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2013年2月18日月曜日

ウォッカの大瓶を買ってきてあげる(ミセスB)

以前にとりあげた『最高経営責任者バフェット』は、バークシャ・ハサウェイ傘下のそれぞれの子会社を率いるCEOの横顔を描いた著作です。その一人であるミセスBといえば、ウォーレン・バフェットとやりあった頑固者として有名ですね。今回は、彼女の生い立ちを引用します。ずっと印象に残っている文章です。

1998年8月11日火曜日、ローズ・ブラムキン(104歳)は、故イザドーの未亡人として、ルイ、フランシス、シンシア、シルビアの母として、12人の孫、21人のひ孫のいるおばあちゃんとして、そしてネブラスカ・ファニチャー・マート(NFM)の創業者としてオマハのゴールデン・ヒル共同墓地に埋葬された。家族、友人、隣人から非常に尊敬されていたこともあり、葬儀に参列した人の数は1000人を超えた。しかし、このころすでに孫のアーブとロンによって経営されていたオマハの店は、その日も休まず営業している。「店を閉めることなど母は望まないと思いますから」と、娘のフランシス・バットがオマハ・ワールド・ヘラルド紙の記者に対して答えている。

1937年、ローズ・ブラムキンが44歳の時、兄弟から500ドル借りて創業したネブラスカ・ファニチャー・マートは、彼女の忍耐力のおかげで、今やネブラスカ州オマハの中心部に77エーカー(約9万4000坪)の事業用地を所有し、1500人の従業員を抱え、家具・カーペット類・家電製品・電子機器等の年間売上高は3億6500万ドルに上る。利幅を業界平均より10ポイント下に抑えることで、市場を完全に支配し、家具の売り上げではオマハで約4分の3のシェアを獲得している。しかも、数量ベースでは全米最大の家具小売業者となっているのである。NFMの60年間の歴史を通して売上高は常に増加傾向をたどり、毎年記録を更新している。従業員1人当たりの売上高は他の国内小売業者よりも40%多く、純利益率はほぼ2倍。年間売上高にいたっては、平均的なウォルマートの店舗の8倍以上もある。特に何がすごいかというと、1平方フィート(約0.09平方メートル)当たりの売上高は865ドルで、これはホールセールクラブ(会員制倉庫型安売り店)最大手でディスカウント業界首位のコストコよりも100ドルも多いのである。帝政ロシア時代、まだつつましかったミセスBの駆け出しのころからは、とても想像できないことだ。

1893年12月3日、ローズ・ゴーリックはロシア帝国(現ベラルーシ共和国)のミンスク市に近いユダヤ人村シドリンで生まれた。父ソロモンと母チャシアの間に生まれた8人の子どものうちの一人だった。家は2部屋しかない掘っ立て小屋で、わら製のマットの上で寝ていた。当時のユダヤ人居留地ではよくあることだが、父は研究に明け暮れ、母は家計を支えるために食料品店を営んでいた。ローズは正式な教育を一度も受けたことがない。グラマースクール(小学校)にさえ行ったことがなかった。わずか6歳のころから店の手伝いをしていたと、のちに回想している。あるとき、「夜中に目を覚ましたら、母がパンをこねていた」のを覚えているという。「で、そのとき、こう言ったのさ。『ママがこんなに一生懸命がんばってるなんて、なんか悲しいよ。あたしが大きくなるまで、待ってて。あたしがお仕事見つけてアメリカに行く。そしたら、ママをアメリカに呼んであげる。大きな町に行ったら、きっとお仕事見つかると思うの。ママをお姫様にしてあげるね』って」

13歳になるころには、もう村を離れる覚悟を決めていたという。靴底を減らさないように靴を肩に背負い、最寄りの駅まで約30キロの道のりをはだしで歩いた。汽車に乗り、仕事を求めて訪ねた店は25軒。そしてついに仕事をくれる店を見つけた。衣料品店だった。それから3年もたたないうちに、店をやりくりするようになり、男性従業員6人を従えるようになった。

1913年、20歳のとき、靴の販売をしていたイザドー・ブラムキンと結婚。しかし翌年、第一次世界大戦が勃発。皇帝のために戦う気のなかったイザドーは兵役を逃れるためにロシアを離れた。それから3年後の1917年、ローズは夫のあとを追ってアメリカに行こうと決意し、シベリア鉄道に乗った。シベリアまで来た彼女は、ロシアと中国の国境付近で兵士に呼び止められた。兵士には「軍のために革製品の買い付けに行くところだ」と答え、「帰りにウォッカの大瓶を買ってきてあげるから」と言ったら通してくれたそうだ。

船で太平洋を渡り、ワシントン州シアトルに着いた。英語も分からず、入国ビザも所持していなかったが、幸い、ユダヤ人移民援助協会とアメリカ赤十字の計らいで、移民帰化局(INS)のお役所手続きをパスし、アイオワ州フォートドッジで夫と合流することができた。彼女は亡くなるその日まで、この町の名を「フォートドッチビー」と発音している。おそらくロシアを離れたおかげだろう。彼女はここで命拾いすることになる。生まれ故郷の村ではユダヤ人2000人のうち「1900人が新年祭の当日、ヒトラーに殺された」そうだ。彼女いわく、「村人たちは自分たちの墓を掘らされた揚げ句、ナチスに灯油をかけられて葬られたのさ。あいつらに皆殺しにされたんだ。村中の人たちが」(p.140)

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