ot
ラベル 科学者のやり方 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 科学者のやり方 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年9月6日金曜日

私たちはいつも幻覚を見ている(神経科学者V・S・ラマチャンドラン)

0 件のコメント:
前回引用した『脳のなかの天使』から、もう一度ご紹介します。今回は視覚の話題です。ものを見たときに人間がどのように認知するのか、著者が考察を加えています。

おもにコンピュータ科学者によって持続されている素朴な視覚のとらえかたでは、視覚は逐次的、階層的に像を処理しているとみなされている。生のデータが画素、すなわちピクセルとして網膜に入り、そこから次々と各視覚野に、バケツリレーのように渡されて、しだいに高度な分析がそれぞれの段階でおこなわれ、最終的な物体の認知にいたるという考えかたである。この視覚モデルでは、各段階の視覚野からそれより下位の視覚野に戻される大量のフィードバック投射が無視されている。そうした逆投射はきわめて大量なので、階層という言いかたには語弊がある。私の直観するところでは、各処理段階において、入力データについての部分的な仮説、もしくは最適の推量が生みだされ、それが下位の領野に戻されて、その後の処理に小さなバイアスがかけられる。いくつかの最適推量が優位を争う場合もあるだろうが、最後には、そうしたブートストラッピングもしくは逐次代入を通して、最終的な知覚の解決がつく。あたかも視覚は、ボトムアップではなく、むしろトップダウンではたらいているかのようだ。

実を言うと、知覚と幻覚との境界は、私たちが考えるほど明瞭ではない。ある意味で私たちは、世界を見るときいつも幻覚を見ている。知覚とは、しばしば断片的かつ短命な入力データにもっともよくあう幻覚を選ぶ行為であるとみなしても、ほとんどさしつかえがないくらいだ。幻覚とほんものの知覚は、同じ一連のプロセスから生じる。決定的にちがうのは、何かを知覚しているときは、外界の事物の安定性がその固定を助けるという点である。幻覚を起こしているとき、たとえば夢うつつの状態にあるときや、感覚遮断タンクのなかで浮かんでいるときには、事物はどんな方向にでもさまよう。(p.323)


最初の赤字強調部分で示唆されている内容は重要なことだと思います。階層的に認知上のバイアスがかかるというのは、別な表現をすれば「違う種類の落とし穴がならんで待ち受けている」ということです。これに対するチャーリー・マンガーやウォーレン・バフェットの解決策は、やはり見事です。たとえば意思決定上のフィルターを階層的に設けたり(過去記事1過去記事2)、学問上の知恵を借りるときは普遍的で信頼性の高いものから特殊なものへ進むように説いています(過去記事など)。

もうひとつ、こちらの引用はおまけです。

しかしながら、近年の調査によると、天使を見たことがあると回答している人の割合は、アメリカ人全体のおよそ3分の1で、その頻度はエルヴィス目撃談をうわまわる。(p.281)

2013年9月4日水曜日

脳のなかの近道(神経科学者V・S・ラマチャンドラン)

0 件のコメント:
心理学者ダニエル・カーネマンが著書『ファスト&スロー』で、人間が持つ2つの思考機能について説明していることを、以前の投稿でとりあげました。その主張を解剖学的な観点から説明する文章をみかけましたので、ご紹介します。最近読んだ本『脳のなかの天使』からの引用です。おそらくカーネマンも、そのような知見を参考に持論を展開したと思われます。

上の2つの本における用語の対応関係ですが、以下の文章に登場する「経路1」と「経路2」が「スロー」な思考に、そして「経路3」が「ファスト」に対応しています。

経路1と経路2に加えて、もう一つ、対象物に対する情報的反応に関与する、より反射的な別の経路もあるらしい。私はそれを経路3と呼んでいる。経路1と2が「いかに(How)」と「何(What)」の流れだとすれば、経路3は「それで(So What)」の流れと考えることができる。この経路では、目、食べ物、顔の表情、生命のある動き(たとえばだれかの歩きぶりや身ぶり)といった生物学的に突出性のある刺激が、紡錘状回から側頭葉の上側頭溝(STS)と呼ばれる領域に向かい、そこを通って扁桃体に直行する。言いかえれば経路3は、高次の対象認知(と経路2を通して呼び起こされる関連のさまざまなものごと)をバイパスして近道をとり、情動の中核をなす辺縁系への入り口である扁桃体に、すみやかに到達する。この近道はおそらく、生得的であるか後天的に学習されたものであるかにかかわらず、重要度の高い状況に対するすばやい反応を促進するために進化したものと思われる。

扁桃体は過去に貯蔵された記憶や辺縁系のほかの構造体と協同して、あなたが見ているものの情動的な意味や重要性を評価する。それは友だちか、敵か、配偶相手か? 食べ物か、水か、危険か? それともどうということのないものか? もしそれが重要ではないものだったら--ただの丸太や、糸くずや、風に鳴っている木だったら--あなたはそれに対して何も感じず、おそらくそれを無視するだろう。しかしそれが重要なものだったら、ただちに何かを感じる。そしてそれが強い感情だったら、扁桃体から出る信号が視床下部にも流れこむ。視床下部はホルモンの放出を調整しているほかに、自律神経系を活性化させて、摂食、闘争、逃走、求愛など、状況に応じた適切な行動をするための準備態勢をとらせる。そうした自立反応には、心拍数の増加、浅く速い呼吸、発汗など、強い情動をあらわすさまざまな生理的徴候がともなう。人間の場合は扁桃体が前頭葉とも結びついており、それが基本的な情動の混合に微妙な趣(おもむき)を加味するので、単なる怒りや欲望や恐怖だけではなく、傲慢、プライド、警戒、あこがれ、闊達さなども生じる。(p.100)


本ブログではこの種の話題をたびたびとりあげていますが、個人的には「人間はまちがえるようにできている」と考えるようになりました。これは、「人間が進化的にあやまった種だ」という意味ではなく、「現代の特定の局面では、人間の持つ機能はあやまちを導きやすい」という意味です。チャーリー・マンガーはその宿命を回避する鍵を示しているようにみえます。たとえばウォーレン・バフェットとコンビを組むことで意思決定のあやまちを減らしたり、物事を探求するお手本としてチャールズ・ダーウィンのやりかたを説きつづけています(過去記事の例)。

なお脳神経からとらえた投資の本としては、ジェイソン・ツヴァイクが書いた『あなたのお金と投資脳の秘密』を以前にご紹介しました(過去記事)。今となってはよく知られている話題も少なくないですが、総じておもしろく読めた一冊でした。

2013年8月8日木曜日

たったこれだけ(物理学者西成活裕)

0 件のコメント:
チャーリー・マンガーの「砂金掘り」に関連する話題で、先日読んだ本に興味をひいた箇所がひとつあったので、引用してご紹介します。本の題名は『とんでもなく面白い 仕事に役立つ数学』です。

もう一つ、数理科学的アプローチに欠かせない考え方があります。それは、「勇気を持って単純化できるかどうか」。これもまた、学会で言い争いになった例をお話ししましょう。

テーマは血管の成長。ある研究者は、数理科学的アプローチを用いて、「よく使われる部分の血管は太くなる」と仮定してモデル化をしました。よく使われる部分は流れが多いだろうから太くなるだろう。たったこれだけ。ものすごく単純です。

ここでもYesと言う人とNoと言う人がいました。「きっとそうだ。検証してみよう」という肯定派と、「血管が成長するメカニズムはものすごく複雑だ。そんな単純なわけがない」という否定派です。後者は、単純化に対して、ものすごく抵抗がある人たち。だから、いろんな反応機構をスーパーコンピュータに入れてガーッと計算して…とやりたがるわけです。

現実は複雑。確かにその通りです。(数理科学的アプローチを採用する)こっちだって、そんなことは百も承知です。でも、そう言っていては、一生かかっても実社会の仕組みを解明することができません。頭の柔軟性を残すこと。これがとても大切なんです。

ちなみにこの数年後、その単純化をした研究者が正しかったことが卵細胞の血管ネットワークの研究で証明されたそうです。(p.22)

2013年7月25日木曜日

大学総長も二度びっくり(リチャード・ファインマン)

0 件のコメント:
以前の投稿「砂金掘りはお断り(チャーリー・マンガー)」で、次のような言葉がありました。「精神的な技を巧みに使って問題をつつき回せば、砂金掘りとは無縁で人生やっていける」。この主題は今後もずっととりあげていくつもりですが、今回は物理学者リチャード・ファインマンの逸話を紹介します。引用元の本は『ファインマンさんの愉快な人生(2)』です。チャーリーが指摘したものからは外れていますが、ものごとの捉え方という意味では通じるところがあると思います。

1958年、スプートニク以来あわただしく4か月がすぎたころ、アメリカは一連のエクスプローラー衛星の第1号を、フロリダ州ケープカナベラルから軌道上に打ちあげ、ついに宇宙開発競争に参加した。1月31日、4段式ジュピターC型ロケットによって空高く打ちあげられたエクスプローラー1号は、一泊旅行のカバンぐらいの重さである。このジュピター・ロケットは、打ち上げのたびに爆発する海軍のバンガード・ロケットより信頼度が高い。とにかくこうして軌道に乗せられた衛星は、スプートニクのと同じような電波信号を送ってきはじめた。

それから5週間後、今度は宇宙線検出器を載せたため、全重量が32ポンドになったエクスプローラー2号は、天空に打ち上げられて雲の中に姿を消した。ナチのペーネミュンデ・ロケット計画の生き残りで、いたって立ち直りの早いヴェルンハー・フォン・ブラウン[原文ママ]の指導のもと、陸軍の一チームがその行方を追い、次第に遠ざかっていくロケットの唸りと、インターホンを通して聞こえてくる電波信号音に耳を傾けた。すべてが順調と思われ、打ち上げから半時間のちには、彼らは自信たっぷりの説明会を開いている。

一方大陸の反対側では、陸軍ロケット研究の主な協力機関であるパサディナのJPL(ジェット推進研究所)で、エンジニアたちの一団が衛星追跡に苦労していた。使っているのは一部屋ほどの大きさのIBM704ディジタル・コンピュータだが、これがまたなかなか気むずかしい機械である。彼らは陸軍のロケットが投げ上げた金属のカンカラのような衛星追跡のため、飛行進行線内の速度が変わるにしたがって、ドップラー効果的に変わっていく電波信号の周波数、ケープカナベラルの観測者の目から消え去った時刻や、他の追跡ステーションの観測値など、原始的なぐらい数少ないデータを打ちこんだ。JPLチームはコンピュータ入力のときのほんの小さなちがいでも、出力に大きな変化をきたすことに気がついていた。若い研究室長アルバート・ヒッブスは、キャルテク[カリフォルニア工科大学]時代彼の卒業論文の顧問だったファインマンに、そのことをボヤいた。

するとファインマンは、同じデータを同じ速度で受けとれたら、コンピュータなんぞ負かしてやるぞ、と請けあったのである。そこで午後1時28分、エクスプローラー2号が発射台を離れるや、彼はJPLの会議室に腰を据え、コンピュータ入力のため手早くデータを選り分けているエンジニアたちに取り囲まれて、計算をはじめた。そのときそこに入ってきたキャルテク総長リー・デュブリッジは、ファインマンを見つけてびっくり仰天、ファインマンに「いま忙しいんだ。あっちに行っててくれ!」と怒鳴られて、二度びっくりしている。30分たつとファインマンは立ち上がって、計算がすんだと言った。彼の計算でいくと、ロケットは大西洋に墜落したことになる。彼はコンピュータから何とかはっきり答えを出させようと懸命のエンジニアたちを尻目に、さっさと週末旅行でラスベガスへ出かけてしまった。その間アンティグアとカリフォルニアのインヨカーンにある追跡ステーションは、たしかに背後の雑音を通して、軌道をまわる衛星の音が聞こえたと無理やり思いこみ、またフロリダの「目測」チームは、その夜一晩中まんじりともせず空を眺めていたという。ところがファインマンは正しかったのだ。陸軍は翌日午後5時になって、やっとのことでエクスプローラー2号は、軌道に達し得なかったと発表したのである。(p.366)


ファインマンのやりかたといえば、こちらの過去記事も見事なものでした。
自分のやりかたで解く(リチャード・ファインマン)

2013年6月12日水曜日

ニュートンは猫を飼っておった(物理学者 湯川秀樹)

0 件のコメント:
少し前に読んだ本『「湯川秀樹 物理講義」を読む』は、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹さんがおこなった3日間の特別講義を文字に起こしたものです。今回は印象に残った話題、既成の学問からなにかを学ぶときのもうひとつの視点、についてご紹介します。

しかし、うしろのほうを振り返ってみますと、そこに長い歴史というものがあります。この歴史というものは、すでに決まったものとして、誰がどうして、どういう理論が出来てきたかを学校で習う。そういう見方をしますと、それは皆決まっている、皆教科書に書いてあるじゃないかということになる。どの教科書を見まわしても、ちょっと表現の仕方が違っているだけで、本質的には何も違わんじゃないかということになる。早い話が、私たちも皆さんも、物理を勉強する手始めはニュートン力学であったわけです。その点、昔も今も変わらないですね。これは18世紀のいつごろからか、今日まであまり変わっていないだろうと思います。

そういうふうに見ますと、別に出発点は変わりないし、それから先もいろんな学問はちゃんと生きておりまして、なんとか学、なんとか学となっております。熱力学があったり、統計力学があったり、あるいは電磁気学があり、相対論もあれば量子力学もある。すべてこと決まっているように見えます。しかしそれらを創り出してきた人々について見ると、後人がそれから何を、どのように学び取ってきたか、何をくみ出してきたかということと、創り出した人がどういうふうに考えたかということとは違うんです。これをまったく同じだと思う人は試験勉強だけをしてきた人です〔笑〕。あるいはまた就職のために勉強してきた人です。本当に物理屋としてやっている人にとっては、それぞれが違うはずです。

私はこれから、私がどういうふうに、何を学び取っているかをお話するつもりですが、昔学び取ったこと、考えてきたこと、その同じことを現在になって考え直してみますと、また非常に違うわけです。そこにはもはや既成の事実しかないんだというふうに見るのは非常に表面的な見方ですね。(p.10)


問題解決の手法として、トヨタの「なぜなぜ」を5回繰り返すやりかたは有名です。偉大な先人がどのように考えたかという意味で、湯川博士も同様のことを指摘しているように感じられます。

もうひとつ。こちらはおまけで、ニュートンの逸話です。なお動物に対するニュートンの感情は、以前読んだ本でもとりあげられていました(過去記事)。

ニュートンも錬金術にはすごくこっていたんですよ。ニュートンがやったのは何かというと、光学の本を書きまして、それに力学、錬金術、そして神学の4つの部分に分けて考えられます。神学というのとはちょっと違いますが、つまり聖書年代学です。バイブルに書いてあることは全部本当である。その年代を明らかにする--そういう学問です。まあ、古代史みたいなものですね。残された文献から見ると、文献の数としてはそれほど多くないかもしれないが、しかし実際それに費やした時間は多分ほかのものよりも多いのです。

皆さん、非常におかしいとお思いになるでしょう。しかし、おかしいのはおかしくないんであって〔笑〕、もし彼が何か物理学者の理想像にぴったり当てはまって、それ以外の夾雑物[きょうざつぶつ]を持たない人であったとしたら、それは実在性がないということです〔笑〕。私は昔、ニュートンという人は実に実在感のない人だと思っていたんです。ニュートンとはどういう人かというと、年がら年じゅう勉強ばかりしている人だと思っていたんです。しかし、年がら年じゅう勉強ばかりしている人というのはどこにも存在していないのです〔笑〕。

私の小さいころに、ニュートンという偉い人について、いろんな本に書いてあった逸話が2つあります。一つはですね、彼、一生懸命に勉強しておってですね、お腹が空いてきたから、卵を鍋にほうりこんだところが、卵でなくて時計が茹で上がっていたという話です。つまり、われを忘れて勉強しておる。模範的な学者である〔笑〕。皆さんももっと勉強しろ、それくらいにならなきゃ偉くなれないぞという話です。もう一つの話も似ておりまして、彼は猫を飼っておった。猫が隣に行くのに、通路として塀に穴をあけておいてやった。その猫が赤ん坊を生んだら、子猫のためにもっと小さな穴をあけてやった、という話です。この2つの逸話は非常によく似ている。そのくらい迂闊でないと偉い学者になれない〔笑〕。(p.14)

2012年12月12日水曜日

ほんまはこいつ賢いんちゃうか(山中伸弥教授)

2 件のコメント:
ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥教授の聞き語りが新刊で出ていたので、読んでみました。『山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた』という本です。そのなかで「逆から考える」好例が語られていたので、ご紹介します。

僕らはこの24個の中に、確信するほどではないものの、初期化に必要な遺伝子があるかもしれないと予想していました。そこで24個を1個ずつ、レトロウイルスという遺伝子の運び手を使って、皮膚の細胞(正確には繊維芽細胞)に送りこんでみました。しかし、皮膚の細胞は初期化せず、ES細胞のような細胞はできませんでした。途方に暮れていたところ、ぼくと一緒に奈良先端大から京大に移ってくれた高橋君が驚くべき提案をしました。

「まあ、先生、とりあえず24個いっぺんに入れてみますから」

これがなぜ驚くべきことかというと、遺伝子を外から細胞に送りこんでも、ちゃんとその細胞が取り込んでくれる確率はそんなに高くなく、だいたい数千個のうち1個くらいの割合です。もし遺伝子2個同時であれば取りこまれる確率はもっと低くなる。まして24個なんてできるはずがない。そう考えるのがふつうの生物学研究者です。その点、もともと工学部出身の高橋君はふつうの生物学研究者にはできない発想ができたのだと思います。

実際に24個すべて入れたところ、なんとES細胞に似たものができました。(p.113)


わたしだったら、頭ごなしに確率的に考えてしまい、このような柔軟な発想はできないと思います。24個いっぺんに入れることで、予期せぬ相互作用が生じたのでしょうか。ビジネスの世界では「やってみなけりゃわからない」という言葉をきくことが多いですが、複雑な状況が手詰まりのときには実は有効な選択肢なのかもしれませんね。

そしてもうひとつ、工学部出身にふさわしい秀逸なアイデアが続きます。

24個の中に初期化因子があることは間違いありませんでした。しかし、その中の1個だけではないことも明らかでした。それでは2個か。しかし24個から2個を選ぶ組み合わせの数は24 * 23 ÷ 2で276通りもある。もし3個なら、24 * 23 * 22 ÷ 6で2024通り。こんなにたくさん実験できません。そう考えあぐねていたところ、またしても高橋君が驚くべき提案をしてくれたのです。

「そんなに考えないで、1個ずつ除いていったらええんやないですか」

これを聞いたとき、「ほんまはこいつ賢いんちゃうか」と思いました。24個から1番目の遺伝子を抜いて23個を入れる、次に2番目の遺伝子を抜いた23個を入れるという具合に、1個ずつ抜いていきます。もし本当に重要な遺伝子なら1個欠けても初期化できなくなってしまう。まさにコロンブスの卵のような発想でした。まあ、ぼくも一晩考えれば思いついていたとは思いますが。(p.114)


組合せの回数を減らす取り組みとしては、品質工学(タグチ・メソッド)がよく知られていますが、この高橋さんのアイデアも美しいまでに実学的ですね。個人的な経験を振り返ってみれば、こういうアイデアはいったん頭を冷やした後や第三者からだと出やすいものと感じています。

ところで、新聞を読まないこともあって、山中教授の人となりを知りませんでした。が、本書を読んだかぎりでは、いい意味で普通のおじさんらしい印象を受けました。それほど歳がいっていないせいでしょうか、まだ大きな仕事が残っているとの強い意気込みが感じられる方です。

2012年11月25日日曜日

研究の世界で長年暮らしてわかったこと(物理学者近角聰信)

2 件のコメント:
少し前にご紹介した物理学者近角聰信氏の『日常の物理学』から、今回は研究者として求められる素養について書かれた個所を引用します。

研究者にとって最も注意すべき教訓は「逆は必ずしも真ならず」というよく知られた論理を守ることである。あるモデルが実験事実を説明するからといって、実験事実から結論されるのはそのモデルだけとはかぎらない。そんなことは当人は百も承知であろうが、研究者はどうしても自分が提唱したモデルにこだわりがちである。対立する他のモデルも公平に考慮することができれば立派なものである。

実験の解釈にしろ、モデルの提唱にしろ、そこには研究者の自己との戦いがからんでいる。栄誉心をおさえ、私心をなくして、公平な判断を下すには、研究能力のほかに人間としての修業が必要となってくる。(p.36)


研究とは自然を探求することであるが、同時に自己との戦いが必要である。研究者は一度立てた自説にこだわりがちである。しかし、実験がその説に合わない結果を示したときには、いさぎよく自説を否定しなければならない。しかし現実の問題となると、これはなかなかむずかしいことである。ことに論敵と公開の席上で議論を戦わせた後では、特にそうである。しかし、ここで自説を否定しないかぎり、科学は進歩しない。

研究の世界で長年暮らしてみると、このような仕掛けであいまいになっている問題がいかに多いかがわかる。そしてつくづくと研究者に必要なものは、能力よりもむしろ人格だということを知るようになる。(p.108)


この文章を読んで、投資家の素養についてウォーレン・バフェットが述べた有名な言葉を思い出しました。

投資というのは、IQが160だからといって、IQ130の人に勝てるというわけではありません。

Investing is not a game where the guy with the 160 IQ beats the guy with 130 IQ


また科学者のやりかたについては、過去記事「われわれが錯覚に捕らわれているとき」でファインマンも同じような発言をしていました。

2012年11月16日金曜日

網目のように考える(物理学者近角聰信)

0 件のコメント:
前回に続いて物理学の話題です。科学者がやる考え方を参考にしようと少しずつ探っていますが、『日常の物理学』という随筆集で興味をひく文章を目にしたので、ご紹介します。本ブログで取り上げているチャーリー・マンガーの「多面的メンタルモデル」とよく似ています。なお著者の近角聰信(ちかずみそうしん)氏は、東京大学の物性研究所で教授を務めていた方です。

物理学者はそのものの考え方から、明らかに次の二種類に分類することができる。論理型と直観型とである。しかし、論理型の人が数学者の考え方と似ていることはいうまでもないが、論理と直観とは、どちらが優れているとか劣っているとか比較できるものではなく、むしろ、お互いに直交する考え方なのであろう。物理学においてはその両者の考え方が使われる。普通は、理論物理学者はむしろ論理を、実験物理学者は直観を重んずると考えがちであるが、その傾向は研究者によってまちまちである。むしろ、論理型の人は整理的な研究を、直観型の人は創造的な研究をする傾向があるといった方がよいかもしれない。

では、直観型とはどういう考え方をいうのであろうか?世の中で直観というと、ものをよく分析せず、勘でものごとを判断することを意味する場合が多いが、直観型の物理学者の考え方は、決してそのようなものではない。第一に、そのような当てずっぽうな推理で、科学を推進することができるはずはない。一口でいえば、直観的な考え方は網のようなものだということができる。論理的な考え方が一本のロープであるとすれば、直観的な考え方は多重連結で、縦横無尽に糸をはりめぐらせた網にたとえられるというわけである。(p.78)


また、ある現象が数学的に解けた場合に、ひとつひとつの法則に矛盾しないかをチェックすることも、その網目構造を丈夫にすることに役立つ。たとえば、重力場で投げた物体が放物線を描いて運動することがわかった場合、この解がエネルギー保存則を満足しているかとか、運動量保存則を満足しているかなどとチェックしてみるのもその一例である。(p.81)


私がなぜ数式に物理的イメージを肉づけし、多重連結の思考構造を好むかというと、それは単に趣味の問題だけではなく、物理学の研究にそれが必要だからである。(中略)したがって、不完全な情報をもとにしてモデルを組み立てることが必要になってくる。いわゆる暗中模索というやつである。このような考えをする場合に、頭の中に物理学が有機的に組み立てられていないとどうにもならない。ただ一筋の論理を追っていけば、結論が得られるなどという簡単なものではない。文字通り一筋縄ではいかないのである。(p.82)


以下は、「多面的メンタルモデル」に関する代表的な過去記事です。

2012年10月17日水曜日

いくつのモデルが必要なのか

0 件のコメント:
世知に長けた人間になるには、いくつのモデルを習熟すればよいのか。チャーリー・マンガーは100種類かそこらだとしており(過去記事)、その中でもほんとうに重要なものはひとにぎりだと言っています。この「100」という数字が気にかかっていたのですが、いま読んでいる本『失敗百選』で関連する話題がでていたのでご紹介します。なお本書の副題は「41の原因から未来の失敗を予測する」です。

失敗百選を作るならば、頻発する事故に共通であるシナリオ共通要素の数、つまり共通点の分類項目の数として、いくつぐらいが最適であるか、という問いに答えなければならない。そこで筆者は50個から100個までの値を考えた。(p.16)

記憶していた100件程度のデータから自分の課題に適するものを選んで、実際に有効に使用できる人もいるのである。(p.6)

能や琴、落語のような、一子相伝あるいは師匠からの免許皆伝の伝統芸能では、いくら名人でも脳のなかで活性化している出し物は、多くて200個程度だそうである。これが凡人だと20個程度に減少するらしい。100個を記憶する数として設定することは、あたらずといえども遠からず、でおかしくはなかろう。(中略)

なお、後日談であるが、エンジニアの友達に100個の多さを非難されて、自分も使ってみると確かに100個は多すぎることがわかった。法学者が百選を扱えるのは司法試験を合格する人がとびぬけて上等だからであろう。それでも、それを合格した弁護士でさえ実際には、貸借契約、離婚、相続、少年犯罪、特許係争というように得意分野が細分化されるので、百選も必要ないらしい。そこで本書は41個に絞った。(p.17)

2012年9月10日月曜日

一冊のノートと、ささやかな習慣(シメオン・ドニ・ポアソン)

0 件のコメント:
今回は、やや一般的な話題です。『バースト! 人間行動を支配するパターン』という本を最近読みましたが、ものごとの優先順位付けについて興味をひいた一節があったのでご紹介します。

ポアソン分布。ポアソン過程。ポアソン方程式。ポアソン核。ポアソン回帰。ポアソン和公式。ポアソン点。ポアソン比。ポアソン括弧。オイラー=ポアソン=ダルブー方程式。これは全体のほんの一部だが、それだけでも、シメオン=ドニ・ポアソンの研究がいかに科学のあらゆる分野に影響を及ぼしたかがわかるだろう。しかし驚くべきは、彼の貢献の量ではなく、その深さだ。そこで、どうしてもこんな疑問が浮かんでくる。いったいポアソンはどうやってこれだけ多くの異なる問題に同時に取り組みながら、なおかつ深い、色あせない貢献ができるほどの集中力を効率的に維持できたのか?

もちろん、彼には秘訣があったのだ。一冊のノートと、ささやかな習慣である。

ポアソンは興味深いと思う問題に出くわすたびに、その楽しみにふけりたくなる衝動に抵抗した。そして代わりにノートを取り出し、その問題を書きとめると、中断が入る前に夢中だった問題にさっさと注意を戻した。手元の問題が片付くと、そのたびにノートに走り書きされた問題のリストを眺めまわし、最も興味深いと思ったものを次の課題として選び出す。

ポアソンのささやかな秘訣とは、生涯にわたって注意深く優先順位をつけることだったのだ。(p.179)


時間管理をテーマにした自己啓発の本は数多く出ていますが、こういった偉大な先人の逸話もいいですね。なお本書はポピュラー・サイエンスに分類されるのでしょうが、トランシルヴァニアを舞台にした無名な十字軍の歴史物語や、ソフト・サイエンス的な逸話に多くのページが費やされており、読者を選ぶ作品のように思われます。

蛇足になりますが、「バースト」ときくとVIXのチャートを思い浮かべてしまいます。

2012年8月22日水曜日

(答え)地球温暖化が進むと、南極はどうなるのか?

0 件のコメント:
前回とりあげた話題「地球温暖化によって南極の氷は増加すると科学者たちが予想する」、その理由の部分になります。

その理由は簡単です。摂氏0.5~1度気温が上昇したとしても、南極の大部分の気温はまだかなりの低温です。氷の質量が減少した原因は、氷が融解したことではなく、氷が崩壊して海に流れ出したことだったのです。温暖化が進行した場合の主な影響は、(科学者の計算によると)水蒸気の増加です。温度の上昇によって、海水が蒸発するからです。この水蒸気が南極大陸の上空に流れていくと、降雪量が増え、固まって氷になり、氷河が発達します。そのため、地球温暖化によって南極の氷の質量は増えるという予想が出ました。 (p.153)


自分の直感が正しい結論と反する場合、どうしたら正しい道へ進むことができるでしょうか。今回の問題では、わたしは氷の質量が「減る」という直感に引きずられて、上のようなメカニズムが思いつきませんでした。気象に関する知識は必要ですが、この程度であれば想像できてもよかったと感じました。あとづけになってしまいますが、逆から考えれば解くことができたかもしれません。

ところで本書の筆者リチャード・ムラー(UCバークレー校物理学教授)は、上のような結果がでたからといって地球温暖化が進んでいないとは言っていません。その逆で、人間の活動によって気温が上昇している可能性はとても高いと考えています。

でも、温暖化は確かにおきています。そして、最近の50年間の温暖化の一部が、化石燃料の使用を主とする人間活動によるものである可能性がひじょうに高いのです。(p.155)

2012年8月21日火曜日

(問題)地球温暖化が進むと、南極はどうなるのか?

0 件のコメント:
以前読んだ『サイエンス入門〈1〉』の続き『サイエンス入門〈2〉』が出ていましたので、読んでいます。そのなかでおもしろい文章がありましたのでご紹介します。

南極の氷は、融けていると言われます。グレース衛星が、衛星軌道上から南極の氷の重力効果を測定し、氷の質量の正確な測定を行いました。その結果、南極の氷が毎年約36立方マイル(150立方キロメートル)ずつ減少していることがわかったのです! これは、地球温暖化の重大さを証明する深刻で際立った事実のように思えます。

驚くべきことに、この一見それらしい証拠は、事実を反映しているわけではないのです。2000年に、IPCCは、グレース衛星による観測に先立って、地球温暖化によって予想される氷の変化がどれほど大きなものになるかを計算するように、何人かの科学者に依頼しました。その結果、驚くべきことに、すべての科学者が一致して、地球温暖化によって南極の氷は、減少するのではなく、「増加する」と予想したのです。(p.153)


つづきの文章は次回にご紹介します。個人的には自分の直感にひきずられて、科学者たちがどういった論理で予想を出したのか思いつきませんでした。チャーリー・マンガー言うところの「疑いを持たない傾向」(過去記事)が強く働いているようです。

2012年8月8日水曜日

脊椎動物はひっくり返った昆虫なのだ(動物学者サンティレール)

0 件のコメント:
少し前にとりあげた本『ビジュアル版 科学の世界』で(過去記事)、逆に考えることで成果を挙げた科学者が二人登場していたのでご紹介します。

有機化学すなわち炭素の科学に真の突破口が切り開かれたのは、1960年代、ハーヴァード大学の教授でノーベル賞も受賞したイライアス・J・コーリーが、「逆合成解析」という手法を考案したときのことだ。この技術は、化学者が大きくて複雑な分子を小さくて手に入りやすい-そして通常はずっと安価な-出発物質から作り出すのに使える、もっとも強力なツールの1つとなった。
この手法は、合成のターゲットとする分子をジグソーパズルのように考えることでうまくいく。ターゲットから逆に考えることによって、一緒に反応させると触媒や反応物の手引きによって組み合わさり、パズルが完成するような構成要素を探し出せるのだ。(p.152)


フランスの動物学者ジョフロワ・サンティレールは、すべての動物が同じ基本的な体制をもつと考えていた。だが昆虫の場合、主要な神経索は内臓の腹側にあるのに対し、脊椎動物の場合、脊椎は背中側にある。それでもサンティレールはひるまず、このことから脊椎動物は基本的にひっくり返った昆虫なのだと推論した! そんなはずはないように思えるが、この考えも最近の発見によって裏づけられている。(中略)脊椎動物は昆虫をひっくり返したものだというサンティレールの奇抜な推測も、正しいことが立証されている。無脊椎動物ではどちら側が腹になるかをきめているホメオティック遺伝子が、脊椎動物ではどちら側が背になるかを決めているのだ。(p.222)


こうして過去をふりかえってみると、逆に考えることで成功した例はいろいろ見つかるものですね。

2012年7月29日日曜日

必ず朝食の前にやりたいこと(動物行動学者ローレンツ)

0 件のコメント:
自分が誤った考えをしているときにどうすれば気がつけるのか、本ブログで何度かとりあげています。いま読んでいる本『ビジュアル版 科学の世界』で、それと少し関連する文章が目にとまったのでご紹介します。

多くの科学者は、うぬぼれるどころか、科学は仮説の反証によってのみ進歩すると考えている。動物行動学の祖、コンラート・ローレンツは、自分の仮説を必ず朝食の前に1つは反証してみたいと言っていた。それは、とくに動物行動学の大御所の言葉としてはおかしな話だが、科学者が、何よりもみずからの誤りを認めることで仲間に一目置かれることも確かなのだ。

大学の学部生だった頃の私に人格形成上大きな影響を及ぼしたのは、オックスフォード大学動物学科の高名な老教授が、自分の惚れ込んでいた仮説について、ある客員講師におおっぴらに誤りを立証されたときにとった対応である。老教授は大教室の教壇へ大股で歩み寄り、講師と温かい握手を交わし、高揚した口調で朗々と述べた。「君に感謝したい。私はこれまで15年間、間違っていた」聴衆は、手のひらが赤くなるほど拍手をした。(p.8)

この文はまえがきの一部ですが、『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスが寄稿したものです。

2012年7月6日金曜日

発明の方法を発明する(アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド)

2 件のコメント:
「学んだことをうまく生かしたい」、あるいはその逆に「うまく生かすには、どう学ぶのがいいのか」という思いを抱いており、本ブログでも少しずつ取り上げています。なかでもチャーリー・マンガーが引用していた次の言葉は、頭のすみにひっかかっていました。「文明が進歩できたのは発明の方法が発明されてからだったように、自分自身を向上させるには、まず学ぶ方法を学ばなければならない」(過去記事)。気になっていた前半について、発言が含まれている文脈を読めば主旨が確かめられると考え、引用元の原典をさがしてみました。

書いた御本人は数学者のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead)で、引用元の著作は『科学と近代世界』のようです。全集『世界思想教養全集(第16巻)』に含まれているテキストで確認しました。チャーリーは他でもホワイトヘッドの主張をたびたび引用しているので、たぶん合っていると思います。なお、晩年のホワイトヘッドはハーバード大学で教えていたとありますので、チャーリーは講義を聴講する機会があったかもしれません。

今回は同書から「発明の方法を発明する」のくだりを引用します。

19世紀の最大の発明は、発明法の発明であった。ひとつの新たな方法が人生に加わった。われわれの時代を理解するためには、鉄道、電信、ラジオ、紡績機械、合成染料、などのような変化を形づくる個々のものをことごとく無視してさしつかえない。われわれは方法そのものに注意を集中せねばならない。この方法こそ真に新しいもので、古い文明の基礎を破壊した。(中略)

この変化全体は新しい科学知識から生じた。原理よりも成果から考えられた科学は、利用できる着想を貯えた、人目につく倉庫である。しかしこの世紀の間に起こったことを理解しようとすれば、倉庫に譬える[たとえる]よりもむしろ鉱山に譬えた方がよい。また、生のままの科学的着想は出来合いの発明で、拾い上げて使いさえすればよいものだ、と考えることは大きな誤まりである。その間には、想像的工夫を凝らす緊張した時期がある。新たな方法に含まれた一つの要素はまさに、もろもろの科学的着想と最後の産物との間の間隙を埋めにかかる方法の発見である。それは、もろもろの困難に次から次へと挑みかかる、規則正しい攻撃の過程である。

近代技術のもっていたもろもろの可能性は、富裕な中産階級の勢力によって、英国において始めて実際に現実化された。したがって産業革命は英国から始まった。しかしドイツ人は、科学の鉱山の中でより深い鉱脈に達する方法を、明らかに会得した。かれらは行き当りばったりの研究方法を廃止した。かれらの工業学校や工科大学では、ときおりの天才やときおりの好運な思いつきを待たなくても、進歩が見られた。19世紀を通じてかれらが示した学問的妙技は、世界の讃嘆の的であった。この知識の訓練は、技術を越えて純粋科学に、科学を越えて学問全般に適用される。それは素人から専門家への変化を表わしている。

特定の思想領域にその生涯を捧げる人びとが、昔からつねに存してはいた。とくに法律家とキリスト教会の牧師とは、そのような専門の明白な実例である。しかしあらゆる部門にわたる知識の専門化の力や、専門家を作り出す方法や、技術の進歩に対する知識の重要性や、抽象的知識が技術に結びつけられる方法や、技術の進歩のもつ限りなき可能性など、これらすべてのことを充分自覚的に会得することは、19世紀において、かつ列国の中でも主としてドイツにおいて、初めて完全に成しとげられたのである。

かつては人間の生活は牛車の歩みで送られた。将来は航空機の速さで送られるであろう。速度の変化はけっきょく質の差として現われてくる。(p.113)


翻訳の雰囲気は別として、ホワイトヘッドが指摘している内容は現代企業における技術経営やイノベーション創出のプロセス、産学連携と似たところがあり、古さを感じさせません。逆にみれば、「自覚的に会得する」のが難しいからこそ、こういった取り組みが現代でも課題として挙げられているのかもしれません。

2012年7月4日水曜日

両手があかないときにどうやったのか(チャールズ・ダーウィン)

2 件のコメント:
チャーリー・マンガーは思考や認識の誤りをみつける方法として、科学者ダーウィンのやりかた「持論をくつがえすよう努力する」ことを強調しています(過去記事)。『ダーウィン自伝』を読んだところ、ダーウィン本人がそのやりかたに触れていたのでご紹介します。

私はまた、多年にわたって、次の鉄則を遵守してきた。それは、公表された事実であれ、新しい観察や考えであれ、なんでも私の一般的な結論に反するものに気がついたときには、それを漏れなく、すぐに覚え書きにしておくということである。というのは、このような事実や考えは、都合のよい事実や考えよりもずっと記憶から逃げてしまいやすいということを、私は経験で知っていたからである。この習慣のおかげで、私がすでに気づいてそれに答えようとしたのでない異論が私の見解に向けて提起されるということは、ほとんど起こらなかった。(筑摩叢書 p.111)


このやりかたを身につけるに至っては、科学者の友人たちとの親交も影響していたかもしれません。

私は、結婚以前にも以後にも、他のだれよりもライエルLyellによく会った。かれの心は、明晰さ、注意深さ、健全な判断力、豊富な独創力を特徴としているように思われた。私が地質学についてかれに何か意見を述べると、かれは問題全体を明確に知るまでは信用しようとはせず、そしてしばしば、私がその問題をいっそう明確にみるようにさせた。かれは、私の意見にたいして可能な異論をすべてだしてみせ、それらをだしつくしたあとでもなお長いあいだ疑わしく思っているのがつねであった。(p.87)

このようなやりとりは、ウォーレン・バフェットとチャーリー・マンガーのようなコンビを思い出させますね。

最後はおまけです。ダーウィンがまだ学生だった頃の思い出です。

しかし、なんといっても、甲虫の採集ほどに私がケンブリッジで熱中し、たのしみにしたことはなかった。それはたんに採集への情熱であった。というのは、私はそれらを解剖したことはなく、外的な特徴を本にでている記述と照らし合わせることもまれでしかなかったからである。しかし、名前だけはなんとかつけた。私の熱中を示す一つの証拠をあげよう。ある日、古い樹皮をひき裂いていると、2匹の珍しい甲虫が見つかったので、1匹ずつ両手につかんだ。ところがさらに3番目の新しい種類のものが見つかった。これをつかまえないのは残念でたまらないので、私は右手につかんでいた1匹を口の中にほうりこんだ。何と! それはものすごく辛い液体を出し、私の舌を焼かんばかりであった。私はやむなくその甲虫を口から吐き出したが、それは逃げ、そしてまた、3番目のやつも逃げてしまった。(p.46)

2012年6月26日火曜日

あなたが秀才かどうかはどうでもよい(リチャード・ファインマン)

0 件のコメント:
仮説・検証とくれば、昨今はコンサルタントの専売特許のような感もありますが、肩肘張らずに考えれば子供でも自然にやっていることですね。先日ご紹介したファインマンの『物理法則はいかにして発見されたか』でも、科学者が新法則を探す際の手順として触れていますのでご紹介します。

一般にいって、私どもはつぎのような手順で新しい法則を捜すのです。初めに推測によってある仮説をたてる。つぎに、それにもとづいて計算を行ない、その仮説からの帰結を調べます。つまり正しいと仮定した法則から何が出るかを見るのです。その計算の結果を自然、すなわち実験、経験につき合わせる。観測と直接に比較してうまく合うかどうかチェックいたします。もし実験と合わなければ、当の仮説は間違いである。この単純きわまる宣言のなかに科学の鍵はあるのです。仮説がどんなに美しかろうと、それは問題ではありません。あなたが秀才かどうか、これはどうでもよい。だれが仮説をたてたか、名前はなんというのか、これも関係ない。もし実験に合わないならば、その仮説はまちがいなのです。これがすべてであります。 (p.239)


こちらはおまけです。「なにが科学的なのか」という命題に対して、やわらかく答えています。ファインマンらしい表現が登場していて楽しい一幕です。

科学畑でない人々は、仮説をたてたり推測をしたりするのを非科学的と思っていることが多いようですが、それは誤りです。何年か前に、私はある街のおやじさんと空飛ぶ円盤について話し合いました。私は科学者だから円盤のことをなんでも知っていると思われたのです! 「空飛ぶ円盤なんてあるとは思いませんな」と私は言いました。おやじさんはこれに反抗して、「空飛ぶ円盤はありえないって? あんた、その証明ができるのかね?」「いや、証明はできません。」私は答えました。「きわめてありそうもないことだと思うだけです。」これを聞くとおやじ、「あんた非科学的だな。証明ができないのに、ありそうもないなんて、どうして言える?」でも、科学的とはこういうことなのです。何がありそうか、何がありそうにないか、これだけ言うのが科学的なので、ことごとに可能か不可能かを証明することではありません。あのとき、おやじにこう言ってやれば私の考えが明確に伝わったかもしれない。「現にこの私をとりまいている世界のことならいくらか知識もあるつもりですが、それから考えると、空飛ぶ円盤を見たという報告は地球人の例のいかれた頭の産物のようです。いかれ加減は既知ですからな。地球外の未知の頭脳の合理的な努力の産物というのよりも、はるかにありそうなことです。」よりいっそうもっともらしく思われるーそれだけのことなのです。 (p.254)

2012年6月22日金曜日

できるだけ遠くまで拡張する(リチャード・ファインマン)

0 件のコメント:
チャーリー・マンガーは、様々な学問分野で培われてきた原理原則は別のことにも役立つと主張しています(過去記事)。別の学問分野や日常生活、投資の上でも使えるというわけです。今回は、それと似たようなことを物理学者のリチャード・ファインマンが触れていたのでご紹介します。引用元は彼の講演2本が収められた『物理法則はいかにして発見されたか』からです。

まずは主題となる部分です。
粒子とか軌道とかの概念を原子の世界にまで勝手に持ち込んでよいのか、拡張の保証はあるのかと苦情を述べる人がよくあります。心配はご無用、拡張なら何を試みてもよいのです。既知の領域を超えて、すでにわがものとした考え方を乗り越えて、できるだけ遠くまで拡張しなければならない。拡張はすべきものであり、私どもはつねにそれを行なっております。危険なことだというのですか? そうです。危険です。不確かでいけない? その通り、不確かです。しかし、それをあえてしなければ進歩がない。不確かな道ですが、科学を有用なものにするためにはどうしても必要なのです。科学というものは、かつてなされたことのない実験について何ものかを教えてくれるからこそ有用なのです。すでにわかっていることだけ教えてくれるのでは、なんのご利益もありません。テストされた領域の外まで概念を広げることが必要です。 (p.252)

つづいて、アイデアを拡張した具体的な例です。惑星の運動に関するケプラーの第2法則(下図参照)を拡張して、別のものの挙動を説明するのに使っています。文中では「角運動量保存の法則」という別の法則としても言及されています。








数多くの星どもが互いの引力で集まってまいりまして星雲が形成されていくところをご想像ください。初めは、みんな遠くの遠くにあって、中心からの動径は長いのですけれども、動きがのろいために、動径の生成する面積もそれほど大きくはないのです。お互いが近寄ってくるにつれて中心までの距離が小さくなる。星どもみんながうんと真ん中に寄ってきたときの動径はごく短い。そうしますと、毎秒毎秒に前と同じだけの面積を生成するためには、何倍も何倍も速く動かなければならないことになります。星たちは、真中に集まってくるにつれて速度を増し、激しく渦巻くようになるわけです。渦状星雲の形は定性的にはこのようにして理解されるのであります。

スケート選手がスピンをするのも同じようにして理解できます。初めは足を開いてゆっくり走りますが、やがて足をすぼめるとスピンが速くなる。足を開いておけば、毎秒なにがしかの面積を得するのですが、すぼめてしまいますと、その分の面積をかせぐために、ひとりでにスピンが速くなるわけであります。しかし、私は、スケート選手の場合の証明をまだしておりません。スケート選手は筋力を使うのであって、重力ではありません。それでも、角運動量保存の法則はスケート選手にもあてはまるのです。

これはおもしろい問題です。重力の法則みたいに物理のある一隅から導き出した定理が、その実、はるかに広い範囲で正しいことが判明する。こんなことがしばしばあるからおもしろいのです。 (p.68)

2012年5月26日土曜日

(問題)国内で飼われている犬の数は?

3 件のコメント:
ある本を読んでいたところ、次のような問題がでていました。

21世紀になって間もない頃、日本には約1000万匹のワンちゃんがいるという推定結果を厚生労働省が発表した。当然、その算出方法に目を向けたが、ペットショップで売買した犬の総数から求めたのではない。近所で生まれた子犬をもらったり、捨て犬を育てたりする場合なども多分に考えられるので、そのような数では実際の数は把握できない。厚生労働省が推定に用いた数量は×××であった。


さて、いかがでしょうか。わたしの場合、考える前に回答が目に入ってしまったのですが、ヒントは「逆向きに考える」です。答えは次回にご紹介します。なお、インターネットで検索するとあっというまに回答がでてきますので、ご注意ください。

2012年4月25日水曜日

自分のやりかたで解く(リチャード・ファインマン)

2 件のコメント:
最近読んだ本『ファインマンさんの流儀』は、彼の業績や評判を軸に展開される伝記です。物理のことはだいたい忘れてますし、量子物理学の話にはほとんどついていけませんでしたが、ファインマンの天才ぶりはよくわかりました。

今回は同書からの引用で、ファインマンのやりかたについてです。チャーリー・マンガーは様々なモデルを使いこなすことの利点を説いていますが、なかでも基礎的な学問を重視しています(過去記事)。自分のやり方にこだわるファインマンが、その好例をみせてくれます。

実際、リヒスがほんとうにその会社、<シンキング・マシンズ>社を始めたとき、ファインマンは1983年の夏じゅう、ボストンで(カール[息子]と共に)過ごさせてくれと申し出た。ただし、ヒリスの願いに沿って自分の科学専門知識に基づいて、全般的で曖昧な「助言」をすることについては、そんなことは「でたらめの山」だからできないと言って拒否し、なにか「具体的な仕事」をくれと要求した。結局彼は、並行計算が実際にちゃんと行えるようにするために個々のルーターに必要なコンピュータ・チップの数は何個かという問題に対する解を導き出した。彼が導き出したこの解がすばらしかったのは、伝統的なコンピュータ・サイエンスの技法を一切使わず、その代わりに、熱力学や統計力学を含む物理学のさまざまな考え方を使って定式化されたものだったからだ。そして、なお重要なことに、その会社のほかのコンピュータ技術者たちが出した推定値とは一致しなかったけれども、実際にはファインマンのほうが正しかったのであった。(p.340)