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2015年11月8日日曜日

投資家にウソをついたのではない(『HARD THINGS』)

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少し前に『HARD THINGS』という本を読みました。著者のベン・ホロウィッツはネットスケープのマーク・アンドリーセンとITベンチャー企業を経営し、事業を大企業へ売却することに成功した人物です。畏敬すべき経歴に聞こえるかもしれませんが、事業経営の内情はIT企業によくあるドタバタの連続です。IT業界で働く人であれば(ベンチャー企業であればなおさら)、肯きたくなる局面が何度もでてきます。その意味で個人的には「激動の時期を駆け抜けた、あるCEOの回顧録」として読みました。

さて今回は、同書で何度か取り上げられているアンディ・グローブ(インテルの元CEO)の発言を引用します。

2001年の大インターネットバブルの最終時期、大手IT企業が軒並み四半期目標を大幅に下回ったときに、なぜ誰もバブル崩壊を予知できなかったのかと考えた。2000年4月のドットコム不況のあと、シスコ、シーベル、HPなどは、自分たちの顧客の多くが壁にぶつかるのを見て、すぐに景気後退に気づいたはず、とあなたは考えるかもしれない。しかし、おそらく史上最大規模の早期警告システムが作動していたにもかかわらず、どのCEOも強気の予測を繰り返した。自分たちの四半期が劇的に吹き飛ばされる寸前まで。私はアンディに、なぜ偉大なCEOたちが、迫りくる自らの運命についてウソをつくのか尋ねてみた。

彼らは投資家にウソをついたのではなく、自分にウソをついていたのだとアンディは言った。

アンディは、人間、特にものをつくる人たちは、良い先行指標にしか耳を貸さないと説明した。たとえば、CEOは自社サービスの登録者数が通常の月間成長率を25パーセント上回ったと聞けば、切迫した需要の大波に耐えられるよう、すぐにエンジニアを追加するだろう。一方、登録者数が25パーセント減少すれば、CEOは同じくらい熱心かつ緊急に、言い訳の説明をするだろう。「この月は低調だった。休日が4日もあり、ユーザーインタフェース(UI)を変更したことによってさまざまな問題が起きた。どうか、パニックにならないでほしい!」

どちらの先行指標も誤りだったかもしれないし、正しかったかもしれないが、この架空のCEOはほぼすべてのCEOと同様に、ポジティブな指標に対してのみ行動を起こし、ネガティブな指標に対しては、説明を探すだけだ。(参考記事)(p.128)

2015年6月18日木曜日

(問題)いいアイディアを生み出す方法(『149人の美しいセオリー』)

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今年の早いうちに読んだ本『知のトップランナー149人の美しいセオリー』は、「あなたのお気に入りの、深遠で、エレガントで、美しい説明は何ですか?」という題目に対して寄せられたエッセイ集です。学術界で活躍する人たちが主に筆をとっているので、本質的な内容自体は勉強になります。しかしむずかしい主題を短い字数にまとめ、そこから翻訳された日本語を読むわけですから、明瞭明快な文章とは言いにくいところがあります。そうではあるものの、興味の範囲を広げる水先案内としては有用な一冊だと思います(ちなみに、創発についても取りあげられていました)。

今回引用するのは、ニュースクール大学の教授マーセル・キンズボーン氏が書いたエッセイです。解答の部分は次回の投稿でご紹介します。

いいアイディアを生み出すのに、人間である必要はない。あなたが魚でもかまわない。

ミクロネシアの浅い海域に、小魚を食べる大きな魚がいる。小魚は泥の中の巣穴に住んでいるが、餌を食べるときにはわらわらと出てくる。大きな魚は小魚を1匹ずつ平らげようとするが、食べ始めたとたん、小魚たちはさっさと巣穴に戻ってしまう。さて、どうしたものか。

私はもう何年も授業でこの問題を出しているが、私の記憶が確かなら、大きな魚と同じ名案を考え出した学生はたった1人しかいない。(p.381)

蛇足ですが、わたしの出した答えは自己採点で20点といったところでした。

2015年6月14日日曜日

創発とは(『わたしはどこにあるのか』)

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読了したばかりの本『〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義』は「人間の意識」とはどのようなものなのか、科学的な説明を試みている著作です。そのなかで説明されていた「創発」という概念をはじめて知りました。チャーリー・マンガーが主張する「とびっきり効果」(Lollapalooza effect)と似ており、印象に残りました(参考記事の例)。今回は創発を説明した箇所を引用します。

創発とはミクロレベルの複雑系において、平衡からはほど遠い状態(無作為の事象が増幅される)で、自己組織化(創造的かつ自然発生的な順応志向のふるまい)が行なわれた結果、それまで存在しなかった新しい性質を持つ構造が出現し、マクロレベルで新しい秩序が形成されることだ。創発には「弱い創発」と「強い創発」の2種類がある。弱い創発とは、元素レベルの相互作用の結果、新しい性質が出現すること。創発された性質は個々の要素に還元できる。つまりレベルが進んでいった段階を把握できるわけで、決定論的な立場と言える。これに対して強い創発では、新たに出現した性質は部分の総和以上なので還元できない。無作為の事象が拡大していくので、基礎的な理論や、別レベルの構造を支配する法則を理解したところで、性質の法則性が予測できない。(p.155)

こちらはおまけで、物理学者ファインマンの発言です。

物理学者が尻尾を巻き、決定論の裏口からこっそり逃げ出したのは、カオス理論も一因だが、量子力学と創発によるところが大きい。リチャード・ファインマンが、1961年にカリフォルニア工科大学の新入生を前に行った講演の中で、こう宣言したのは有名な話だ。「その通り!物理学は降参した。特定の状況で何が起こるのか、予測する術を我々は持たないし、そんなことは不可能だと分かった―予測できるのは異なる事象ごとの確率だけだ。自然界を理解したいという物理学の理想が削られたと言わざるを得ない。ある意味後退でもあるが、それを避ける方法を誰も見つけられなかった……だから当面は、確率計算に専念するとしよう。『当面』といったものの、永遠に続きそうな気がしてならない。この謎を解明するのは不可能であり、これが自然の真の姿なのだ」(p.158)

2015年5月12日火曜日

CEOに必要な資質とは(『破天荒な経営者たち』)

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数回前の投稿でご紹介した著書『破天荒な経営者たち』からもう1点ご紹介します。今回引用するのは、ラルストン・ピュリーナ社のCEOだったビル・スティーリッツ氏の話題です。なおペットフード会社の同社は、2001年にネスレに買収されました。

買収に関しては節約志向で、大型入札で株価がつり上がるよりも機を見て市場で買うことを好んだ。そして、常にPER(株価収益率)が周期的な安値を付けたときに買収を行った。(中略)

スティーリッツは、自社株買いのリターンがほかの資本投資、特に買収を判断するときの基準になると考えていた。長年彼の補佐役を務めたパット・モケイヒーによれば、「投資判断には、常に自社株買いのリターンというハードルが使われました。もし、買収によってある程度の精度でこのリターンを上回ることができそうならば、それは実行する価値があると判断されました」。(中略)

スティーリッツは、控えめに見ても魅力的なリターンを生みそうな会社のみを買うべきだと考えていた。彼は、詳細な金融モデルなど当てにせず、いくつかの重要な変数――市場成長率、競争、業務改善が可能か、そしてもちろん現金を生み出すカ――のみを考慮して判断を下していた。彼によれば「私はいくつかの重要な想定のみに注目して判断を下していました。まず調べるのは、市場の潜在的なトレンドの成長率と競争状況です」。(p.216)

スティーリッツは独立心が強く、外部からの助言はまったく受け入れなかった。彼は、CEOの資質としてカリスマ性は過大評価されていると考えていた。必要なのは分析力と独立的思考で、「それがなければ、CEOは銀行とCFO(最高財務責任者)の言うなりです」。彼は、多くのCEOがこのような分析力が必要ない部門(法務、マーケティング、製造、販売など)の出身だということを理解していた。しかしそのうえで、この能力がなければCEOとしては非常に不利だと考えていた。彼の信条は単純で、「リーダーシップとは分析力です」。(p.220)

2015年5月6日水曜日

バリュー投資家の方へおすすめの一冊『破天荒な経営者たち』

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チャーリー・マンガーの推薦書"The Outsiders"(過去記事)の翻訳書が出ていたことを指摘してくれたのは、いつもコメントをつけてくださるブロンコさんでした(過去記事のコメント欄)。邦題は『破天荒な経営者たち』、発行元はパンローリング社です。別の翻訳書『千年投資の公理』を取りあげたときに同社のことを「わざと売れないように題名をつける会社」と書きましたが(過去記事)、本書もその路線に足を踏み入れていると思います。邦題だけでなく、装丁(表紙のデザイン)のほうも購買意欲を削いでいるようにみえるからです。前置きが長くなりましたが、結論は題名に記したとおりです。バリュー投資家のみなさんには、一読されることを強くお勧めする一冊です。資金を投じる価値がある企業の経営者とはどのような人たちなのか、その実例を示しているからです。

今回引用するのは同書で紹介されている経営者のひとり、ケーブルテレビ業界のTCI社でCEOを務めていたジョン・マローン氏の話題です(現在はリバティメディア社などの会長)。

この時期、マローンは新しい財務と業務の規律を導入し、各部門の責任者に、利益率を維持しながら毎年加入者を10%増やすことができれば、彼らの独立性を尊重すると約束した。TCIの質素で起業家的な文化は、この時期に本部から現場へと広がっていった。

TCIの本部や、アメリカのメディア勢力図を書き換える業界の最大手の本部にはとても見えなかった。事務所は質実剛健で、少ない幹部とそれ以上に少ない秘書がビニール張りの床に置いた剥げた金属製のデスクで働いていた。受け付けは一人しかおらず、あとは自動音声の留守番電話で対応していた。TCIの幹部がそろって出張に出ても宿泊はたいていモーテル(車庫付きの簡易宿泊所)で、COO(最高執行責任者)のJ.C.スパークマンによれば「当時はホリデイ・インに泊まるのがたまの贅沢でした」。(中略)

各部門の責任者は、目標を達成していればかなりの自治権を与えられていた。反対に、月間目標が達成できなかった部門の責任者は、社内を飛び回っているCOOの訪問をたびたび受け、パフォーマンスが劣っていればすぐに差し替えられた。(p.143)

資本を配分するには高リターンの選択肢がたくさんあり、マローンはそれを最適に組み合わせてTCIの資産を構築していった。彼の経歴からも分かるように、マローンは冷静で合理的でまるで外科医のように正確に資本を配分していったのである。彼は、魅力的なリターンであれば、どれほど複雑で型破りな投資でも検討し、工学的な思考で、リターンが優れた計画だけを実行した。面白いことに、彼はスプレッドシートは使わず、リターンが簡単に計算できる計画を好んだ。「コンピューターには細かいデータがたくさん必要ですが……私はプログラマーではなく数学者です。正しくあるべきですが、厳密でなくともよいのです」と語ったこともある。(p.162)

しかし、彼は安値でしか買わず、TCIの買収計画の基礎となる単純なルール――番組制作費の割引と人員削減が終わった時点で見込めるキャッシュフローの5倍までしか支払わない――を持っていた。この分析は、たった1枚の紙があれば計算できた(紙ナプキンの裏で計算することもあった)。高度な予想モデルなどは必要ないのである。

重要なのは予想の精度と期待した相乗効果を生み出せるかどうかであり、マローンとスパークマンの事業チームは新たに買収した会社の不要コストを削減するための高度な訓練を受けていた。(p.165)

TCIの事業は驚くほど分権化されており、スパークマンが引退した1995年でも1200万人の加入者を擁するこの会社の本部には17人の社員しかいなかった。マローンのいつもの率直な言いかたによれば、「スタッフの数が多ければよいというものではありません。ほとんどの人間は、あとからとやかく言うだけの連中です」。(p.169)

2015年4月22日水曜日

人間は戦士型か心配性型のどちらかである(『競争の科学』)

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何回か前の投稿でご紹介した『競争の科学』から再び引用します。前回は女性の判断能力に関する話題でしたが、今回はその神経科学的なメカニズムを取りあげた箇所です。

はじめは、ドーパミン処理能力に個人差がある話題です。
身体はCOMTタンパク質をつくる際、遺伝コードに従って、数百もの連鎖するアミノ酸を形成する。コドン158に到達すると、遺伝コードが指示する2つのうちのどちらかのアミノ酸がつくられる。人によって、数百ものアミノ酸配列の158番目に位置するCOMTが、バリンのタイプと、メチオニンのタイプがある。

この1文字のコード、この1つのアミノ酸の違いが、人のCOMTが働き者か怠け者かを決定している。働き者のCOMTは、怠け者よりも4倍も速く動く。働き者のCOMTはバリン、怠け者のCOMTはメチオニンで作られる。(中略)

ストレスが生じると、前頭前皮質のシナプスには大量のドーパミンが溢れる。基本的に、ドーパミンは脳にとって必要なものである。それは神経の増幅器や充電器に相当するものだ。だが、ドーパミンが多すぎると、過負荷になってしまう。

高速のCOMTを持つ脳は、ストレスをうまく処理できる。COMTが余分なドーパミンを素早く取り除くことができるからだ。

低速のCOMTを持つ脳は、ストレスをうまく処理できない。COMTが余分なドーパミンを簡単には除去できないからだ。脳はストレスによって過度に興奮し、うまく機能できなくなってしまう。

ここまでの説明だと、速いCOMTがすべてにおいて良いもので、遅いCOMTは悪いものであると思うかもしれない。だが、実際はそうではない。どちらが良いか悪いかは、ストレスを感じているかどうかによって決まる。

速いCOMTはごく短期間で機能するため、強いストレスのない平常時でも、正常に放出されているドーパミンを除去してしまう。そのため、これらの速いCOMTを持つ人は、標準的なドーパミンレベルが慢性的に低くなる。燃料室に十分なガソリンがない状態だ。前頭前皮質は機能するが、それは最適なものではない。精神を最適なレベルで機能させるためには、ストレス(とドーパミン)が必要になる。これらの人々は、最善に機能するためには、締め切りや競争、重要な試験などの、ストレスが必要なのである。

遅いCOMTはドーパミンを除去する能力が低い。だがこれは、強いストレスを感じていないときには、有利な働きをする。ドーパミンレベルが高く保たれ、前頭前皮質に満タンのガソリンが供給されるために、最適なパフォーマンスが可能になるのだ。特別な日を除けば、遅いCOMTを持つことはメリットになる。だがストレスとプレッシャーに直面し、ドーパミンが大量に放出された場合、問題が生じる。(p.101)

次は、心配性型が実は攻撃的かもしれない点について。
人間はすべて、戦士型または心配性型のどちらかであるという科学的な主張がある。ドーパミンを素早く除去する酵素を持つ人は戦士型で、恐怖や苦痛などの脅威に直面しつつも最大限のパフォーマンスが求められる環境にすぐに対処できる。ドーパミンの除去に時間がかかる酵素を持つ人は心配性型で、起こりうる事態について、事前に複雑な計画や思考をする能力がある。戦士型と心配性型のアプローチはどちらも、人類が生き残るために必要なものであった。

一見、戦士型の方が攻撃的だと思われるが、実際にはそうとも言えない。心配性型は平常時のドーパミンのレベルが高く、攻撃的反応の閾値の近くにいる。こうした人は神経質であり、感情を爆発させやすい。簡単に腹を立てるし、感情を表に出す。だがその攻撃性が効果的なものだとは限らない。「適切な攻撃性」とは、他社の攻撃的意図を正確に読み取り、解釈し、それに対処することである。心配性型は、相手にその意図がないときに攻撃性を見いだし、相手にその意図があるときに攻撃性を見逃してしまう傾向がある。一方の戦士型は、現実への備えができている。(p.103)

最後は、ドーパミン処理能力の男女差についてです。
ローアン・ブリゼンティーン博士は、著書『The Female Brain(女性の脳)』のなかで、エストロゲンをホルモンの女王と呼んでいる。曰く、エストロゲンは「パワフルで、状況をコントロールし、人を没頭させ、ときにはビジネス一辺倒で、ときには積極的に男を誘惑する女である」。エストロゲンは主要な女性ホルモンだ。それは意欲や野心を高める。

エストロゲンは、細胞内に入り込み、大量の遺伝子の転写を制御することで作用する。

そのうちの1つがCOMT遺伝子だ。

COMTプロセスに対するエストロゲンの効果は極めて劇的だ。その女性がどちらの遺伝子型かにかかわらず、それはドーパミン再吸収の速度を30%遅くする。

そのため、女性のドーパミンの基準値は男性よりも高くなる。特に排卵前と月経前の、月に2度のエストロゲンのピーク時はそうである。これにストレスが加われば、女性は簡単にドーパミン過負荷になってしまう。一般的に知られている男女の性格や行動の違いは、ストレスのもとではさらに際立つようになる。その一部は、こうしたドーパミンのレベルの違いによってもたらされるものなのである。(中略)

ライトホールとマザーは、今度はゲーム中の被験者の脳をスキャンしながら同じ実験を行い、「ストレスは男性と女性に反対の影響を及ぼす」と結論づけた。女性の場合、ストレスを感じると、脳の感情を司る部分が活性化し、それによって意思決定が混乱していた。だが男性には、感情の高まりは見られなかった。男性は、ストレスによって冷静な判断をするようになっていたのである。

ライトホールらは、脳の後部に位置する視覚大脳皮質に注目した。この領域は、相手の細かな表情から感情を読み取ることに関連している。女性がストレスを感じている場合、この領域は著しく活性化した。しかし男性の場合、この領域の活動は抑制されていた。

つまりストレス下では、男性の脳は感情的な合図を無視し、女性の脳は感情的な合図を探し求める。ライトホールとマザーの研究から学べる教訓は、女性と男性は異なる方法でストレスに対処しようとするかもしれないということだ。(p.113)

「心理学は他の学問と統合して研究するように」とは、チャーリー・マンガーがたびたび繰り返す主張です。今回引用した箇所では、その重要性がはっきりと表れています。他方、こういった学問的知見は世知のひとつとして人生の各種局面で活用できるはずです(以前とくらべると、力説できるようになりました)。それは投資戦略においても同じだと思います。この手の本は学術的な成果をわかりやすい形で示してくれるので、ありがたい本です。

2015年4月14日火曜日

女性が競争に加わるとき(『競争の科学』)

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読み進めるうちにすなおに引き込まれる本とは、読み手の興味と一致しているか、あるいは書き手の筆力や構成がすぐれているか、そのいずれかのことが多いように感じます。少し前に読んだ本『競争の科学』はいかにも現代風の装丁で、手にした段階ではそれほど興味をひきませんでした。ところが内容のほうは先に示した両方を満たしており、おおいに楽しめ、そして勉強になった本でした。個人的な今年の上位にあげたい一冊です。

今回ご紹介するのは、競争に対して女性がどのような意識を持っているのかを説明した箇所です。これと同じ話題は前にもとりあげましたが、大切なことは繰り返し触れるのが師匠の教えです。

成功の見込みが高いとき、男女の間に野心の差はなくなる。むしろ女性の方が積極的になる。男性は、勝つ見込みの少ない勝負にも賭けることがある。ときには、愚かしいまでに勝ち目のない戦いに挑むこともある。だが、女性はそのような賭けをしない。(p.130)

フルトンが説明する。「男性が戦略的でないということではなく、女性の方がコストやメリットを強く意識しているのだ。勝つ見込みが変わっても、男性が競争に参加するかどうかはあまり変化がない。だが女性が競争に参加するかどうかは、勝つ見込みと深く結びついている。女性は、勝てるかどうかに極めて敏感なのだ」(中略)「女性は極めて戦略的に競争に参加するかどうかを考え、極めて慎重に行動している」フルトンは言う。(p.132)

女性は、チャンスがあると確信するとき、男性よりも積極的に競争に参加する。また、負けて時間を浪費することを、男性よりも強く拒絶する。(p.133)

競争とは、負けのリスクをとることだ。競争に投資(時間、金、感情)をするほど、負けて失うものも多くなる。このリスクの判断方法が、女性(この場合は政治家)と男性とでは異なる。(p.135)

勝者総取り方式を選択した73%の男性の計算能力は、平均レベルを上回るものではなかった。にもかかわらず、男性はそれでも自分は勝てるという誤った考えを持っていたのである。

対照的に、女性は自らの能力を適切に評価していた。ほとんどの女性は、負ける確率が高いという理由で、勝者総取り方式には参加しなかった。だがこれは、女性には生得的にリスク回避志向があるということではない。女性は、正確にリスクを認識しているのである。女性は競争そのものを恐れているのではないし、競争を楽しんでいないわけでもない。女性は、負ける可能性を認識することに優れているだけなのだ。

一方の男性は、負ける可能性をうまく認識できず、自信過剰である。男性は、勝利だけに注目する傾向がある。競争を挑まれると、簡単には抵抗できない。(p.139)

2014年12月10日水曜日

本当の幸せとは(『脳科学は人格を変えられるか?』)

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何度かとりあげた『脳科学は人格を変えられるか?』から、今回で最後の引用です。本当の幸せに関する話題です。きれいごとのようにみえますが、現代文明の本質の一面をうまくとらえた見解だと思います。

もうひとつ重要な発見が、科学的な研究からもたらされている。それは、人がほんとうの意味で幸福になれるのは次に述べる3つの要素があわさったときだけだということだ。ひとつ目は、ポジティブな感情や笑いを数多く経験すること。ふたつ目は、生きるのに積極的にとりくむこと。そして3つ目は、今日明日ではなくもっと長期的な視野で人生に意義を見出すことだ。

ふたつ目の、仕事であれ趣味であれ、自分がしていることに積極的にかかわることは、3つの中でもとりわけ重要だ。幸福に関する複数の調査からは一貫して、より良い仕事やより良い家、より良い車などのいわゆる<ものごと>が、高い幸福感の継続にはつながらないという意外な結果がもたらされている。売る側が何をどう言おうと、新しいぴかぴかの腕時計や新しい携帯電話は、長期的には人の幸福度をすこしも高めてはくれないのだ。基本レベルの豊かさ(住む家があり、十分食べ物があること)がひとたび得られれば、それ以上にどれだけカネがあっても人が感じる幸福度にほとんど差は生じない。これは複数の調査からあきらかにされた事実だ。それよりも人を幸福にするのは、自分にとって大きな意味のある何かに積極的にとりくむことだ。これこそが楽観主義者の本物の証明だ。楽観主義者とは、大きな目的に向かって没頭したり、意義ある目標に到達するために努力を重ねたりできる人々なのだ。 (p.287)

備考です。過去記事で引用したツヴァイクも同じ趣旨のことを述べていました。

2014年12月6日土曜日

刻みこまれた太古の記憶(『脳科学は人格を変えられるか?』)

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先日の投稿でとりあげた『脳科学は人格を変えられるか?』から、今回は悲観的な見方に関する箇所を引用します。

何百万年もの進化の歴史の中で、人類はこの強力なシステムを発達させてきた。これはいわば脳の非常ボタンであり、危機が眼前に迫っていることを脳の他の部分に知らせるはたらきを持つ。非常ボタンを押すことで潜在的脅威が意識の中にクローズアップされ、それを詳しく見定めることが可能になる。それと同時に恐怖中枢は、脳内で起きている他の活動をいったんすべて低下させ、瑣事にかまわず、危機の発生源に確実に焦点をあわせられるように仕向けている。待ったなしの脅威に遭遇したとき、注意力を一気に集め、あらゆる手を尽くして危険な事態からすみやかに抜け出させるのが、恐怖の回路のはたらきなのだ。 (p.109)

人や他のおおかたの種に共通する脳の原始的な部分は、人類の祖先が激しい嵐や捕食者など、自然がもたらすさまざまな脅威とともに暮らしていたはるか昔に発達したものだ。だから、扁桃体をはじめとする原始的な組織は現代でも、そうした脅威に出会うと脳内で発火する。進化上古い領域にある恐怖の回路は現代でも、人類の祖先を脅かした各種の危険に出会うと活性化し、他の多くの領域のコントロールを奪う。そうして重要でない活動をひとまずストップさせ、危機に対処できるようにするのだ。この現象は多くの研究から実証されている。 (p.110)

要するに、こういうことだ。人類の祖先の中で現代にまで子孫を残すことができたのは、ヘビやクモなどの脅威を巧妙に見つけ、回避することができた者だ。だからこそその子孫には、より効果的な危機感知システムが備わるようになった。わたしたち現代人の脳には今もなお、このはるか昔の記憶が刻み込まれている。 (p.112)

新聞やテレビやラジオは連日、ネガティブな話を山ほど人々に投げつけてくる。金融危機、景気後退、地球温暖化、豚インフルエンザ、テロリズム、戦争。ネガティブな話は文字通り枚挙にいとまがない。そして悪い知らせについ波長をあわせがちな脳本来の傾向とあいまって、悲観主義は圧倒的な力をふるう。

なぜ悲観がこれほど強い力をもつのか、読者にはもうわかるだろう。恐怖の回路は楽しそうな情報は二の次にして、危険を満載した情報ばかりにスポットをあてる。わずかでも危険の影があれば即座にそれを拾いあげ、脳内で起きている他の作業を停止させ、すべてを危機に集中させる。ポジティブなものよりネガティブなものに強く引かれるこの人間本来の傾向があるからこそ、ものごとを楽観的に考えるのは悲観的に考えるよりずっとむずかしいのだ。人々を怖がらせるのは安心させるよりはるかに簡単であることは、政治家や聖職者が歴史を通じて示してきたとおりだ。

さらに問題なのは、ひとたび恐怖の回路にスイッチが入ると論理が遮断されてしまうことだ。論理を無視して恐怖が作動すると、現代のさまざまな状況下では大きな問題が起こりかねない。恐怖は、快楽を経験したり楽観的思考をはぐくむのを邪魔するばかりでなく、もっと巨大な恐怖や不安をひきおこし、人生から輝きを奪う可能性もある。 (p.128)

備考です。脳科学や心理学の話題は、本ブログで何度か取りあげています。たとえば過去記事「脳のなかの近道(神経科学者V・S・ラマチャンドラン)」などです。

2014年11月30日日曜日

人間はそもそも常に希望を抱く(『脳科学は人格を変えられるか?』)

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少し前に『脳科学は人格を変えられるか?』(著者:エレーヌ・フォックス)を読みました。題名からある程度予想できるように、本書では楽観主義者と悲観主義者の違いを脳科学の面から明らかにして、楽観的な精神を築いて維持するにはどうすればよいかを考察しています。ここで言う「楽観」とは単なるお気楽な心持ちを示しているのではなく、前途にある人生を真摯にとらえた、健やかな見方です。

本書は内容がしっかりしているだけでなく、文章の構成も巧みで、よみやすく書かれています。地味な題名に地味な表紙と、売れない条件が揃っていますが、広くお勧めしたい良い本だと思います。個人的には、今年のベスト3に入れたい作品です。

それではまず今回は「楽観」に関する文章をいくつか引用します。

あらゆる生物にとって生き残る可能性を最大化する手段は、食物や性交などの<良きもの>に接近すること、そして捕食者や毒などの<危険なもの>を避けることだ。人間のさまざまな行動や複雑な生態はすべて、これらふたつの習性から生まれていると言ってもいい。 (p.38)

シュネイルラは実験室と野外の双方で行ったすべての観察と実験の結果から、あらゆる生物を結ぶ原理は、食物と安全な場所を見つけようという衝動(=報奨への接近)と、何かに食われないようにする衝動(=危険の回避)の二つに尽きると結論した。ハトであろうとネズミであろうと馬であろうと、はたまたヒトであろうと、報奨に「接近する」ことと脅威を「避ける」ことは、行動の最大の動機づけだといえる。 (p.40)

上で引用した内容はあたりまえのことながら、チャーリー・マンガーは心理学の話題を展開した際に筆頭に挙げていました(過去記事)。いちばん大切なことをいちばん初めに説明するというのは、チャーリーであれば当然の理にかなったやりかたです。

次の3つの引用は、楽観という感情が人間に埋め込まれた避けがたい性質であることを説明しています。

サニーブレインの中でもっとも活発にはたらいている化学的メッセンジャーはドーパミン、そしてアヘンと似たはたらきをする脳内物質のオピオイドだ。側坐核を構成する細胞にはこのドーパミンとオピオイドのどちらかが含まれており、これらの神経伝達物質の活動こそが、人間がさまざまな経験を楽しんだり欲したりするのを促している。これらは、サニーブレイン全体のエンジンルームでいわばオイルの役目を果たしており、楽観をつくりあげる基本要素のひとつだ。 (p.72)

なぜ人々は、こんなふうに抑えがたい楽観を抱くのだろう? 地球規模の問題が目の前に山積しているのに、なぜそれでも未来を楽観できるのだろう? その答えは、複雑かつ興味深い。謎のひとつは、人間の脳がそもそも未来に常に希望を抱くように配線されていることだ。

これまで見てきたように、サニーブレインの重要なはたらきのひとつは、究極の報奨に向けてつねに人間を駆り立てることだ。楽観は、人間が生き延びるために自然が磨きあげた重要なメカニズムであり、そのおかげでわたしたちは、ものごとがみな悪いほうに向かっているように見えるときでさえ前に進んでいくことができる。 (p.86)

なぜ人間の脳は、こんなに楽観的な方向にかたむいているのだろうか? ひとつの理由はこの楽観こそが、毎朝人間が寝床から起き上がるのを可能にする力だからだ。楽観とは本質的には認知上のトリックだ。このトリックのおかげで人は、懸案事項や起こりうる問題や予想外の危機を過剰に心配しなくてすむ。 (p.87)

最後の引用です。こちらも重要な指摘です。

男性は進化論的な観点からいえば、できるだけ多くの相手と交尾しなければ生存競争を勝ち残れない。だからたった1回でも「つがう」チャンスを逃すことは大きな痛手になる。いっぽう相手から拒絶される痛みはほんの一瞬で、さして高くはつかない。だから男性にとって自分の魅力を過信するのは、きちんと採算のあう行為なのだ。かくして楽観主義の種は、それが現実をふまえていようがいまいが、広く蒔かれていくわけだ。 (p.89)

2014年11月10日月曜日

ブタによって浪費される学生時代(リチャード・ドーキンス)

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前々回に取り上げた『好奇心の赴くままに ドーキンス自伝I』から、さらに引用します。最初は、遺伝子同士がどのように相互関連するのか比喩を使って表現した文章です。本ブログでよく取り上げる話題「モデル同士の相互作用」に通じるものがあり、ひとつの見方として参考になると思います(過去記事1, 過去記事2, 過去記事3)。

私の遺伝学のチューターだったロバート・クリードは、変わり者で女性嫌いの唯美主義者、E・B・フォードの生徒であり、フォード自身は偉大なR・A・フィッシャーから大きな影響を受けていて、私たちはみなフォードから、フィッシャーに戻れと教えられた。私はこうしたチューターから、そしてフォード博士自身の講義から、遺伝子は体に及ぼす影響に関しては、原子のように孤立しているのではないことを学んだ。むしろ、一つの遺伝子の効果は、ゲノム内の他の遺伝子から成る「背景」によって条件づけられているのである。つまり、遺伝子は互いの効果を修正しあっているのである。のちに私自身がチューターになったとき、私はこのことを生徒たちに説明するために一つのアナロジーを考えついた。体は、天井に並んだフックに取り付けた無数の紐によってほぼ水平に吊るされた1枚のベッド・シーツの形によって表される。それぞれ1本の紐は1つの遺伝子を表す。遺伝子の突然変異は、天井に取り付けられた紐の張り具合で表される。しかし -- ここがこのアナロジーの重要な部分だが -- 、それぞれの紐は、下に吊るされたシーツに孤立して取り付けられているわけではない。むしろ、それは複雑なあやとりのように、多数の他の紐と絡まり合っている。このことは、どれか1つの紐に絡んでいる他のすべての紐の張り具合にも、あやとり全体に及ぶ一連の連鎖反応によって、同時に変化が起こる。そして結果としてシーツ(体)の形は、各遺伝子がシーツの「自分の」小さな単一の部分に個別に作用することによってではなく、すべての遺伝子の相互作用によって影響を受ける。体は肉屋の各部名称の図のように、対応する特定の遺伝子に「切り分け」できるようなものではない。むしろ、1つの遺伝子が、他の遺伝子との相互作用によって体全体に影響を与えうるのである。この喩え話を精巧にしたいなら、あやとりを横から引っ張ることによる環境的 -- 非遺伝的な -- 影響を取り込めばいい。 (p.246)

次の引用はドーキンスの啓蒙者魂を規定するような、ガリレオ・ガリレイにまつわるエピソードです。

アーサーはまた、ガリレオについてけっして忘れられない話をしてくれたが、それはルネサンス科学のどこが新しいかを要約するものだった。ガリレオは一人の学識者に、自分の望遠鏡を通して天文学的現象を見せていた。その紳士は概略、次のようなことを言ったとされる。「先生、あなたの望遠鏡による実演は非常に説得力がありますから、もしアリストテレスが積極的に逆のことを言っているのでなければ、私はあなたを信じます」。現在なら、誰か権威と考えられている人間がただ断言しただけのことのほうが好ましいからと言って、実際の観察によるあるいは実験による証拠を、きっぱりと退けることのできる人間が誰かいれば、きっと驚くだろう -- あるいは驚くべきだ。しかし、これが要点なのだ。変わったのはそこだった。 (p.248)

上の引用でドーキンスは、現代科学がなしとげた進歩を評価しています。しかし同時に、非ハード・サイエンス的な領域に対して反省をうながしているようにも読めました。

最後の引用です。こちらもなかなか厳しいご意見です。

ときどき思うのだが、学生時代は、十代で無駄に浪費されるにはあまりにももったいない。ひょっとすれば、熱心な教師たちは、ブタの前に真珠を投げる代わりに、生徒たちが真珠の美しさを評価できるだけの大人になるよう教える機会を与えられるべきなのかもしれない。 (p.204)

2014年11月6日木曜日

オックスフォードが私をつくりあげた(『ドーキンス自伝I』)

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進化生物学者リチャード・ドーキンスの自伝『好奇心の赴くままに ドーキンス自伝I』を読みました。出世作『利己的な遺伝子』を読んで以来、彼の著作は少しずつ手にするようにしています。彼の主張や熱情と同じように、情緒ゆたかな文体は濃厚なところがあり、読み手を選ぶかもしれません(わたしは好きです)。今回引用する話題は「学ぶことについて」です。

オックスフォード大学が私をつくりあげたと書いたが、本当は私をつくりあげたのはその個別指導(チュートリアル)システムであり、これはたまたま、オックスフォード大学とケンブリッジ大学に特有のものだった。オックスフォードの動物学課程には講義や実験室での実習ももちろんあったが、それらは他のどこの大学と比べてとりわけ驚くようなものではなかった。いい講義もあれば、よくない講義もあったが、私にとってはほとんど大差がなかった。というのも、私はまだ講義に出ることの意味がわかっていなかったからである。それは情報を受け入れるということではないはずで、したがって、私がそれまでしていたこと(そして事実上すべての大学生がいまでもしていること)、つまり考えるための配慮がまったく残されないまま奴隷のようにノートを取ることには、なんの意味もない。この習慣から私が離れることができた唯一の機会は、かつてペンを持ってくるのを忘れてきたときだった。(中略)

その1回の講義については私はノートを取らず、ただ聴く--そして考える--だけにした。それはとりわけいい講義ではなかったが、私は、そこから他の講義--なかにはもっとずっといい講義もあった--よりもずっと多くを得た。なぜなら、ペンがないことが、私に聴いて考える自由を与えてくれたからだ。しかし私は自らの教訓を学び取り、以後の講義でノートを取るのを止めるだけの分別はなかった。

理屈のうえでは、講義ノートを取るのは試験勉強のために使うためのはずだが、私は自分のノートを見返すことはけっしてなかったし、同級生のほとんどもそうしていなかったのではないかと思う。講義の目的は情報を伝えることではないはずだ。そのためには書籍や図書館があり、今日ではインターネットもある。講義は刺激を与え、思考を呼び起こすべきである。あなたは、優れた講師が目の前で独り言を言い、思考に触手を伸ばし、高名な歴史学者A・J・P・テイラーのように、何もないところから何かを掴むのを観察しているのだ。独りごとを言い、内省し、熟考し、明晰にするために言い換え、ためらい、それから把握し、ペースを変え、考えるために休む優れた講師は、問題を考える方法、それについての情熱を伝える方法に関して、一つの役割モデルになりうる。もし講師が、だらだら読むように情報を伝えるのなら、聴き手はそれを読んでいるのと同じことだろう--たぶん、講師自身の本で。

ノートを取るなという私の忠告は、少しばかり誇張しすぎだ。もし、講師が独創的な考え、あなたに考えさせるような衝撃的なことを言ったのなら、そのときはぜひとも、後でそれについて考える、あるいは何かを探すために、メモを書いておくべきだ。 (p.239)

私はヒトデの配管についての最低限の事実は覚えているが、問題なのは事実ではない。問題は、それを発見するよう私たちに仕向ける方法なのだ。私たちがしたのは、教科書をくわしく勉強するだけではなかった。図書館に行って新旧の書物を調べ、その話題について自分が世界の権威に可能な限り近づくまで、もとの研究論文の軌跡を1週間でたどっていった(現在なら、この作業の多くをインターネットでするだろう)。毎週の個別指導で刺激を与えられる以上、ヒトデの水力学について、あるいはどんな話題についてであれ、単に本を読むだけですむことはないのである。その1週間、私は寝て、食べて、ヒトデの水力学の夢を見ていたことを思いだす。管足が私の瞼の下を行進し、水圧で動く叉棘(さきょく)が探り、海水が朦朧とした私の脳の中を脈動していった。小論文を書くのは心の浄化(カタルシス)であり、このまるまる1週間を正当化するのが、この個別指導なのだ。そしてまた次の週には新しい話題が出され、新しいイメージの祭りが図書館で呼び起こされるだろう。私たちは教育されつつあった……。そして私は、今日自分にいささかでも文才が備わっているとみなされるならば、その大半がこの週ごとに課された訓練の賜(たまもの)であると信じている。 (p.245)

最後はおまけです。リチャード・ドーキンスが生まれたのは1941年で、大英帝国が傾きはじめたばかりの時期でした。生誕の地はアフリカのケニアで、幼少期の思い出のほとんどはアフリカで占められています。次の引用は、アフリカならではのエピソードです。

ときどき私は[ドーキンスの母親]、隣のレノックス・ブラウンの農場に伝言を届けに、ボニーと呼ばれていたルビーの持ち馬で送り出された。はじめてその家に行ったとき、ボーイが、メンサヒブと呼んでいた大きな応接間を私に見せてくれた。その部屋は、私が待っているあいだ、輝く日の光を遮るために降ろされた安っぽいカーテンのために暗かったが、突然、私は自分一人ではないことに気づいた。ソファーに体をすっかり伸ばして横たわる一頭の巨大な雌のライオンがいて、私に向かって大きなあくびをしたのだ! 私はほとんど身がすくんでしまった。そのとき、レノックス・ブラウン夫人が入ってきて、ライオンをピシャリと打って、ソファーから押しのけた。私は伝言を渡して家を辞した。 (p.80)

2014年8月4日月曜日

第4次世界大戦で使われる武器(アルバート・アインシュタイン)

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前回ご紹介した『人類5万年 文明の興亡』では過去の歴史を振り返るだけでなく、将来の世界についても言及されています。その中で興味ぶかい話題を2つご紹介します。

ひとつめは最先端テクノロジーについてです。SF小説『ニューロマンサー』や映画『マトリックス』の世界に近づいた未来像です。

国防総省高等研究事業局(DARPA)は、人間改造の研究に多額の資金を提供している機関の一つだ。1970年代にはインターネット(当時はアーパネットと呼ばれていた)を開発した。同局のブレイン・インターフェース・プロジェクトは現在、シリコンではなく酵素とDNA分子で作られた超小型コンピューターに注目している。兵士の脳に埋め込めるものだ。最初の分子コンピューターは2002年に発表され、2004年には改良版ががん治療に使われるようになった。しかしDAPRAは、もっと高度なモデルによってシナプスの結びつきが加速され、記憶容量が増え、ワイヤレスのインターネット・アクセスが可能になると考えている。同じようにDAPRAのサイレント・トーク・プロジェクトは、脳内の言語化前の電子信号を解読してインターネット経由で送ることで、兵士が無線機やEメールなしで通信できる装置の開発に取り組んでいる。全米科学財団のレポートによれば、このような「ネットワーク化が可能なテレパシー」は、2020年代には実現するという。(下巻 p.325)


インターネット技術が民生に転用されて発展するまでのタイムラグは、たとえば30年間ほどと言えそうです(1970年 -> 2000年)。その数字をそのまま敷衍すると、一般市民の脳がインターネットに直結する時代がやってくるのは、2050年か60年ぐらいになりそうですね。

もうひとつは、原爆開発に関わったアインシュタインの残した警鐘で、非常に暗い未来の可能性を示しています。

1949年、アインシュタインはジャーナリストに言った。「第3次世界大戦がどのように戦われるのかはわからない。しかし、第4次世界大戦で人々が何を使うかはわかるよ……石、だ」。(下巻 p.340)

2014年8月2日土曜日

『人類5万年 文明の興亡: なぜ西洋が世界を支配しているのか』

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人類5万年 文明の興亡: なぜ西洋が世界を支配しているのか』(著者:イアン・モリス)を読みました。原書のタイトルは"Why The West Rules - For Now"で、和訳では副題に回っています。本書では西洋がここ数世紀にわたって国際社会を支配している理由を、東洋文明圏と対比しながら迫っています。この手の歴史書を読むのは、国家や文明の栄枯盛衰をモデルとして学びとりたいからですが、その意味では十分に満足できる作品でした(そして後述するように、もっと満足できました)。

これから読まれる方に差しさわりのない内容を、今回は2か所ご紹介します。ひとつめは、チャーリー・マンガー的表現である「学際性」について触れた文章です。

大学教授というものは、管理的な役割には不平をこぼすのが常だが、1995年にスタンフォード大学に移ったとき、私はすぐに、委員会に属することは狭い学問領域の外で何が起きているかを知る絶好の機会だと気づいた。それ以来、大学の社会科学史研究所や考古学センターの運営に携わり、古典学部の部長、人文科学研究所の副所長を務めながら、大規模な発掘調査を行っている。おかげで遺伝学から文芸批評まであらゆる分野の専門家を出会うことができた。そのことが、なぜ西洋が世界を支配しているのかの解明に影響しているかもしれない。

私は、一つ、大きなことを学んだ。この問いに答えるには、歴史の断面に焦点を合わせる歴史家の力、遠い過去に対する考古学者の認識、社会科学者の比較研究の手法を組み合わせた幅広いアプローチが必要なのだ。それは様々な分野の専門家を集め、深い専門知識を活用することによって可能になる。シチリアで発掘を行ったときにまさに私がしたことだった。炭化した種子を分析するための植物学、動物の骨を特定するための動物学、収納壺の残滓を調べるための化学、地形の形成プロセスを再現するための地質学をはじめ、大勢の専門家の協力が欠かせなかったため、私はそういった分野の専門家を探し出した。発掘調査の監督は学問の世界の指揮者のようなもので、優れた演奏家を総動員する。

この方法は、発掘報告書の作成には有効だ。他者が使えるようなデータを蓄積することが目的だからだ。しかし、大きな問いに対する統一的な答えをまとめるには適していない。したがって本書では、集学的アプローチではなく、学際的アプローチを取る。専門家の一団を注意深く見守るのではなく、自分自身で様々な専門家の知見を集めて解釈する。

このアプローチには、分析が偏る、表面的になる、ありがちな間違いを犯すなど様々な危険が伴う。私は、中国文化をその道何十年という研究者ほどには理解できないし、遺伝学者のように進化についての最新情報に精通しているわけでもない。(サイエンス誌は平均13秒に一度ウェブサイトを更新しているらしい。この文章を書いている間にも遅れを取ってしまっただろう)。しかし一方で専門領域に留まり続ける者は、決して全体像を見ることができない。本書のような本を書く場合、学際的アプローチを用いて一人でまとめるのは最悪の方法かもしれないが、私には一番ましに思える。私が正しいかどうかは、読者の判断にゆだねるしかない。(上巻 p.31)


もうひとつは、広く適用できるモデル「後進性の優位」についてです。

5000年前、ポルトガル、スペイン、フランス、イギリスにあたる地域がヨーロッパ大陸から大西洋に突き出ていたことは、地理的には大きなマイナスだった。メソポタミアやエジプトでの日々の営みから遠く離れていたからだ。ところが500年前、社会は大きく発展し、地理の意味を変えた。かつては決して渡れなかった大洋を渡れる新しい種類の船の完成によって、大西洋に突き出た地形がにわかに大きなプラスになった。アメリカ大陸や中国、日本へと漕ぎ出したのは、エジプトやイラクの船ではなく、ポルトガル、スペイン、フランス、イギリスの船だった。海洋貿易で世界を結び始めたのは西ヨーロッパ人であり、西ヨーロッパの社会は急速に発展し、東地中海の旧コアを追い越した。

私は、このパターンを「後進性の優位」と呼ぶ。社会が発展し始めたときから存在するものだ。農村の都市化(西洋では紀元前4000年、東洋では紀元前2000年頃)に伴って、農業の発生を可能にした特定の土壌や気候へのアクセスは、農地の灌漑用水や交易ルートとして用いられる大河へのアクセスほど重要ではなくなった。その後も国家は拡大し続けたため、今度は大河へのアクセスが、鉄、長距離の交易ルート、マンパワーの源などへのアクセスほど重要ではなくなった。このように、社会発展に伴って必要なリソースも変化する。かつてはそれほど重視されなかった地域が、その後進性に優位を見出すこともある。

「後進性の優位」がどのように生じるのかをあらかじめ述べるのはむずかしい。後進性がどれも等しいわけではないからだ。400年前、多くのヨーロッパ人は、カリブ海の植民地には北アメリカの農地より明るい未来があると思ったようだ。今になってみれば、なぜハイチが西半球で最も貧しい地域となり、アメリカが最も豊かな地域となったのかがわかる。だが、こういった結果を予測するのはかなり困難だ。

それでも「後進性の優位」が明確に示しているのは、第一に、各コア内の最も先進的な地域は時とともに移動するということだ。西洋では、初期の農業時代には、ティグリス・ユーフラテス川流域の丘陵地帯が最も進んでいたが、やがて国家の出現に伴って南のメソポタミアやエジプトの川の流域へと移り、貿易が重要になり、帝国が拡大するにつれ、西部の地中海沿岸地域へと移った。一方東洋では、先進地域は黄河と長江に挟まれた地域から長江流域へ、さらには西の渭水や四川へと移っている。(上巻 p.42)


追記です。類書の『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド)は広く知られ、評判も高い本だと思います。しかし本書はそれと肩を並べるあるいは超えるほどの出来栄えだと、個人的には評価しています。それというのも、本書の構成(つまり著者のとったアプローチ)自体からも学べることがあるからです。それは、「骨太な構成が骨太な結論を導いている」という点です。結論のほうは深入りしませんが、構成のどこが骨太だと感じたのか、簡単に触れておきます。

本書では、著者が主張を展開する上で2つの軸を用意しています。ひとつめが、西洋と東洋の両文明圏の発展度合いを測る尺度として「社会発展指数」と称する指標を導入したことです。この指数によって、両文明の社会的状況や能力が歴史的にどのように上下するかを定量化し、その上で定性的な歴史的解釈によって肉付けしています。文明の度合いをどうやって測るのかは大きなテーマだとは思いますが、著者が選んだ評価項目はそれなりに納得できます。なお本文中では歴史的エピソードの記述がつづきますが、随所に逸話が盛り込まれ、飽きることなく読み進められました。

もうひとつが、西洋圏の範囲として狭義の欧米だけでなく、文明の曙である中東を含めたことです。つまりメソポタミアやエジプトも西洋の一部とみなした上で、東洋(中国、朝鮮、日本、東南アジア等)と比較しています。従来型の定義からは逸れますが、本書を通読してみれば、「西洋=ユーラシア大陸の西側」とした定義は妥当だと思います。

これらの本質的な軸を設けたことで、歴史的事実の細部に囚われることなく、大きな流れをとらえて歴史解釈を進める助けになっただろうと想像します。歴史という長い時間軸では、「精確にまちがえるよりも、おおよそ正しい」視点を持つことが重要だと思います。その意味で、著者のとったアプローチからは学ぶところが多いと感じました。

2014年7月12日土曜日

パクるときの注意(チャーリー・マンガー)

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1998年に行われたチャーリー・マンガーの講演「学際的能力の重要性」の5回目です。ここでも重要なことが語られています。前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

さて、4番目の疑問へと到達しました。「実現可能な範囲において、最適化された学際性の目指すところ」という観点から判断すると、我々が卒業した後に第一級のソフトサイエンス教育にはどれだけ修正が加えられてきたでしょうか。

望ましい学際性へ向けようと修正するために、さまざまな試みがなされてきました。そして非生産的な結果もある程度許容したことで、正味でみてかなり改善されました。しかし望ましい修正はまだまだ実現されておらず、これからも長い道のりが続きます。

たとえばソフトサイエンスの分野では、異なる分野の教授と共同で作業したり、教授らが複数の分野の資格を得るようになって、それらが有用なことにますます気づくようになりました。しかしもっともうまくいった修正とは、たいていはそれとは異なる種類のものでした。増強という名の、あるいは「欲するものを得る」を実行することだったのです。つまり他の分野から選んだものがなんであれ、そのまま吸収することをあらゆる学問分野に奨励する方法です。そのやりかたが一番うまくいった理由は、単一学問的な非合理を招いている伝統やなわばりが原因で生じる、学問上のささいな口論を避けているからだと思います。そういうことがあるから、修正する方策を探し求めているわけですね。

それはともかく、「欲するものを得る」やりかたが増えることで、ソフトサイエンスのさまざまな分野で「かなづちを持たぬ傾向」によって生じる愚かな行動が減少しました。たとえば我らがクラスメートのロジャー・フィッシャーが指導するロー・スクールでは、他の学問分野に接したことで交渉術を導入することになりました。賢明かつ倫理的な交渉を説いたロジャーの本は300万部以上売れ、我々のクラス全員の中では彼の果たした業績がおそらく最大だと思われます。それにとどまらず、そのロー・スクールでは良質で有用なさまざまな経済学も導入しました。優れたゲーム理論さえもいくらか取り入れています。それらは実際の競争がどのように起きているかをうまく説明しており、反トラスト法[独占禁止法]を説明する際に使われています。

経済学でも同様なことがみられます。こちらではある生物学者による「共有地の悲劇」モデルを採用し、正しくもそれによって不道徳なる「見えざる足」を見つけました。これは、アダム・スミスの示した天使のような「見えざる手」と共存するものです。今日に至っては「行動経済学」という分野まで登場しています。これは賢明にも心理学から助力を求めたものです。

しかしながら、「欲するものを得る」のように徹底して自由にやらせる方法をとっても、ソフトサイエンスの世界が完璧なる賞賛を受けられる結果にはなりませんでした。実際のところ、最低の結末をむかえた例では次のような変化を招いています。第一に、フロイト主義を吸収した文学系の学部があったこと。第二に、右派・左派問わず過激な政治的イデオロギーが多くの場所へ持ち込まれたために、そこの教授らが改めて目的を手にしたこと。それは純潔を取り戻すこととはまったくと言っていいほど違うものです。第三に、自称企業財務専門家から誤った指導を受けて、多数のロー・スクールやビジネス・スクールでハード・フォームの効率市場理論が取り込まれたこと。その中の一人は、バークシャー・ハサウェイが投資で成功したことを説明するのに、幸運面における標準偏差を増すことでしのいでいました。しかし標準偏差が6に至ったところで、その説明を撤回せざるを得ないほどの冷笑を受けました。

さらには、そのような愚行を避けたときでさえも、「欲するものを得る」ことには深刻な欠陥がありました。たとえば、より根本的な学問分野から借りてきたときに、その引用元を示していないことがよくみられました。新しい名前をつけているものもありました。つまり、吸収した概念がどれだけ根本的かという意味で位置づけられる順序には、ほとんど注意を向けませんでした。そのようなやりかたでは次のような事態を招きます。第一に、乱雑なままの文書管理体系のように働くことです。吸収した知識を使って総合しようとする際の支障となります。第二に、ライナス・ポーリングは化学の水準を向上させるために物理学を体系的に探索しましたが、ソフトサイエンスとしてそれに相当することが発揮できません。これはもっとうまくやれるはずです。

Which brings us to our fourth question: Judged with reference to an optimized feasible multidisciplinary goal, how much has elite soft-science education been corrected after we left?

The answer is that many things have been tried as corrections in the direction of better multidisciplinarity. And, after allowing for some counterproductive results, there has been some considerable improvement, net. But much desirable correction is still undone and lies far ahead.

For instance, soft-science academia has increasingly found it helpful when professors from different disciplines collaborate or when a professor has been credentialed in more than one discipline. But a different sort of correction has usually worked best, namely augmentation, or "take what you wish" practice that encourages any discipline to simply assimilate whatever it chooses from other disciplines. Perhaps it has worked best because it bypassed academic squabbles rooted in the tradition and territoriality that had caused the unidisciplinary folly for which correction was now sought.

In any event, through increased use of "take what you wish," many soft-science disciplines reduced folly from man-with-a-hammer tendency. For instance, led by our classmate Roger Fisher, the law schools brought in negotiation, drawing on other disciplines. Over three million copies of Roger's wise and ethical negotiation book have now been sold, and his life's achievement may well be the best, ever, from our whole class. The law schools also brought in a lot of sound and useful economics, even some good game theory to enlighten antitrust law by better explaining how competition really works.

Economics, in turn, took in from a biologist the "tragedy of the commons" model, thus correctly finding a wicked "invisible foot" in coexistence with Adam Smith's angelic "invisible hand." These days, there is even some "behavioral economics," wisely seeking aid from psychology.

However, an extremely permissive practice like "take what you wish" was not destined to have one-hundred-percent-admirable results in soft science. Indeed, in some of its worst outcomes, it helped changes like (1) assimilation of Freudianism in some literature departments; (2) importation into many places of extremist political ideologies of the left or right that had, for their possessors, made regain of objectivity almost as unlikely as regain of virginity; and (3) importation into many law and business schools of hard-form, effcient-market theory by misguided would-be experts in corporate finance, one of whom kept explaining Berkshire Hathaway's investing success by adding standard deviations of luck until, at six standard deviations, he encountered enough derision to force a change in explanation.

Moreover, even when it avoided such lunacies, "take what you wish" had some serious defects. For instance, takings from more fundamental disciplines were often done without attribution, sometimes under new names, with little attention given to rank in a fundamentalness order for absorbed concepts. Such practices (1) act like a lousy filing system that must impair successful use and synthesis of absorbed knowledge and (2) do not maximize in soft science the equivalent of Linus Pauling's systematic mining of physics to improve chemistry. There must be a better way.


備考です。文中に登場するロジャー・フィッシャーの著書は『ハーバード流交渉術』(原題: Getting To Yes)のはずです。わたしも10年以上前に読んだことがありますが、当時は日本語版の題名にあまり好印象を抱いておらず、腰が引けた姿勢で読んでしまいました。しかし内容は王道と言えるもので、厳しい交渉の場で闘っている方は本書のことはご存知でしょうし、これからそのような立場につく方にはお勧めできる本です。

2014年6月18日水曜日

『復活を使命にした経営者』、芳井順一会長によるツムラ再生の物語

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今年に入ってからツムラ(4540)に興味を持ち始めました(株式も少し買いました)。業績の見通しが停滞気味のせいか、株価は低迷しています。その当社を知る一環として読んだのが、今回ご紹介する本『復活を使命にした経営者』です。

書店で目立ちそうのない地味な装丁の本書は、内容も地味だろうと思われるかもしれません。1990年代に入って低迷し始めた漢方薬メーカーのツムラが薄暗い10年間をくぐり抜けてここまで復活するに至った経緯を、ある人物のエピソードを中心に描いた話です。その人物が、当社の会長である芳井順一氏です。

しかし内容のほうは地味どころか、個人的には全編響くものばかりでした。芳井氏は、まぎれもなく名経営者とお呼びするのがふさわしい方だと思います。芳井氏は当初、第一製薬の営業部門に所属していました。しかしツムラ危機に際して創業者一族の風間八左衛門氏(第一製薬の当時の常務)が里帰りすることになり、風間氏に請われて芳井氏も当社に移ります。そして子会社の整理、人員削減、営業部門の立て直し、事業戦略の転換・改革・発展と、激動の20年間弱にわたって当社の経営に携わってきました。本書に登場するそれらのエピソードは悩んで考えて決断した日々を素直に記したもので、空々しく感じられるところがありません。

しかし芳井氏のすばらしい点をあえて3つだけ選べば、「戦略のしぼりこみと実行、人の心理に通じた交渉力、道義心」になると思います。仕事をこなしている中で、これらの点で悩んだりヒントを得たいと考えている方には、きっとお勧めできる一冊です。

これから本書を通読したい方には申し訳ありませんが、以下に本文から2か所だけ引用します。ご了承ください。

ひとつめは、芳井氏が第一製薬時代に営業担当として活躍した頃の話です。

私が転勤をして、初めて回った病院の医局に、『製薬メーカーMR[営業担当]の5時以降の医局への立ち入りを禁ず 院長』という貼り紙がしてありました。5時までは医局に、MRがたくさんいるのですが、ほとんどのMRは医局の隅に立ったままで医師と話をしないので、『壁の花』と呼ばれていました。

こんなことを繰り返していても埒が明かないと思い、私はその貼り紙に気が付かないふりをして、夕方5時過ぎに宿直の先生のところに行きました。先生方が戻ってこられたときに先生方の机の上にある食事を見て、『先生、これ患者さんと同じ病院食ですか』と声を掛けました。『よろしければ、この病院の前の寿司屋から、出前させましょうか』って申し上げたんです。

すると、あんた誰よ、ってことになりますよね。そこで初めて名刺を出して『実は私、担当したばっかりなんです』と自己紹介するわけです。

そこで寿司屋に電話をして寿司を持ってきてもらい、そこで医局の先生方と夜中2時、3時まで話し込むんです。『こんなにうまいものが食べられるんだったら、毎日おいでよ』という言葉がかかり、『ところで先生、今気が付いたのですが、メーカーは5時以降は訪問禁止なんですか?』って言ったら、『あれは院長だけが言っていることだから、誰も気にしていないよ。芳井君、毎日おいでよ』と言われました。

だいたい宿直の先生方が5人ぐらいいますから、毎晩それをやると、1週間で30数名。その病院の医局にいらっしゃる先生全員と会うことができ、1週間で一気に親しくなります。親しくなったら、そんなことをする必要はありません。今度は昼間に行って、先生と直接お会いして話をする。パンフレットを出して、こんなのもありますよ、とお声掛けをする。そうすれば話を聞いてくれます。そういう繰り返しでした。

当時は、明け方の3時とか4時頃に医局を出て営業車で帰宅していたのですが、辛かったというと逆でした。『日本全国のMRの中で、今ハンドルを握っているのは自分だけだろう。明日もやってみよう』という充実感がありました。これで来週からすごいものにつながっていくという喜びのほうが大きかったですね。(p.124)


もうひとつは、経営者として戦略を具体化する際の考え方についてです。

こうした芳井のビジョンは、すべてが具体的だ。聞こえのいい文言が並ぶ空疎なものではなく、そこには人を動かす力強さが秘められている。こうしたビジョンを芳井は、いつどのようにして描いていくのだろうか。

「私は物事を考えるとき、会社のことなら、10年、20年先のツムラをイメージします。そして、そこに向かって一つひとつ、会社全体のことを、どこがどうあるべきか考えます。

そして、それをもう少しショートタームで考えるのが3カ年計画です。3年先にこうありたい、と思ったら今度は3年先にそこに行くためには1年後にどうなっていないと、そこに行きつけないのかイメージします。1年先をイメージしたら、そこに到達するまでの自らの行動や組織の行動にデザインを加えていきます」

長期的なビジョンを描き、そこから逆算して行動に落とし込む。それだけなら目標達成の方法としては王道だ。しかし、芳井の場合、その方法にも独自の工夫がある。実際に手を動かすのである。

「そのために1か月後にはどのくらい進んでないといけないのかを考え、頭の中でイメージします。私は、休みの日には自分の部屋で、A4のコピー用紙を4枚並べて、そこに絵を描きます。頭の中だけで考えると、どうしても堂々巡りになってしまいます。

絵にすると具体的な考えが次々に浮かんできます。会社の将来の絵を描く。それに対して、今、妨げになっているものは何か考え、この妨げているものを取り除いていけば必ずイメージに近づいていけます。それに拍車をかけるためにはどういうことをやったほうが勢いが出るのか、それを絵に描きながら考えるのです」(p.257)


ツムラに興味を持たなかったら(たとえば株価がずっと割高だったら)、本書を手に取ることはなかったと思います。本書を通して芳井会長のことを知ることができたのは、わたしにとっては幸運でした。しかし芳井氏はあと数日で取締役会長を退任し、相談役に就任される予定です。ツムラにとっては新たな試練が始まります。

2014年4月28日月曜日

ジャック・ウェルチはダンスを踊るか(チャーリー・マンガー)

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チャーリー・マンガーの(再考)世知入門、20回目です。今回は耳の痛い話です。しかし見識ある人が率先してこのような発言をしているわけですから、次の世代の人間としてすなおに見習うべきと受けとめています。前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

<質問者> コカ・コーラ社の失策を話題にしていましたが、それではアップル社がやったまちがいについて何かご意見はありますか。

<マンガー> まさにちょうどぴったりの答えをしましょう。GE社のCEOであるジャック・ウェルチを真似たものです。工学の博士号をとった彼は実業家としても第一人者であり、そして非常に優れた男です。その彼がつい最近、ウォーレンの同席している場でこんな質問を受けました。「ジャック、アップルはなにをまちがったのでしょうか」。

彼がどう答えたかって? 「その問いに答えられるほどの特有な能力は、私にはまるでないですね」。まさしくそれと同じように答えましょう。私にとってその領域は、何か特別な洞察を提供できるところではありません。

その一方、ジャック・ウェルチを真似する中で大事なことを伝えようとしているつもりです。つまり、「自分の知らないことだったり、特有の能力がないときには、躊躇せずにそう言うこと」です。

昆虫のハナバチの生態にみられる例と似たことをする種類の人がいます。ハナバチは花の蜜をみつけると巣へ戻ってダンスを舞い、蜜のありかの方位と距離を仲間に教えます。遺伝子に刻まれたものがそうさせるのですね。40年か50年ほど前に、ある頭のいい科学者が花の蜜を外側へ引き出したらどうなるか試してみました。ハナバチの通常の生活では、そのように蜜が外に飛び出していることはありません。さて、あるハチが蜜をみつけて巣へ戻りました。しかし蜜が飛び出していることを伝えるダンスのやりかたは、遺伝子には組み込まれていません。それではどうしたと思いますか。

ジャック・ウェルチのようなハチであれば、黙ってじっとしていたでしょう。しかしそのハチが実際にやったのは一貫性のないダンスで、わけのわからないものでした。人間にもそのハチのような人がたくさんいます。質問されたときに、そうやって答えようとするわけです。これはとんでもないまちがいです。「どんなことでも全部知っていますよね」などとは、誰も期待していないのですから。

実際のことはまるで知らないのに、質問に対していつも自信満々に答える。そんな人がいれば追い出すようにしています。私からすれば、ハチが一貫性のないダンスをするのと同然です。まさに巣全体を混乱させるだけです。

Q: You discussed Coke's mistake. Do you have any thoughts about where Apple went wrong?

Let me give you a very good answer - one I'm copying from Jack Welch, the CEO of General Electric. He has a Ph.D. in engineering. He's a star businessman. He's a marvelous guy. And recently, in Warren's presence, someone asked him, "Jack, what did Apple do wrong?"

His answer? "I don't have any special competence that would enable me to answer that question." And I'll give you the very same answer. That's not a field in which I'm capable of giving you any special insight.

On the other hand, in copying Jack Welch, I am trying to teach you something. When you don't know and you don't have any special competence, don't be afraid to say so.

There's another type of person I compare to an example from biology: When a bee finds nectar, it comes back and does a little dance that tells the rest of the hive, as a matter of genetic programming, which direction to go and how far. So about forty or fifty years ago, some clever scientist stuck the nectar straight up. Well, the nectar's never straight up in the ordinary life of a bee. The nectar's out. So the bee finds the nectar and returns to the hive. But it doesn't have the genetic programming to do a dance that says straight up. So what does it do?

Well, if it were like Jack Welch, it would just sit there. But what it actually does is to dance this incoherent dance that gums things up. And a lot of people are like that bee. They attempt to answer a question like that. And that is a huge mistake. Nobody expects you to know everything about everything.

I try to get rid of people who always confidently answer questions about which they don't have any real knowledge. To me, they're like the bee dancing its incoherent dance. They're just screwing up the hive.


備考です。今年の初めに『ミツバチの会議: なぜ常に最良の意思決定ができるのか』という本を読みました。意思決定の方法を参考にする目的で手に取ったのですが、フィールドワークを楽しむ著者の想いがじんわり伝わってくる作品で、個人的にはとても楽しんで読めました。本ブログで引用してしまうと主題の種明かしになるので取りあげませんでしたが、生物界から学ぶことを好む方にはお勧めできる本です。もちろんダンスの話題も満載です。

2014年3月26日水曜日

これから坂を下る人(『シグナル&ノイズ』)

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読むのを楽しみにしていた本『シグナル&ノイズ』を読了しました。期待にたがわず、十分楽しめ、そして学ぶものがありました。本書では将来予測に関する世の中のさまざまな課題を取りあげています。過去の投稿で『異端の統計学 ベイズ』をご紹介した流れで本書のことに触れましたが、この本でもベイズ統計学的なアプローチや不確実性が重視されています。著者ネイト・シルバー氏が携わる本業や経験したことに関する話題は読ませる文章で、自然と引き込まれました。しかしそれにとどまらず、全般的に文章の構成・展開がこなれており、最後まで読み手を引っぱってくれる本だと思います。お勧めできる本です。

今回ご紹介するのは同書からの引用で、「結果とプロセス」の話題です。この話題は少し前に取り上げています(マイケル・モーブッサンの回)。

私たちアメリカ人は、結果が重視される社会に生きている。金持ちや有名人、あるいは美しい人を見ると、その人たちがそうなるのにふさわしい人だと考える傾向がある。こうした考え方は、自らを取り巻く状況をさらに強める性質をもっている。金を儲ける人はさらに儲ける機会を生み出し、有名人はさらに名声を高める方法を手にし、美の基準はハリウッドスターの容貌を変えるかもしれない。

別に政治的な意図はないし、富の再分配について議論するつもりもない。しかし、経験的に言って、成功というのは、ハードワーク、才能、そして機会と環境の組み合わせで決まる。ノイズとシグナルの組み合わせと言っていいかもしれない。私たちはたいていシグナルの要素を重視するが、うまくいかないときには運のせいにする傾向がある。世の中では、家の大きさが成功の大きさを意味し、そこにたどり着くまでに乗り越えてきたハードルについては誰も深く考えない。

予測に関して言えば、とにかく結果が重視される。株式相場の底を言い当てた投資家は天才扱いだ(欠陥だらけの統計モデルがたまたま当てたとしても)。ワールドシリーズで優勝したチームのゼネラル・マネージャーは、なにはともあれ、ほかのチームのゼネラル・マネージャーより優秀だとみなされる。そこに至るプロセスなど問題にされない。これはポーカーにも当てはまる。クリス・マネーメーカーも「幸運のカードをつかんだ素人ギャンブラー」という宣伝文句だったら、これほど話題になることはなかっただろう。

ときとして私たちは、運というものを予測が外れたことの言い訳に使おうとする。金融危機が表面化した際の格付会社のように。けれども、予測が外れた本当の理由は、現実に存在する以上のシグナルをキャッチしようとしたことにある。

この問題を解決する1つの方法は、もっと厳しく予測を評価することだ。結果を評価することで、安定的に正しく予測できるようになる分野もあるだろう。もう1つは、結果ではなくプロセスを重視する方法だ。データにノイズが非常に多いときにはこの方法しかないだろう。ノイズが多すぎて、どの予測が正しいのかわからないときは、予測者の姿勢や適性に注目しよう。それらは予測の結果と相関があるはずだ(ある意味、私たちは予測者がどのくらい正確な予測をするかを予測していると言える)。

ポーカーのプレーヤーは、こういうことを普通の人よりよく理解している。理屈抜きの浮き沈みを体験しているからだ。ドワンのように高い賭け金でプレーする人は、株の投資家が一生をかけて経験するような変動を1ゲームで経験することもある。いいプレーをして勝つ。いいプレーをして負ける。まずいプレーをして負ける。まずいプレーをして勝つ。ポーカーのプレーヤーなら誰でも、これらの状況を何度も経験するので、プロセスと結果は違うものだらけだということがわかっている。

一流のプレーヤーと話せばわかるが、彼らは自分の成功を当然のこととは思っていない。常に自分を改善しようとしている。ドワンは言った。「もう十分に上達した、ポーカーはわかった、と言う人はこれから坂を下る人だ」(p.360)


もうひとつ、おまけです。この手の文章は時折目にしますが、仮に半分割り引いたとしても、個別銘柄をさがす個人投資家にとっては大いなる福音だと感じています。

ブロジェット[元アナリストで、現在はBusiness Insiderを主宰]はこう語ってくれた。「トレーダーやファンド・マネージャーと話してみればわかると思うが、彼らは翌週か翌月、あるいは四半期先くらいのことしか考えていない。長期的な視点なんてものはない。ライバルと比較して、自分のパフォーマンスはどうか、という視点しかない。90日間で成果を出さなければ、クライアントは自分を切る。メディアにもこきおろされ、恥ずかしい思いをして、成績が地の底まで落ちる。こんな状況でファンダメンタルズなんて何の役にも立たないよ」(p.390)

2014年3月2日日曜日

わかりやすい解法が見つかりました(ベノワ・マンデルブロ)

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複雑なものごとを分析する方法として、本ブログではチャーリー・マンガーのやりかたを繰り返し取り上げています。要約すると「学術界などから借りてきた種々のモデルを使って事象を説明できるか試し、よりよい説明モデル群を見いだす」とするものです。モデル化できるということは、行く末をある程度は予想できることにつながります。あらゆるものが容易にモデル化できるわけではないと思いますが、チャーリーは「徐々にものごとがうまくつながって認識できるようになる」と説明しています。

今回ご紹介するのは、少し前に取り上げた数学者マンデルブロの自伝『フラクタリスト―マンデルブロ自伝―』からの引用です。彼が大学に入学する前に体得した天才的なモデル化の話です。

数学教授のコワサール先生は、このころリセ・デュ・パルクに着任したばかりだったが、それから長いあいだここで立派な教員生活を送ることになる。トープの教授というエリート集団の中でも、コワサール先生は抜きん出ていた。毎日、1日の半分ほどを私はコワサール先生とともに過ごした。先生は黒板の前に立ち、やたらと長い問題を書いた。それは先生が過去何世代もの教師たちの経験を踏まえて、ばかばかしいほど複雑な計算が必要となるようにわざと作成したものだった。問題はいつも代数的または解析幾何学的に記述されていた。

私の中で、同じ問題を幾何学的に言い換える声が聞こえた。テュールにいたあいだずっと、私は時代遅れの数学の教科書を使って勉強していた。1930年代の教科書と比べて、あるいは今日の教科書と比べても、図版がはるかにたくさん載っていて、説明が充実し、やる気をかき立てる内容となっていた。そんな教科書で数学を勉強した私は、何世紀にもわたってきわめて特殊な図形が幅広く集められた一大図形"動物園"を知悉(ちしつ)するに至っていた。だからたとえ解析的な装いをまとっていても、そしてそれが私にとって"見知らぬ"装いであり、図形の基本的な性質とは無縁のように見えても、私はいろいろな図形をすぐさまそこに見出すことができた。

私はいつも最初にさっと図を描いた。そうするとすぐに、なにかが欠けていて美的に不完全だと感じられた。たとえば単純な射影変換や、何らかの円に関する反転操作を加えるとよくなったりした。この種の変換を何回かおこなうと、たいていの図形はもっと調和のとれたものになった。古代ギリシャ人ならこの新しい図形は「対称性が高い」と言っただろう。まもなく対称性を探して調べることが、私の勉強の中心となった。この愉快な作業は、とんでもなく難しい問題を単純な問題に変えた。必要な代数はあとで必ず補える。どうしようもなく複雑な積分の問題も、見慣れた図形に"還元"すれば簡単に解ける。私は手を挙げて自分の発見を発表したものだ。「先生、幾何学的なわかりやすい解法が見つかりました」。先生がどれほど難解な問題を考えても、私はたちまち解いてしまった。それからは、特に意識的に追い求めたわけでもないのに、即座に難なく、いかなる難問もクリアしてしまう一本の道が、私の前には開きつづけたのだった。1944年にリヨンで過ごした冬のあいだ、学期が進むにつれて、私の特異な才能は強固で信頼できるものであることが明らかになっていった。(p.133)


本ブログでメンタル・モデルに関する話題をはじめて読まれる方は、たとえば以下の過去記事がご参考になるかと思います。いずれもチャーリー・マンガーの講話の一部です。

2014年2月10日月曜日

公園のながめをあきらめきれない(ベノワ・マンデルブロ)

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少し前に『フラクタリスト―マンデルブロ自伝―』を読みました。マンデルブロと言えば異様な図形「マンデルブロ集合」が有名ですが、金融の世界でもファット・テールを指摘するなど、重要な成果を残しています。


科学者の伝記を読む理由はいつも同じで、偉大な業績を成した人物はどのように考えてどのように判断するのか参考にしたいからです。しかし本書ではその種の話題はあまり登場せず、第二次世界大戦期だった若者時代の逃避行や、独自の学者経歴を歩んでいく顛末・心境を中心につづられていました。その意味では当初のねらいに即した本ではなかったのですが、個人的に興味を持っている主題「逃げる」ことが少なからず描かれており、逆にそちらの話に引きこまれました。翻訳者の影響なのかもしれませんが、著者の文体は抑制が効いていて浮わついたところが少ないように感じられ、全般的に共感できる文章でした。今回はその「逃げる」ことについて本書から引用します。

最初の引用はナチス・ドイツがポーランドに侵攻する前のことで、マンデルブロの一家がワルシャワからパリへ逃げる話です。
二度と帰らない覚悟でこの地を離れるべきか? 私の年齢を考えると、タイミングは完璧だった。その一方で、パリに行った場合には父の身分がどうなるかわからず、母は仕事をやめて収入も手放さなくてはならないとすれば、ひどくまずいタイミングでもあった。しかしミルカの一件で迷いが消えた。ポーランドは両親が息子たちのために望む国ではなかったのだ。決断が下された。(中略)

両親の恐れていたあらゆることがポーランドで忌まわしい現実となる前に、二人の大胆な計画が功を奏した。私たちは南フランスへ行って土地の人のようなふるまいや話し方をして、その地でたくさんの誠実な友人を得た。(中略)

知り合いの中で、フランスへ移って生き延びることができたのは私たちだけだった。たいていの人は、ぐずぐずしているうちに状況がひどく悪化してしまった。ワルシャワ時代の知人で生き残ったのは二人だけだ。私たちの上の階に住んでいたプラウデ夫人は夫を亡くしたが、戦争が終わってから私と同い年の娘を連れてパリへやって来た。そして私の母に連絡をとり、友だち付き合いを再開した。ほかの人たちは貴重な陶磁器を手放せなかったり、べーゼンドルファーのコンサートグランドピアノが売却できなかったり、あるいは窓から見える公園の眺めをあきらめられなかったりして、動きがとれなかったらしい。母はそんな話にぞっとしながらも、感情を隠したまま耳を傾けていた。(p.79)

つぎはドイツ占領下のフランスで起きた彼の父親の話です。
フランスがドイツに占領されていたころのことだが、父の賢さと独立心と勇気を物語るエピソードがある。父は最終的な死の収容所へ連行される前の一時収容所に入れられていた。ある日、フランスのレジスタンス部隊が突入して警備兵を制圧した。ゲートを開放することはできるが収容所を防護することはできないと叫んだかと思うと、みんな逃げろと言って立ち去った。父は最寄りの町を目指して歩く収容者たちの長い列に加わったが、不吉な気配を察してわき道に入った。するとおののく父の目の前で、警備兵から連絡を受けたナチス武装親衛隊のシュトゥーカ爆撃機が、収容者たちを地上掃射した。父は家に帰り着くまでずっと細い道を選び、寝るときは人気のない小屋を見つけた。父以外で戦争を生き延びた人たちも、死の収容所へ向かう集団にいて逃げ道に気づいたら、即座にそこへ飛び込んだと言っている。父はまさにそういう人間だった。(p.42)

最後の話は、パリからフランスの中部へさらに避難したころの生活の様子です。
川を下った兵器工場のそばの平らな土地に小さなアパートがあり、その最上階に格安の貸間が見つかった。避難民支援の一環として、基本的な家具類は支給された。レオンと私は狭苦しい台所兼食堂で寝た。暖房用のストーブで料理もした。両親の部屋も暖まるようにと境のドアを開け放っても、漆喰と麦わらの混ざった三方の壁が丘陵地の外気に触れているので、部屋は冷えきってしまう。冬場には室内につららができた。一階にトルコ式トイレが一つあり、玄関には冷水しか出ない蛇口があった。言うまでもないが、浴室はなかった。(中略)

父はいつもメモをとりながら熱心に本を読んでいた。次にどんな運命が降りかかるかわからないということを忘れず、ぼろぼろの古い本で英語の書き方を勉強していた(「備えあれば憂いなし、だからな」)。何年もあとで私が見つけた革製のブリーフケースの中に、父の膨大な学習帳のうち数冊が奇跡的に残っていた。(p.110)

蛇足ですが、我が家では暖房を入れていないので、今年は寒い思いをしています。板張りの部屋の窓際に敷いた布団に入りこんだときには、マンデルブロのつららを思い返しています。