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2014年11月10日月曜日

ブタによって浪費される学生時代(リチャード・ドーキンス)

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前々回に取り上げた『好奇心の赴くままに ドーキンス自伝I』から、さらに引用します。最初は、遺伝子同士がどのように相互関連するのか比喩を使って表現した文章です。本ブログでよく取り上げる話題「モデル同士の相互作用」に通じるものがあり、ひとつの見方として参考になると思います(過去記事1, 過去記事2, 過去記事3)。

私の遺伝学のチューターだったロバート・クリードは、変わり者で女性嫌いの唯美主義者、E・B・フォードの生徒であり、フォード自身は偉大なR・A・フィッシャーから大きな影響を受けていて、私たちはみなフォードから、フィッシャーに戻れと教えられた。私はこうしたチューターから、そしてフォード博士自身の講義から、遺伝子は体に及ぼす影響に関しては、原子のように孤立しているのではないことを学んだ。むしろ、一つの遺伝子の効果は、ゲノム内の他の遺伝子から成る「背景」によって条件づけられているのである。つまり、遺伝子は互いの効果を修正しあっているのである。のちに私自身がチューターになったとき、私はこのことを生徒たちに説明するために一つのアナロジーを考えついた。体は、天井に並んだフックに取り付けた無数の紐によってほぼ水平に吊るされた1枚のベッド・シーツの形によって表される。それぞれ1本の紐は1つの遺伝子を表す。遺伝子の突然変異は、天井に取り付けられた紐の張り具合で表される。しかし -- ここがこのアナロジーの重要な部分だが -- 、それぞれの紐は、下に吊るされたシーツに孤立して取り付けられているわけではない。むしろ、それは複雑なあやとりのように、多数の他の紐と絡まり合っている。このことは、どれか1つの紐に絡んでいる他のすべての紐の張り具合にも、あやとり全体に及ぶ一連の連鎖反応によって、同時に変化が起こる。そして結果としてシーツ(体)の形は、各遺伝子がシーツの「自分の」小さな単一の部分に個別に作用することによってではなく、すべての遺伝子の相互作用によって影響を受ける。体は肉屋の各部名称の図のように、対応する特定の遺伝子に「切り分け」できるようなものではない。むしろ、1つの遺伝子が、他の遺伝子との相互作用によって体全体に影響を与えうるのである。この喩え話を精巧にしたいなら、あやとりを横から引っ張ることによる環境的 -- 非遺伝的な -- 影響を取り込めばいい。 (p.246)

次の引用はドーキンスの啓蒙者魂を規定するような、ガリレオ・ガリレイにまつわるエピソードです。

アーサーはまた、ガリレオについてけっして忘れられない話をしてくれたが、それはルネサンス科学のどこが新しいかを要約するものだった。ガリレオは一人の学識者に、自分の望遠鏡を通して天文学的現象を見せていた。その紳士は概略、次のようなことを言ったとされる。「先生、あなたの望遠鏡による実演は非常に説得力がありますから、もしアリストテレスが積極的に逆のことを言っているのでなければ、私はあなたを信じます」。現在なら、誰か権威と考えられている人間がただ断言しただけのことのほうが好ましいからと言って、実際の観察によるあるいは実験による証拠を、きっぱりと退けることのできる人間が誰かいれば、きっと驚くだろう -- あるいは驚くべきだ。しかし、これが要点なのだ。変わったのはそこだった。 (p.248)

上の引用でドーキンスは、現代科学がなしとげた進歩を評価しています。しかし同時に、非ハード・サイエンス的な領域に対して反省をうながしているようにも読めました。

最後の引用です。こちらもなかなか厳しいご意見です。

ときどき思うのだが、学生時代は、十代で無駄に浪費されるにはあまりにももったいない。ひょっとすれば、熱心な教師たちは、ブタの前に真珠を投げる代わりに、生徒たちが真珠の美しさを評価できるだけの大人になるよう教える機会を与えられるべきなのかもしれない。 (p.204)

2014年11月8日土曜日

慈善財団における賢明な投資方針(チャーリー・マンガー)

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チャーリー・マンガーが1998年に行った講演「慈善財団における資産運用の現状」の4回目です。前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

現代的な選択肢として、少なくとも3つが考えられます。

第一は、財団が投資顧問と手を切り、投資先を株式インデックスへと変更して売買回転数を減らすやりかたです。

第二は、財団がバークシャー・ハサウェイの先例をたどるやりかたです。ことに評判の良い内国企業に対して事実上完全にパッシブに投資することで、胴元へ毎年支払う費用合計を0.1%未満へ抑えます。このプロセスをとれば、外部からの助言を仰ぐ理由は見当たりません。手数料を払うというのは、あくまでも投資顧問会社の優秀な人を適切に使うためです。召使いとは主人にとって役に立つ道具たるもので、道理に反する報酬によって自らに仕えるものではありません。それでは、まるで「いかれ帽子屋のお茶会」ですよ。

第三は、財団が借入れを使わずに証券へ投資することに加えて、以下のいくつかを行う有限責任組合へ投資して補完するやりかたです。初期段階のハイテク企業へ借入れなしで投資すること、借入れを使って企業買収を行うこと、借入れを使って株式の相対価値アービトラージを行うこと、そしてあらゆる証券・デリバティブで借入れを使ったアービトラージ[原文はconvergence trades]やエキゾチックなトレードを行うこと、が考えられます。

平均的な財団にとって、現在行っている借入れなしでの株式投資よりも賢明な選択肢とは、第一案のインデックス投資だと私は考えます。その理由は、インデックス連動型証券の提供者が示してくれているので明白ですね。特にそうなのは、現在胴元へ支払っている額が年率にして年初資産の1パーセントを超えている場合です。ほとんどだれもがそちらに鞍替えしてしまえば、インデックス投資で良い成果をあげられるのも終わりとなりますが、それでもまあ、かなりの期間はそれでうまくいくでしょう。

第三の選択肢はこじゃれた有責組合に投資するものでしたが、今日の話題の範囲を大幅に超えています。ただし、これだけは触れておきましょう。マンガー家の財団ではそれほど投資していないですし、LBO(レバレッジド・バイアウト)ファンドで考慮すべき2つの点は少しも触れたことはありません。

LBOファンドを思案する上でまず念頭におくべき点は、大きな借入れを使って諸企業をまるごと100パーセント買収する点です。ハッパをかける旗振り役が2階層あるので(最初の階層が経営陣で、もう1階層がLBOファンドのジェネラル・パートナーです)、株式インデックスが低迷する場合にはそれを凌駕できるかはなんとも言えません。本質的には、証券に相当するものを借入れを使って買うという点で、LBOファンドはうまい方法です。しかし株式の成績が悪いと、負債によって惨事を招く可能性があります。特にそうなのは、全般的なビジネスの状況が悪いがために株価が低迷する場合です。

2番目に考慮すべき点は、LBOの被買収候補に対する競争が激しくなることです。たとえば、その候補がすぐれたサービスを提供する企業だとしましょう、GE社が子会社のクレジット会社を使えば、年間100億ドル分以上を全額借金で買うことができます。支払う利息は、米国政府が支払うのとくらべてごくわずかに高いだけで済みます。この種のことは普通の競争では済まずに、大競争へとつながります。今日では、大から小まで非常に多数のLBOファンドがあります。どこも資金たっぷりのところばかりで、どこかを買収すればジェネラル・パートナーが大きな報奨を得られるようになっています。加えて、企業からの買い圧力も増しています。たとえばGEのような企業は、負債と株式を組み合わせることができます。

つまるところLBOの領域では、ひそかに隠れた証券同士の共分散があるわけです。それは、全般的なビジネスの状況が悪いときに災難を招くものです。その上、今や競争は激烈です。

私も一度有責組合を運営していたことがありますが、時間の制約があるのでこの件に言及するのはおわりにして、次に進みましょう。財団向け選択肢の第二案について、もっとつっこんだ話をします。これはバークシャー・ハサウェイがとっている投資慣行をよく模倣するものです。非常に限られた株式を選択して証券ポートフォリオを組み、売買回転率を事実上ゼロのまま保つわけですね。このことから、次なる疑問「財団ではどれだけ分散投資するのが望ましいのか」が生じます。

There are at least three modern choices:

1. The foundation can both dispense with its consultants and reduce its investment turnover as it changes to indexed investment in equities.

2. The foundation can follow the example of Berkshire Hathaway, and thus get total annual croupier costs below one-tenth of one percent of principal per annum, by investing with virtually total passivity in a very few much-admired domestic corporations. And there is no reason why some outside advice can't be used in this process. All the fee payer has to do is suitably control the high talent in investment counseling organizations so that the servant becomes the useful tool of its master, instead of serving itself under the perverse incentives of a sort of Mad Hatter's Tea Party.

3. The foundation can supplement unleveraged investment in marketable equities with investment in limited partnerships that do some combination of the following: unleveraged investment in high-tech corporations in their infancy; leveraged investments in corporate buy-outs; leveraged relative value trades in equities; and leveraged convergence trades and other exotic trades in all kinds of securities and derivatives.

For the obvious reasons given by purveyors of indexed equities, I think choice (1), indexing, is a wiser choice for the average foundation than what it is now doing in unleveraged equity investment. And particularly so, as its present total croupier costs exceed one percent of principal per annum. Indexing can't work well forever if almost everybody turns to it. But it will work all right for a long time.

Choice (3), investment in fancy limited partnerships, is largely beyond the scope of this talk. I will only say that the Munger Foundation does not so invest and briefly mention two considerations bearing on LBO funds.

The first consideration bearing on LBO funds is that buying one hundred percent of corporations with much financial leverage and two layers of promotional carry (one for the management and one for the general partners in the LBO fund) is no sure thing to outperform equity indexes in the future if equity indexes perform poorly in the future. In substance, a LBO fund is a better way of buying equivalents of marketable equities on margin, and the debt could prove disastrous if future marketable equity performance is bad. And particularly so, if the bad performance comes from generally bad business conditions.

The second consideration is increasing competition for LBO candidates. For instance, if the LBO candidates are good service corporations, General Electric can now buy more than $10 billion worth per year in GE's credit corporation, with one hundred percent debt financing at an interest rate only slightly higher than the U.S. Government is paying. This sort of thing is not ordinary competition, but supercompetition. And there are now very many LBO funds, both large and small, mostly awash in money and with general partners highly incentivized to buy something. In addition, there is increased buying competition from corporations other than GE using some combination of debt and equity.

In short, in the LBO field, there is a buried covariance with marketable equities - toward disaster in generally bad business conditions - and competition is now extreme.

Given time limitation, I can say no more about limited partnerships, one of which I once ran. This leaves for extensive discussion only foundation choice (2), more imitation of the investment practices of Berkshire Hathaway in maintaining marketable equity portfolios with virtually zero turnover and with only a very few stocks chosen. This brings us to the question of how much investment diversification is desirable at foundations.

2014年11月6日木曜日

オックスフォードが私をつくりあげた(『ドーキンス自伝I』)

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進化生物学者リチャード・ドーキンスの自伝『好奇心の赴くままに ドーキンス自伝I』を読みました。出世作『利己的な遺伝子』を読んで以来、彼の著作は少しずつ手にするようにしています。彼の主張や熱情と同じように、情緒ゆたかな文体は濃厚なところがあり、読み手を選ぶかもしれません(わたしは好きです)。今回引用する話題は「学ぶことについて」です。

オックスフォード大学が私をつくりあげたと書いたが、本当は私をつくりあげたのはその個別指導(チュートリアル)システムであり、これはたまたま、オックスフォード大学とケンブリッジ大学に特有のものだった。オックスフォードの動物学課程には講義や実験室での実習ももちろんあったが、それらは他のどこの大学と比べてとりわけ驚くようなものではなかった。いい講義もあれば、よくない講義もあったが、私にとってはほとんど大差がなかった。というのも、私はまだ講義に出ることの意味がわかっていなかったからである。それは情報を受け入れるということではないはずで、したがって、私がそれまでしていたこと(そして事実上すべての大学生がいまでもしていること)、つまり考えるための配慮がまったく残されないまま奴隷のようにノートを取ることには、なんの意味もない。この習慣から私が離れることができた唯一の機会は、かつてペンを持ってくるのを忘れてきたときだった。(中略)

その1回の講義については私はノートを取らず、ただ聴く--そして考える--だけにした。それはとりわけいい講義ではなかったが、私は、そこから他の講義--なかにはもっとずっといい講義もあった--よりもずっと多くを得た。なぜなら、ペンがないことが、私に聴いて考える自由を与えてくれたからだ。しかし私は自らの教訓を学び取り、以後の講義でノートを取るのを止めるだけの分別はなかった。

理屈のうえでは、講義ノートを取るのは試験勉強のために使うためのはずだが、私は自分のノートを見返すことはけっしてなかったし、同級生のほとんどもそうしていなかったのではないかと思う。講義の目的は情報を伝えることではないはずだ。そのためには書籍や図書館があり、今日ではインターネットもある。講義は刺激を与え、思考を呼び起こすべきである。あなたは、優れた講師が目の前で独り言を言い、思考に触手を伸ばし、高名な歴史学者A・J・P・テイラーのように、何もないところから何かを掴むのを観察しているのだ。独りごとを言い、内省し、熟考し、明晰にするために言い換え、ためらい、それから把握し、ペースを変え、考えるために休む優れた講師は、問題を考える方法、それについての情熱を伝える方法に関して、一つの役割モデルになりうる。もし講師が、だらだら読むように情報を伝えるのなら、聴き手はそれを読んでいるのと同じことだろう--たぶん、講師自身の本で。

ノートを取るなという私の忠告は、少しばかり誇張しすぎだ。もし、講師が独創的な考え、あなたに考えさせるような衝撃的なことを言ったのなら、そのときはぜひとも、後でそれについて考える、あるいは何かを探すために、メモを書いておくべきだ。 (p.239)

私はヒトデの配管についての最低限の事実は覚えているが、問題なのは事実ではない。問題は、それを発見するよう私たちに仕向ける方法なのだ。私たちがしたのは、教科書をくわしく勉強するだけではなかった。図書館に行って新旧の書物を調べ、その話題について自分が世界の権威に可能な限り近づくまで、もとの研究論文の軌跡を1週間でたどっていった(現在なら、この作業の多くをインターネットでするだろう)。毎週の個別指導で刺激を与えられる以上、ヒトデの水力学について、あるいはどんな話題についてであれ、単に本を読むだけですむことはないのである。その1週間、私は寝て、食べて、ヒトデの水力学の夢を見ていたことを思いだす。管足が私の瞼の下を行進し、水圧で動く叉棘(さきょく)が探り、海水が朦朧とした私の脳の中を脈動していった。小論文を書くのは心の浄化(カタルシス)であり、このまるまる1週間を正当化するのが、この個別指導なのだ。そしてまた次の週には新しい話題が出され、新しいイメージの祭りが図書館で呼び起こされるだろう。私たちは教育されつつあった……。そして私は、今日自分にいささかでも文才が備わっているとみなされるならば、その大半がこの週ごとに課された訓練の賜(たまもの)であると信じている。 (p.245)

最後はおまけです。リチャード・ドーキンスが生まれたのは1941年で、大英帝国が傾きはじめたばかりの時期でした。生誕の地はアフリカのケニアで、幼少期の思い出のほとんどはアフリカで占められています。次の引用は、アフリカならではのエピソードです。

ときどき私は[ドーキンスの母親]、隣のレノックス・ブラウンの農場に伝言を届けに、ボニーと呼ばれていたルビーの持ち馬で送り出された。はじめてその家に行ったとき、ボーイが、メンサヒブと呼んでいた大きな応接間を私に見せてくれた。その部屋は、私が待っているあいだ、輝く日の光を遮るために降ろされた安っぽいカーテンのために暗かったが、突然、私は自分一人ではないことに気づいた。ソファーに体をすっかり伸ばして横たわる一頭の巨大な雌のライオンがいて、私に向かって大きなあくびをしたのだ! 私はほとんど身がすくんでしまった。そのとき、レノックス・ブラウン夫人が入ってきて、ライオンをピシャリと打って、ソファーから押しのけた。私は伝言を渡して家を辞した。 (p.80)

2014年11月4日火曜日

チャーリー・マンガーの炉辺談話(5)度胸も必要ですよ

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米ウォール・ストリート・ジャーナルのブログで、ジェイソン・ツヴァイク氏がチャーリー・マンガーにインタビューした記事のつづきです。前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

<質問> 2009年3月に何十億円もの資金を、どのように銀行株へ投入したのか。(参考記事)

<マンガー> ただ資金を注ぎこんだだけですよ。目新しいものは何もありません。あれは40年に一度の好機でした。強みや知識を持つと共に度胸も備わるように、それらをうまく両立させる必要があります。能力に長けていても踏み出す勇気がなければダメですし、度胸は満点でも自分の土俵がわかっていなければ身を亡ぼします。しかし、自分が何を知らないのかよく知るようになるにつれて、度胸があることの価値は増していきます。プロのマネー・マネージャーに大学へ行かせる子供が4人いて、4千万円や1億円などの年収をとっていれば、「度胸があればなあ」とは到底考えない人ばかりでしょう。彼らの気がかりは、自分が生き残ることです。そして生き残るためには、目立つことはしないものです。

On how he sank tens of millions of dollars into bank stocks in March 2009:

We just put the money in. It didn't take any novel thought. It was a once-in-40-year opportunity. You have to strike the right balance between competency or knowledge on the one hand and gumption on the other. Too much competency and no gumption is no good. And if you don't know your circle of competence, then too much gumption will get you killed. But the more you know the limits to your knowledge, the more valuable gumption is. For most professional money managers, if you've got four children to put through college and you're earning $400,000 or $1 million or whatever, the last thing in the world you would want to be worried about is having gumption. You care about survival, and the way you survive is just not doing anything that might make you stand out.

2014年11月2日日曜日

2013年度バフェットからの手紙 - (付録)企業年金制度について(4)

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ウォーレン・バフェットがワシントン・ポストのキャサリン・グラハム向けに書いた企業年金制度に関する注意について、4回目です。前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

「地震的なリスク」 [想像を超えたリスクの意]

1920年初めに大きなインフレが起きたドイツでは、ダイムラー・ベンツ(メルセデス)社全体に対して市場が付けていた値段は自動車300台分でした。過去になされた投資のほとんどはほぼ無価値とみなされましたし、給与水準は過去とくらべると天文学的な数字になりました。そのような状況あるいはそこまで極端ではない状況でも、企業が負担するいかなる年金給付も、これには現在の給与水準だけでなく以前の勤務時の状況も関係しますが、事業の現在価値(利益創出力)だけでほとんどを保証しなければなりません。事前に拠出した資金は消え失せているわけです。

たとえば給与(や生活費)が年率25%上昇し、一方で年金基金は年率10%の利益をあげるとします。この仮定は英国でみられる現状とくらべて、とんでもなく離れた数字ではありません。そのような状況では、引退のために備えておいた基金は早々に、約束した給付内容に比して縮小しはじめます。年金制度に拠出された資金から毎月購入できるハンバーガーの数は、基金の運用で得られる配当や利子を含んだ上でも、減少していきます。

年金制度を検討する際にこの種の「地震リスク」のことを考えようとする人は、核戦争について多くの時間を割いて考えようとする人と同じで、ほとんどいないでしょう。「最終的な支払額に制限を設けずに、生活費の変化に基づいて給付を連動させるか、あるいは既退職者への給付を引きあげることで、インフレに対する絶対的な保護を多数の人に保証する」、そのような無制限の年金債務を想定するどの企業でも、「想像もできないような」インフレを想定した計算を行い、さらにはきちんと検討すべきだと思います。これはわたしの「前言バイアス」が働いているからか、あるいは数字を好む性向によるものかもしれません。それでもわたしはそう信じています。

そのようなわけで、民間の年金制度にとって2桁のインフレが継続する可能性は、まさに破壊的なものです。投資で得られるリターンよりも大幅に高い割合で給与が増加すると、もし最終給与額を基準にして年金給付額を決めていれば、債務分の資金を事前に用意しておくことは事実上不可能となります(あるいは引退の生活費増加を基準にしていればもっと高くつきます。これは最近のゴムやアルミニウムの契約条件と似ています)。これは否応なく、社会保障制度のような存在になることを意味します。ただし徴税する権利はありません。もし本当にそのような存在になったとすれば、企業が販売する製品の価格に対して、従業員に払う現在の賃金や過去の従業員に対する約束が反映されたとしても、今後の製品購入者は支払うことにやぶさかではないでしょう。事業によっては、それらのコストを売値に転嫁することが許された経済的性質を有しているところもあります。しかしそうでなければ、大きな問題を背負うことになります。全体としてみれば、わたしたちの事業[ワシントン・ポスト社]はそのような状況下では相対的に良好なビジネスだと信じております。しかし、この問題は投資というプロセスでは解決できないと思います。片手落ちにならぬよう申し上げますが、これは現金の持つ購買力が大幅に低下した場合に劇的なまでに上昇するような年金制度上の約束を作成する際には注意が必要だ、と促すものです。わたしに解決策があるわけではありません。

それではここからは、経済の世界というものが不確かなことは承知の上で、その世界において実施されている資金の拠出や投資行動で、少なくとも過去と同程度には適切だと思われる例を取りあげてみましょう。 (p.121)

The "Earthquake Risk"

In Germany, in the great inflation of the early 1920s, the entire Daimler Benz (Mercedes) Automobile Company was selling in the market for the price of 300 motor cars. Almost all past investments were nearly worthless, and current salary levels were astronomical in relation to past history. Under such conditions, or conditions far short of such an extreme, the burden of any pension benefits owed by a business, which are based on current salary levels though related to much earlier service in employment, must be backed almost exclusively by the current value (earning power) of the business. Advance funding simply evaporates.

For example, assume that salaries (and the cost of living) are moving upward at 25% per year and the pension fund is earning 10% per year - a set of assumptions not ridiculously different from what exists in England at the moment. Under such conditions, funds put aside for retirement immediately begin to shrink in relation to promised benefits. Every month fewer hamburgers can be purchased from the funds contributed to the pension plan - even after accumulating dividends and interest on the funds.

Almost no one chooses to think about this sort of "earthquake risk" in dealing with pension plans, any more than people choose to spend much time thinking about nuclear war. It may be my earlier-mentioned bias, or my mathematical bent, but I believe some "unthinkable" inflation-related calculations should be made - and even considered - before any company assumes open-ended pension obligations guaranteeing a large number of persons absolute protection against inflation by gearing benefits without limit to final pay or escalating benefits to persons already retired, based on changes in the cost of living.

Thus, the really devastating possibility regarding private pension plans is sustained double-digit inflation. When salaries move ahead at a substantially higher rate than investment returns and benefits are tied to final salaries (or, even more expensively, cost-of-living increases after retirement as in recent rubber and aluminum contracts), it is virtually impossible to pre-fund obligations. Like it or not, you become much like the Social Security Fund, absent the power to tax. Should that occur, future purchasers of the products of the company must be willing to do so at prices that reflect not only the wages of current workers, but the promises to past workers. Some businesses will have economic characteristics allowing them to pass along these costs, but others will have major troubles. On balance, I believe we are in relatively favorable businesses under such circumstances. I do not believe this problem can be solved by the investment process. I mention it for completeness, not because I have answers - and to urge caution in making pension benefit promises subject to dramatic escalation through substantial attrition in the purchasing power of money.

Now let's look at funding and investment behavior appropriate to an economic world at least reasonably similar to the past, recognizing that such a world is far from a certainty.