため日本に行くことになった。せっかく出張で行くのだから、岩田氏に見舞いに伺っていいですかと尋ねてみた。メールでやり取りする際、彼は「結構です。日本ではそういうことはしない。ビジネスパートナーは互いに病院を見舞うことはないから」と返事をしてきた。だが私は行くと言って聞かなかった。夏が終わってからはしばらく日本に戻る予定がないので、会いに行きたいと説明した。彼がどんな容態なのか知りたかったのだ。


岩田氏は来なくていいと押し通し、「レジー、会社から私を見舞いに来た人はいない」と再び書いて寄こした。私はビジネスの用件で訪問するつもりはない。こう返事を送った。「失礼ながらミスター・イワタ、私はNOA[Nintendo of America]の社長としてではなく、友人としてあなたを見舞いたいのです」


この最後の一押しによって、彼は笑って折れてくれた。そう思いたい。私に根負けしたと悟ったときに、彼はかすかに笑みを漏らしたものだ。彼は態度を和らげて、見舞いを許可してくれた。


この旅を手配してくれたのは古川俊太郎氏で、彼はその後任天堂の第6代社長となる。このとき古川氏は企業戦略の代表で、京都で岩田氏の右腕として活動していた。古川氏はヨーロッパで数年過ごしていたから英語はペラペラだ。古川氏は私をホテルに迎えに来て、岩田氏の病室に案内してくれた。病院までの車中で、古川氏は私の訪問がどれほど異例であるか念を押した。ほんの数日前まで、岩田氏は任天堂からの誰の見舞いも許可しなかったそうだ。私は見舞いをすると決まってから、彼は態度を和らげてその2日前には、会社からの他の見舞い客も受け入れていた。


岩田氏は私の見舞いをすごく喜んでくれた。彼の奥さんと娘さんもそこに居合わせていた。ビジネスパートナーの見舞いというよりも、友人のプライベートな見舞いとして迎えてくれたわけだから、私は嬉しかった。(p.23)