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2013年6月20日木曜日

「ノー」という答えは受けつけない(アンディ・グローブ)

インテルの歴代CEOで最高の人物といえば、アンディ・グローブでしょう。彼はハンガリー生まれのユダヤ人でしたが、冷戦下で東西対立がつづく時代に母国から逃亡し、アメリカに亡命しました。その顛末は自伝にも描かれていますが、今回は別の著者が書いた伝記『アンディ・グローブ』からご紹介します。この本は比較的新しく、邦訳は2008年に刊行されています。

国外への脱出について考えると、心配なことは山ほどあった。ちまたには噂が溢れ、噂が噂を呼ぶ有様だった。国境を無事に越えた人もいれば、第二次世界大戦中のジョルジュ・グローフ[アンディの父。アンディはのちにグローブに改姓]のように、忽然と姿を消した人もいた。「消える」のは望ましいとはいえない。二度と姿を現さないかもしれないからだ。

アンディがもしオーストリア国境を目指すなら、最終目的地はひとつしかなかった。「もちろんアメリカだ。共産党政権は『帝国主義に毒された、金儲けしか頭にない国』と呼ぶだろうけどね。彼らが軽蔑すればするほど、僕にはいっそうアメリカが好ましく思えてくる。アメリカは富と技術に満ちた神秘の国。自動車とハーシー・チョコレートで溢れているはずだ」

アンディは、かつて自分が「間抜け」呼ばわりしたマンツィに背中を押された。1956年にはアンディは年の離れたいとこを尊敬するようになっていた。彼女が人生でどのような経験をしてきたのか、理解できる年齢に達したのだ。「アウシュヴィッツからの生還者であるマンツィは、この世の地獄を目の当たりにしていた。いつでも冷静な彼女が、物事を針小棒大に語ることなどありえない」

12月初めのある午後、マンツィはアンディにこう語りかけた。「アンドリシュ。この国にとどまっていてはいけない。行きなさい、いますぐに」。ソ連軍が若者たちを問答無用で連行していた。彼らはすぐに消息不明になるのではないか、と心配されていた。にわかに、国内にとどまるのは海外逃亡を試みるのと同じくらい危険そうな雲行きになっていた。

このときもまたグローフ一家は果敢だった。行動すべきタイミングでは決然と動き、無駄な時間を過ごすことはなかった。「オーストリア国境を目指すべきだ」と家族3人で決めると、翌朝にはアンディはキラーイ通りのアパートを後にした。祖国ハンガリーの首都ブダペストにあるこのアパートは、アンディにとってただひとつの安息の場所だった。アンディはその晩、アパートに静かに別れを告げた。

(中略)

暗闇のなかを、ところどころで躓きながら進んでいく。犬が吠え、突如として夜空を閃光が走る。4人の学生たちは地面にひれ伏す。閃光が消え、あたりはふたたび一面の闇。男が現れ、ハンガリー語で「誰だ?」と探りを入れてくる。どうしてドイツ語ではなくハンガリー語なのだろう。男がつづける。「安心しろ、ここはオーストリアだ」。とうとう安全な場所にたどり着けたのだろうか……。

(中略)

逃避行の頼みの綱は、国際救済委員会(IRC)という組織だった。アンディがウィーンのIRC事務所を訪れると、職員たちは彼の英語力に驚いた。通訳を介さずに面談ができたのだ。ハンガリーでソ連軍と戦ったのかと尋ねられ、アンディは実際に戦ってはいないが、デモ行進には参加したと答えた。

(中略)

翌日届いた知らせにアンディは肩を落とした。IRCがアメリカへ移送すると決めたメンバーのなかに、アンディの名前はなかったのだ。「まるで胃のあたりを殴られた衝撃を受け、心臓が早鐘を打ちはじめた。何とか呼吸するのがやっとだった」。それでもアンディはくじけなかった。血相を変えてIRC事務所に駆けつけ、いつもの行列の先頭に割り込むと、嘆願を試みた。あまりの説得力に、IRCの職員たちはアンディの訴えを聞き入れ、アメリカ行きを認めた。「僕はうれしくて言葉もなかった」(上巻p.85)


余談です。インテルは1980年代に日本企業とのDRAM競争に負けて経営資源をロジック(CPU)へ集中させました。そのインテルとフラッシュメモリー分野で協業しているマイクロンは、エルピーダの買収をいよいよ完了しようとしています。初期のインテル社員にとっては感慨深いものでしょうね。

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