書店で目立ちそうのない地味な装丁の本書は、内容も地味だろうと思われるかもしれません。1990年代に入って低迷し始めた漢方薬メーカーのツムラが薄暗い10年間をくぐり抜けてここまで復活するに至った経緯を、ある人物のエピソードを中心に描いた話です。その人物が、当社の会長である芳井順一氏です。
しかし内容のほうは地味どころか、個人的には全編響くものばかりでした。芳井氏は、まぎれもなく名経営者とお呼びするのがふさわしい方だと思います。芳井氏は当初、第一製薬の営業部門に所属していました。しかしツムラ危機に際して創業者一族の風間八左衛門氏(第一製薬の当時の常務)が里帰りすることになり、風間氏に請われて芳井氏も当社に移ります。そして子会社の整理、人員削減、営業部門の立て直し、事業戦略の転換・改革・発展と、激動の20年間弱にわたって当社の経営に携わってきました。本書に登場するそれらのエピソードは悩んで考えて決断した日々を素直に記したもので、空々しく感じられるところがありません。
しかし芳井氏のすばらしい点をあえて3つだけ選べば、「戦略のしぼりこみと実行、人の心理に通じた交渉力、道義心」になると思います。仕事をこなしている中で、これらの点で悩んだりヒントを得たいと考えている方には、きっとお勧めできる一冊です。
これから本書を通読したい方には申し訳ありませんが、以下に本文から2か所だけ引用します。ご了承ください。
ひとつめは、芳井氏が第一製薬時代に営業担当として活躍した頃の話です。
私が転勤をして、初めて回った病院の医局に、『製薬メーカーMR[営業担当]の5時以降の医局への立ち入りを禁ず 院長』という貼り紙がしてありました。5時までは医局に、MRがたくさんいるのですが、ほとんどのMRは医局の隅に立ったままで医師と話をしないので、『壁の花』と呼ばれていました。
こんなことを繰り返していても埒が明かないと思い、私はその貼り紙に気が付かないふりをして、夕方5時過ぎに宿直の先生のところに行きました。先生方が戻ってこられたときに先生方の机の上にある食事を見て、『先生、これ患者さんと同じ病院食ですか』と声を掛けました。『よろしければ、この病院の前の寿司屋から、出前させましょうか』って申し上げたんです。
すると、あんた誰よ、ってことになりますよね。そこで初めて名刺を出して『実は私、担当したばっかりなんです』と自己紹介するわけです。
そこで寿司屋に電話をして寿司を持ってきてもらい、そこで医局の先生方と夜中2時、3時まで話し込むんです。『こんなにうまいものが食べられるんだったら、毎日おいでよ』という言葉がかかり、『ところで先生、今気が付いたのですが、メーカーは5時以降は訪問禁止なんですか?』って言ったら、『あれは院長だけが言っていることだから、誰も気にしていないよ。芳井君、毎日おいでよ』と言われました。
だいたい宿直の先生方が5人ぐらいいますから、毎晩それをやると、1週間で30数名。その病院の医局にいらっしゃる先生全員と会うことができ、1週間で一気に親しくなります。親しくなったら、そんなことをする必要はありません。今度は昼間に行って、先生と直接お会いして話をする。パンフレットを出して、こんなのもありますよ、とお声掛けをする。そうすれば話を聞いてくれます。そういう繰り返しでした。
当時は、明け方の3時とか4時頃に医局を出て営業車で帰宅していたのですが、辛かったというと逆でした。『日本全国のMRの中で、今ハンドルを握っているのは自分だけだろう。明日もやってみよう』という充実感がありました。これで来週からすごいものにつながっていくという喜びのほうが大きかったですね。(p.124)
もうひとつは、経営者として戦略を具体化する際の考え方についてです。
こうした芳井のビジョンは、すべてが具体的だ。聞こえのいい文言が並ぶ空疎なものではなく、そこには人を動かす力強さが秘められている。こうしたビジョンを芳井は、いつどのようにして描いていくのだろうか。
「私は物事を考えるとき、会社のことなら、10年、20年先のツムラをイメージします。そして、そこに向かって一つひとつ、会社全体のことを、どこがどうあるべきか考えます。
そして、それをもう少しショートタームで考えるのが3カ年計画です。3年先にこうありたい、と思ったら今度は3年先にそこに行くためには1年後にどうなっていないと、そこに行きつけないのかイメージします。1年先をイメージしたら、そこに到達するまでの自らの行動や組織の行動にデザインを加えていきます」
長期的なビジョンを描き、そこから逆算して行動に落とし込む。それだけなら目標達成の方法としては王道だ。しかし、芳井の場合、その方法にも独自の工夫がある。実際に手を動かすのである。
「そのために1か月後にはどのくらい進んでないといけないのかを考え、頭の中でイメージします。私は、休みの日には自分の部屋で、A4のコピー用紙を4枚並べて、そこに絵を描きます。頭の中だけで考えると、どうしても堂々巡りになってしまいます。
絵にすると具体的な考えが次々に浮かんできます。会社の将来の絵を描く。それに対して、今、妨げになっているものは何か考え、この妨げているものを取り除いていけば必ずイメージに近づいていけます。それに拍車をかけるためにはどういうことをやったほうが勢いが出るのか、それを絵に描きながら考えるのです」(p.257)
ツムラに興味を持たなかったら(たとえば株価がずっと割高だったら)、本書を手に取ることはなかったと思います。本書を通して芳井会長のことを知ることができたのは、わたしにとっては幸運でした。しかし芳井氏はあと数日で取締役会長を退任し、相談役に就任される予定です。ツムラにとっては新たな試練が始まります。
2 件のコメント:
== No title ==
ご無沙汰しております。
いつも拝読しています。実は私もツムラの決算の後、下落に注目し、買いを入れていました。
ご紹介された本、さっそく中古で購入いたしました。やはり、投資企業に関する資料は全て読み切りたいです。
貴重な情報、ありがとうございます!
== ツムラ(さっかくさんへ) ==
さっかくさん、こんにちは。コメントをどうもありがとうございます。
経営者や企業を対象にしたこの手の本では、事実が自然に誇張されている傾向があると感じています。ですから、何割か割り引いて受けとめるべきと自分には言い聞かせています。そうであっても、最近読んだ同種の本の中ではいちばん印象的でした。学ぶところがいろいろある本でした。
ツムラに関する個人的な見解ですが、短中期的(-3年)には低迷する可能性を念頭においています。またその後もTU-100のフェーズ3治験費用が負担になると思われます。ただし外部環境が原価低下の方向に進む可能性も皆無ではありません。市場が下している現在の評価は、その不確実性をある点へ収束させているように見えます。それは概ね正しいように思いますが、個人的には高次的な影響を加味した上で企業価値を判断したいと考えています。
またよろしくお願いします。それでは失礼致します。
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