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2014年9月4日木曜日

私の人生とは(チャーリー・マンガー)

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1998年に行われたチャーリー・マンガーの講演「学際的能力の重要性」の9回目です。あと1回つづきます。前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

ハーバード・ロー・スクールに入学する前に私の受けた教育は、ひどく不十分なものでした。散発的に仕事をする習慣はありましたが、学士号はとっていませんでした。ウォーレン・アブナー・シーヴィーの反対があったものの、家族の友人だったロスコー・パウンド[ハーバード大学のユニヴァーシティー・プロフェッサー]の介入のおかげで入学を許可されました。高校で受けたある生物学のコースはひどいもので、ほとんど機械的に学んだわずかなことと言えば、明らかに不完全だった進化理論や、ゾウリムシとカエルの解剖を何度か、さらにはすでに消滅した非合理な概念として原形質(プロトプラズム)も習いました。今日にいたるまで私は、化学・経済学・心理学・ビジネスに関するいかなる講義も受けたことがありません。しかし若い頃に初歩的な物理学と数学を学び、さらにはハードサイエンスの「根源的なものを体系化するエートス」を何とかして吸収しようと、ずいぶん注意を払ってきました。私はそのことをよりソフトな題材へとさらに押し広げ、学際的な世知を探す際に体系化する指針としたり、ファイリングシステムとして使いました。それによって容易に発見できるようになったものです。

つまるところ、私の人生とはある種の教育実験が意図せずして行われた場だったのです。それは、根源的なものを体系化するエートスを非常に広範な学術界へと拡張することが実現可能なのか、またどれだけ有効なのかを探るものでした。そして実験した本人は、彼自身の学問が示すべき内容をきちんと習得しました。

発育不良だった私の教育を、非公式の方法によって完成させていく試みを広げてわかったことがあります。それは、並みの意欲であっても根源的なものを体系化するエートスを指針として地道に取り組んだことで、自分の好むあらゆるものごとを果たす能力が身の丈を超えて大きく高まったことです。やり始めた頃には考えられなかったほど、大きな前進が得られるようになりました。ときには重大な「福笑い」をやる場面で、自分だけが目隠しをしていないかのようでした。たとえば心理学の世界に入るつもりはなかったのですが、すっかり引き込まれたことで、大きな優位を手にするようになりました。この話は、また別の機会にとりあげる価値があると思います。

I came to Harvard Law School very poorly educated, with desultory work habits and no college degree. I was admitted over the objection of Warren Abner Seavey through the intervention of family friend Roscoe Pound. I had taken one silly course in biology in high school, briefly learning, mostly by rote, an obviously incomplete theory of evolution, portions of the anatomy of the paramecium and frog, plus a ridiculous concept of "protoplasm" that has since disappeared. To this day, I have never taken any course, anywhere, in chemistry, economics, psychology, or business. But I early took elementary physics and math and paid enough attention to somehow assimilate the fundamental organizing ethos of hard science, which I thereafter pushed further and further into softer and softer fare as my organizing guide and filing system in a search for whatever multidisciplinary worldly wisdom it would be easy to get.

Thus, my life became a sort of accidental educational experiment with respect to feasibility and utility of a very gross academic extension of the fundamental organizing ethos by a man who also learned well what his own discipline had to teach.

What I found, in my extended attempts to complete by informal means my stunted education, was that, plugging along with only ordinary will but with the fundamental organizing ethos as my guide, my ability to serve everything I loved was enhanced far beyond my deserts. Large gains came in places that seemed unlikely as I started out, sometimes making me like the only one without a blindfold in a high-stake game of "pin the tail on the donkey." For instance, I was productively led into psychology, where I had no plans to go, creating large advantages that deserve a story on another day.

2014年8月24日日曜日

ハードサイエンスにおけるエートス(詳解)(チャーリー・マンガー)

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1998年に行われたチャーリー・マンガーの講演「学際的能力の重要性」の8回目です。秀逸な文章として先に取り上げた3回目と対になる内容で、今回も「チャーリー・マンガー的知恵」の核心となる話題です。なお、前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

結局のところ、ハードサイエンスは次の2つで大差をつけて見事な実績を残しています。ひとつめは単一学問主義という愚行を避けてきたこと。ふたつめは、広い学際的領域を使いやすい形で築いたこと。このことは、物理学者のリチャード・ファインマンがみせたような優れた成果を度々もたらしています。たとえば、我らが誇るスペースシャトルの事故を起こした原因が凍結したOリング(円型リング)にあったことを、彼は早々に発見しています。そのエートスを適用する対象をもっとやわらかな素材へと広げた試みは、過去において成功をおさめてきました。たとえば生物学は150年前に始まっています。しかし当時は、深い理論とあまりつながりのない混乱した記述がされていました。しかし次第に「根源的なものを体系化するエートス」を吸収し、すばらしい成果をあげました。そのように変わったのは新しい世代がより優れた思考方法を使うようになってからで、そこには「なぜ?という質問に回答する」モデルを含んでいます。「ハードサイエンスのエートスは、生物学よりも根源的ではない学問分野の助けにはならない」、そのように断じる明確な理由は見当たりません。それではここで、私の語る「根源的なものを体系化するエートス」を自分なりに解釈した形で説明しましょう。

1) 学問分野を根源性の観点によって順序付け、なおかつその順序にしたがって使うこと。

2) 好き嫌いに関わらず、4つの根源的学問分野すべてにおける真に基礎的な部分を、流暢に使いこなせるまで実際に練習し、そして日常的に使うこと。自分が学んだものよりも根源的な学問には、なおさら注意を向けること。

3) 学問分野を超えてアイデアを統合する際には、引用してきた帰属先を必ず明記すること。さらに、「自分あるいは他の分野に含まれるいっそう根源的な素材を使って説明できるのであれば、それ以外の方法で説明してはいけない」としている「経済学の原理」から離れてはならない。

4) しかし手順3)のやりかたをしても有用で新たな洞察が得られないのであれば、何か新しい原理を仮定し、それを立証できるか試すのがよい。その際には、かつて成功裏に原理を生み出せたときと同様のやりかたをとるのが一般的である。しかし既存の原理が真実でないことを現在証明できなければ、新たな原理を既存のものと矛盾させなくてもよい。

かなり現代的なソフトサイエンスのやりかたと比較しても、ハードサイエンスにおける「根源的なものを体系化するエートス」のほうがずっと厳しいことがわかるでしょう。これはパイロット訓練法のひとつを思い起こさせますが、たまたまそうなったわけではありません。「現実とは、耳を傾ける者に聴こえる」ものだからです。パイロット訓練と同じように、このハードサイエンスのエートスが要求しているのは「欲するものをつかめ」ではありません。「好き嫌いはともかく、うまくなるまで全て学べ」です。学際的な知識にもとづいて合理的に活動する組織では、以下のことを必須要件として定めています。第一に、学問領域を超えて何かを採用するときには、本来の帰属先を完全に明記すること。第二に、もっとも根源的な説明こそが最優先されること。

この単純なアイデアはわかりきったことなので役に立たない、と思うかもしれません。しかし昔ながらの2段階規則を使えば、ビジネスや科学など何においても顕著な効果を得られることが多分にあります。その規則とは「はじめに、単純で基本的なルールを作ること。次に、それを徹底すること」です。「根源的なものを体系化するエートス」を徹底して取り組むことが有意義である証拠として、私自身の経験を示しておきましょう。

After all, hard science has, by a wide margin, the best record for both (1) avoiding unidisciplinary folly and (2) making user-friendly a big patch of multidisciplinary domain, with frequent, good results like those of physicist Richard Feynman when he so quickly found in cold O-rings the cause of our greatest space shuttle disaster. And previous extensions of the ethos into softer fare have worked well. For instance, biology, starting 150 years ago with a descriptive mess not much related to deep theory, has gradually absorbed the fundamental organizing ethos with marvelous results as new generations have come to use better thinking methods, containing models that answer the question: why? And there is no clear reason why the ethos of hard science can't also help in disciplines far less fundamental than biology. Here, as I interpret it, is this fundamental organizing ethos I am talking about:

1) You must both rank and use disciplines in order of fundamentalness.

2) You must, like it or nor, master to tested fluency and routinely use the truly essential parts of all four constituents of the fundamental four-discipline combination, with particularly intense attention given to disciplines more fundamental than your own.

3) You may never practice either cross-disciplinary absorption without attribution or departure from a "principle of economy" that forbids explaining in any other way anything readily explainable from more fundamental material in your own or any other discipline.

4) But when the step (3) approach doesn't produce much new and useful insight, you should hypothesize and test to establishment new principles, ordinarily by using methods similar to those that created successful old principles. But you may not use any new principle inconsistent with an old one unless you can now prove that the old principle is not true.

You will note that, compared with much current practice in soft science, the fundamental organizing ethos of hard science is more severe. This reminds one of pilot training, and this outcome is not a coincidence. Reality is talking to anyone who will listen. Like pilot training, the ethos of hard science does not say "take what you wish" but "learn it all to fluency, like it or not." And rational organization of multidisciplinary knowledge is forced by making mandatory (1) full attribution for cross-disciplinary takings and (2) mandatory preference for the most fundamental explanation.

This simple idea may appear too obvious to be useful, but there is an old two-part rule that often works wonders in business, science, and elsewhere: (1) Take a simple, basic idea and (2) take it very seriously. And, as some evidence for the value of taking very seriously the fundamental organizing ethos, I offer the example of my own life.


2段階規則の部分を読んで思い出した方も多いと思います。ウォーレン・バフェットが説く、投資の原則です。

(その1) 資金を決して失わないこと。
(その2) 原則(その1)を忘れないこと。

2014年8月2日土曜日

『人類5万年 文明の興亡: なぜ西洋が世界を支配しているのか』

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人類5万年 文明の興亡: なぜ西洋が世界を支配しているのか』(著者:イアン・モリス)を読みました。原書のタイトルは"Why The West Rules - For Now"で、和訳では副題に回っています。本書では西洋がここ数世紀にわたって国際社会を支配している理由を、東洋文明圏と対比しながら迫っています。この手の歴史書を読むのは、国家や文明の栄枯盛衰をモデルとして学びとりたいからですが、その意味では十分に満足できる作品でした(そして後述するように、もっと満足できました)。

これから読まれる方に差しさわりのない内容を、今回は2か所ご紹介します。ひとつめは、チャーリー・マンガー的表現である「学際性」について触れた文章です。

大学教授というものは、管理的な役割には不平をこぼすのが常だが、1995年にスタンフォード大学に移ったとき、私はすぐに、委員会に属することは狭い学問領域の外で何が起きているかを知る絶好の機会だと気づいた。それ以来、大学の社会科学史研究所や考古学センターの運営に携わり、古典学部の部長、人文科学研究所の副所長を務めながら、大規模な発掘調査を行っている。おかげで遺伝学から文芸批評まであらゆる分野の専門家を出会うことができた。そのことが、なぜ西洋が世界を支配しているのかの解明に影響しているかもしれない。

私は、一つ、大きなことを学んだ。この問いに答えるには、歴史の断面に焦点を合わせる歴史家の力、遠い過去に対する考古学者の認識、社会科学者の比較研究の手法を組み合わせた幅広いアプローチが必要なのだ。それは様々な分野の専門家を集め、深い専門知識を活用することによって可能になる。シチリアで発掘を行ったときにまさに私がしたことだった。炭化した種子を分析するための植物学、動物の骨を特定するための動物学、収納壺の残滓を調べるための化学、地形の形成プロセスを再現するための地質学をはじめ、大勢の専門家の協力が欠かせなかったため、私はそういった分野の専門家を探し出した。発掘調査の監督は学問の世界の指揮者のようなもので、優れた演奏家を総動員する。

この方法は、発掘報告書の作成には有効だ。他者が使えるようなデータを蓄積することが目的だからだ。しかし、大きな問いに対する統一的な答えをまとめるには適していない。したがって本書では、集学的アプローチではなく、学際的アプローチを取る。専門家の一団を注意深く見守るのではなく、自分自身で様々な専門家の知見を集めて解釈する。

このアプローチには、分析が偏る、表面的になる、ありがちな間違いを犯すなど様々な危険が伴う。私は、中国文化をその道何十年という研究者ほどには理解できないし、遺伝学者のように進化についての最新情報に精通しているわけでもない。(サイエンス誌は平均13秒に一度ウェブサイトを更新しているらしい。この文章を書いている間にも遅れを取ってしまっただろう)。しかし一方で専門領域に留まり続ける者は、決して全体像を見ることができない。本書のような本を書く場合、学際的アプローチを用いて一人でまとめるのは最悪の方法かもしれないが、私には一番ましに思える。私が正しいかどうかは、読者の判断にゆだねるしかない。(上巻 p.31)


もうひとつは、広く適用できるモデル「後進性の優位」についてです。

5000年前、ポルトガル、スペイン、フランス、イギリスにあたる地域がヨーロッパ大陸から大西洋に突き出ていたことは、地理的には大きなマイナスだった。メソポタミアやエジプトでの日々の営みから遠く離れていたからだ。ところが500年前、社会は大きく発展し、地理の意味を変えた。かつては決して渡れなかった大洋を渡れる新しい種類の船の完成によって、大西洋に突き出た地形がにわかに大きなプラスになった。アメリカ大陸や中国、日本へと漕ぎ出したのは、エジプトやイラクの船ではなく、ポルトガル、スペイン、フランス、イギリスの船だった。海洋貿易で世界を結び始めたのは西ヨーロッパ人であり、西ヨーロッパの社会は急速に発展し、東地中海の旧コアを追い越した。

私は、このパターンを「後進性の優位」と呼ぶ。社会が発展し始めたときから存在するものだ。農村の都市化(西洋では紀元前4000年、東洋では紀元前2000年頃)に伴って、農業の発生を可能にした特定の土壌や気候へのアクセスは、農地の灌漑用水や交易ルートとして用いられる大河へのアクセスほど重要ではなくなった。その後も国家は拡大し続けたため、今度は大河へのアクセスが、鉄、長距離の交易ルート、マンパワーの源などへのアクセスほど重要ではなくなった。このように、社会発展に伴って必要なリソースも変化する。かつてはそれほど重視されなかった地域が、その後進性に優位を見出すこともある。

「後進性の優位」がどのように生じるのかをあらかじめ述べるのはむずかしい。後進性がどれも等しいわけではないからだ。400年前、多くのヨーロッパ人は、カリブ海の植民地には北アメリカの農地より明るい未来があると思ったようだ。今になってみれば、なぜハイチが西半球で最も貧しい地域となり、アメリカが最も豊かな地域となったのかがわかる。だが、こういった結果を予測するのはかなり困難だ。

それでも「後進性の優位」が明確に示しているのは、第一に、各コア内の最も先進的な地域は時とともに移動するということだ。西洋では、初期の農業時代には、ティグリス・ユーフラテス川流域の丘陵地帯が最も進んでいたが、やがて国家の出現に伴って南のメソポタミアやエジプトの川の流域へと移り、貿易が重要になり、帝国が拡大するにつれ、西部の地中海沿岸地域へと移った。一方東洋では、先進地域は黄河と長江に挟まれた地域から長江流域へ、さらには西の渭水や四川へと移っている。(上巻 p.42)


追記です。類書の『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド)は広く知られ、評判も高い本だと思います。しかし本書はそれと肩を並べるあるいは超えるほどの出来栄えだと、個人的には評価しています。それというのも、本書の構成(つまり著者のとったアプローチ)自体からも学べることがあるからです。それは、「骨太な構成が骨太な結論を導いている」という点です。結論のほうは深入りしませんが、構成のどこが骨太だと感じたのか、簡単に触れておきます。

本書では、著者が主張を展開する上で2つの軸を用意しています。ひとつめが、西洋と東洋の両文明圏の発展度合いを測る尺度として「社会発展指数」と称する指標を導入したことです。この指数によって、両文明の社会的状況や能力が歴史的にどのように上下するかを定量化し、その上で定性的な歴史的解釈によって肉付けしています。文明の度合いをどうやって測るのかは大きなテーマだとは思いますが、著者が選んだ評価項目はそれなりに納得できます。なお本文中では歴史的エピソードの記述がつづきますが、随所に逸話が盛り込まれ、飽きることなく読み進められました。

もうひとつが、西洋圏の範囲として狭義の欧米だけでなく、文明の曙である中東を含めたことです。つまりメソポタミアやエジプトも西洋の一部とみなした上で、東洋(中国、朝鮮、日本、東南アジア等)と比較しています。従来型の定義からは逸れますが、本書を通読してみれば、「西洋=ユーラシア大陸の西側」とした定義は妥当だと思います。

これらの本質的な軸を設けたことで、歴史的事実の細部に囚われることなく、大きな流れをとらえて歴史解釈を進める助けになっただろうと想像します。歴史という長い時間軸では、「精確にまちがえるよりも、おおよそ正しい」視点を持つことが重要だと思います。その意味で、著者のとったアプローチからは学ぶところが多いと感じました。

2014年7月24日木曜日

(解答)事業を相続した老婦人への助言(チャーリー・マンガー)

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1998年に行われたチャーリー・マンガーの講演「学際的能力の重要性」の7回目で、前回の解答にあたる文章です。(日本語は拙訳)

かなり短い解答ですが、だいたい次のような感じでした。「その事業領域、特にその事業をその地域で行うことは、そこに喫緊の問題があることを示している。世慣れていない老婦人方が、雇った人物の助力を得てうまく解決するには、あまりに困難な問題である。そのような難しい状況や避けがたいエージェンシー費用を考慮すると、老婦人のとるべき道は製靴工場を速やかに売却することだと言える。売却先は、限界効用がもたらす優位を最大限に享受できると思われる競合他社がよいであろう」。つまり正解が拠りどころにしていたのは、学生たちがビジネス・スクールでちょうど学んだことではなく、より根源的な概念、つまり学部生が習う心理学と経済学から引っぱりだしてきたエージェンシー費用そして限界効用だったのです。

ハーバード・ロー・スクール1948年同窓生のみなさん。我々がそのようなテストをもっと頻繁に受けていたら、いったいどれだけのことを達成できただろうか、考えてみてください。

それはともかく、今では多くの優秀な私立校において、中学1年の理科の授業でそのような学際的な方法を広く採用するようになりました。その一方で、いまだに同じ理解に達していない大学院がたくさんあります。これはホワイトヘッドが言うところの「致命的なまでの連携のなさ」を教育機関が露呈した、もうひとつの残念な事例です。

第三に、ほとんどのソフトサイエンスの大学院では優れたビジネス刊行物をもっと活用すべきです。ウォール・ストリート・ジャーナルやフォーブス、フォーチュンといった新聞・雑誌です。そういった刊行物の内容は今ではかなり良質です。学際的な要因(それらは相互関連することがよくありますが)に関する出来事を学ぶきっかけとすることで、航空機シミュレーターの役割を果たしてくれます。また単に昔からの知識を呼び起こすだけではなく、それらの要因を説明する新たなモデルを紹介することもあります。「みずからの判断力をできるだけ優れた状態にしたければ、正規の教育が済んだ後でも営々と取り組む必要がある」、学生たちが学校にいる間にそのことを練習させるのは、少しばかり役に立つという程度ではありません。実証済の優れた判断力ゆえにビジネスの世界で尊敬されている人たちは、私の知る限りではだれもが、知恵を維持する仕組みにそのような新聞や雑誌を取り込んでいます。そうだとすれば、学術界は違っていてもよい理由などあるのでしょうか。

4番目として、学術界における数少ない空席を埋める際に、高圧的かつ短気で左派右派は問わず政治的なイデオロギーを持った教師を、ふつうは選ぶべきではありません。これは学生についても同じです。最上の学際性に必要なのは客観性です。それは、短気で怒りっぽい人が失ったものです。また難しい綜合ともなれば、イデオロギー的な足枷につながれた精神の持ち主には果たせないでしょう。我々の頃のハーバード・ロー・スクールの先生の中にも、そのようなイデオロギーから生じた愚行の見事な例を示せる人がいましたし、実際に示してくれました。これはもちろんイェールのロー・スクールのことです。法律教育を改善するために、イェールはある特定の政治的イデオロギーを主要な要素として取り込もうとしている、そう捉える人が当時のハーバードにはたくさんいました。

5番目として、根源的なものを体系的にまとめあげるというハードサイエンスにおけるエートスを、ソフトサイエンスはもっと強烈に模倣すべきです(そのエートスとは「4つの根源的な学問領域、つまり数学・物理学・化学・工学の組み合わせ」によって定義されます)。このエートスはもっと真似されて然るべきです。[参考記事]

It was very short and roughly as follows: "This business field and this particular business, in its particular location, present crucial problems that are so difficult that unworldly old ladies can not wisely try to solve them through hired help. Given the difficulties and unavoidable agency costs, the old ladies should promptly sell the shoe factory, probably to the competitor who would enjoy the greatest marginal-utility advantage." Thus, the winning answer relied not on what the students had most recently been taught in business school but, instead, on more fundamental concepts, like agency costs and marginal utility, lifted from undergraduate psychology and economics.

Ah, my fellow members of the Harvard Law Class of 1948: If only we had been much more often tested like that, just think of what more we might have accomplished!

Incidentally, many elite private schools now wisely use such multidisciplinary methods in seventh grade science while, at the same time, many graduate schools have not yet seen the same light. This is one more sad example of Whitehead's "fatal unconnectedness" in education.

Third, most soft-science professional schools should increase use of the best business periodicals, like the Wall Street Journal, Forbes, Fortune, etc. Such periodicals are now quite good and perform the function of the aircraft simulator if used to prompt practice in relating events to multidisciplinary causes, often intertwined. And sometimes the periodicals even introduce new models for causes instead of merely refreshing old knowledge. Also, it is not just slightly sound to have the student practice in school what he must practice lifelong after formal education is over if he is going to maximize his good judgment. I know no person in business, respected for verified good judgment, whose wisdom-maintenance system does not include use of such periodicals. Why should academia be different?

Fourth, in filling scarce academic vacancies, professors of superstrong, passionate, political ideology, whether on the left or right, should usually be avoided. So also for students. Best-form multidisciplinarity requires an objectivity such passionate people have lost, and a difficult synthesis is not likely to be achieved by minds in ideological fetters. In our day, some Harvard Law professors could and did point to a wonderful example of just such ideology-based folly. This, of course, was the law school at Yale, which was then viewed by many at Harvard as trying to improve legal education by importing a particular political ideology as a dominant factor.

Fifth, soft science should more intensely imitate the fundamental organizing ethos of hard science (defined as the "fundamental four-discipline combination" of math, physics, chemistry, and engineering). This ethos deserves more imitation.


10年以上前に初めて読んだときには、文章の価値だけでなく内容もうまく理解できませんでした。今読み直してみると、正答を出した学生の明快な論旨には感心させられます。

2014年7月22日火曜日

(ハーバード・ビジネススクールでの出題)事業を相続した老婦人への助言

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1998年に行われたチャーリー・マンガーの講演「学際的能力の重要性」の6回目です。ハーバード・ロー・スクールのかつてのクラスメートに対して、同じハーバードのビジネス・スクールで登場した学際的な問題解決の事例を紹介しています。今回の設問部を読んだだけできれいな解答を出せるものではありませんが、参考になる話題なので解答にあたる後半部は次回の投稿でご紹介します。なお、前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

いよいよ最後の疑問へと達しました。第一級のソフトサイエンスにおいて、最適な学際性へと発展する足取りを早めるには、どのような取り組みが必要でしょうか。これもまた容易な答えがいくつか挙げられます。

第一に、選択ではなく必修の科目をもっと増やすべきです。このことは翻ってみれば、何が必須かを決定する人に対して、幅広い学際的知識を深く理解した上で維持し続けることが要求されています。パイロット候補生の訓練では当然のことですし、幅広い問題を解決に取り組む役割に就こうとする人の訓練でも同じです。たとえば法学を修了するには、心理学及び会計学の両方に習熟することを必須とすべきです。ところが今日の優秀な学校においても、そのような要件を定めていないところがたくさんあります。カリキュラム立案者の精神が狭いゆえに何が必要かを判断できずに見逃してしまい、欠陥をそのまま修正できない例が多いのでしょう。

第二に、さまざまな学問分野にわたる問題解決の練習をもっとたくさんやるべきです。航空機シミュレーターは使わない能力が錆びつくのを防ぐ役割を果たしていますが、それを真似した取り組みも含みます。例をひとつあげてみましょう。おおざっぱに記憶しているものですが、ハーバード・ビジネス・スクールの教授が何十年も前に出した課題です。彼はこの種の教育を非常に賢明に、しかし型にはまらないやりかたで実践しました。

その教授が出したテストとは次のようなものです。世間知らずの2人の老婦人が、ニュー・イングランドにある製靴工場をちょうど相続したところでした、そこではブランド物の靴を製造していましたが、事業上の深刻な問題にはまり込んでいました。テストにはその詳細が綿々と描写されており、老婦人へ向けた助言を文書化しなさい、と要求されていました。学生には答えを書くのに十分な時間が与えられました。さて、出てきた全員の解答に対して教授は好ましくない成績をつけました。ただしある学生だけは、他を大きく引き離したトップの成績をもらいました。成功をおさめたその解答とはどんなものだったでしょうか。(解答編へつづく)

This brings us, finally, to our last question: In elite soft science, what practices would hasten our progress toward optimized disciplinarity? Here again, there are some easy answers:

First, many more courses should be mandatory, not optional. And this, in turn, requires that the people who decide what is mandatory must possess large, multidisciplinary knowledge maintained in fluency. This conclusion is as obvious in the training of the would-be broadscale problem solver as it is in the training of the would-be pilot. For instance, both psychology mastery and accounting mastery should be required as outcomes in legal education. Yet, in many elite places, even today, there are no such requirements. Often, such is the narrowness of mind of the program designers that they neither see what is needed and missing nor are able to fix deficiencies.

Second, there should be much more problem-solving practice that crosses several disciplines, including practice that mimics the function of the aircraft simulator in preventing loss of skills through disuse. Let me give an example, roughly remembered, of this sort of teaching by a very wise but untypical Harvard Business School professor many decades ago.

This professor gave a test involving two unworldly old ladies who had just inherited a New England shoe factory making branded shoes and beset with serious business problems described in great detail. The professor then gave the students ample time to answer with written advice to the old ladies. In response to the answers, the professor next gave every student an undesirable grade except for one student who was graded at the top by a wide margin. What was the winning answer?

2014年7月12日土曜日

パクるときの注意(チャーリー・マンガー)

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1998年に行われたチャーリー・マンガーの講演「学際的能力の重要性」の5回目です。ここでも重要なことが語られています。前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

さて、4番目の疑問へと到達しました。「実現可能な範囲において、最適化された学際性の目指すところ」という観点から判断すると、我々が卒業した後に第一級のソフトサイエンス教育にはどれだけ修正が加えられてきたでしょうか。

望ましい学際性へ向けようと修正するために、さまざまな試みがなされてきました。そして非生産的な結果もある程度許容したことで、正味でみてかなり改善されました。しかし望ましい修正はまだまだ実現されておらず、これからも長い道のりが続きます。

たとえばソフトサイエンスの分野では、異なる分野の教授と共同で作業したり、教授らが複数の分野の資格を得るようになって、それらが有用なことにますます気づくようになりました。しかしもっともうまくいった修正とは、たいていはそれとは異なる種類のものでした。増強という名の、あるいは「欲するものを得る」を実行することだったのです。つまり他の分野から選んだものがなんであれ、そのまま吸収することをあらゆる学問分野に奨励する方法です。そのやりかたが一番うまくいった理由は、単一学問的な非合理を招いている伝統やなわばりが原因で生じる、学問上のささいな口論を避けているからだと思います。そういうことがあるから、修正する方策を探し求めているわけですね。

それはともかく、「欲するものを得る」やりかたが増えることで、ソフトサイエンスのさまざまな分野で「かなづちを持たぬ傾向」によって生じる愚かな行動が減少しました。たとえば我らがクラスメートのロジャー・フィッシャーが指導するロー・スクールでは、他の学問分野に接したことで交渉術を導入することになりました。賢明かつ倫理的な交渉を説いたロジャーの本は300万部以上売れ、我々のクラス全員の中では彼の果たした業績がおそらく最大だと思われます。それにとどまらず、そのロー・スクールでは良質で有用なさまざまな経済学も導入しました。優れたゲーム理論さえもいくらか取り入れています。それらは実際の競争がどのように起きているかをうまく説明しており、反トラスト法[独占禁止法]を説明する際に使われています。

経済学でも同様なことがみられます。こちらではある生物学者による「共有地の悲劇」モデルを採用し、正しくもそれによって不道徳なる「見えざる足」を見つけました。これは、アダム・スミスの示した天使のような「見えざる手」と共存するものです。今日に至っては「行動経済学」という分野まで登場しています。これは賢明にも心理学から助力を求めたものです。

しかしながら、「欲するものを得る」のように徹底して自由にやらせる方法をとっても、ソフトサイエンスの世界が完璧なる賞賛を受けられる結果にはなりませんでした。実際のところ、最低の結末をむかえた例では次のような変化を招いています。第一に、フロイト主義を吸収した文学系の学部があったこと。第二に、右派・左派問わず過激な政治的イデオロギーが多くの場所へ持ち込まれたために、そこの教授らが改めて目的を手にしたこと。それは純潔を取り戻すこととはまったくと言っていいほど違うものです。第三に、自称企業財務専門家から誤った指導を受けて、多数のロー・スクールやビジネス・スクールでハード・フォームの効率市場理論が取り込まれたこと。その中の一人は、バークシャー・ハサウェイが投資で成功したことを説明するのに、幸運面における標準偏差を増すことでしのいでいました。しかし標準偏差が6に至ったところで、その説明を撤回せざるを得ないほどの冷笑を受けました。

さらには、そのような愚行を避けたときでさえも、「欲するものを得る」ことには深刻な欠陥がありました。たとえば、より根本的な学問分野から借りてきたときに、その引用元を示していないことがよくみられました。新しい名前をつけているものもありました。つまり、吸収した概念がどれだけ根本的かという意味で位置づけられる順序には、ほとんど注意を向けませんでした。そのようなやりかたでは次のような事態を招きます。第一に、乱雑なままの文書管理体系のように働くことです。吸収した知識を使って総合しようとする際の支障となります。第二に、ライナス・ポーリングは化学の水準を向上させるために物理学を体系的に探索しましたが、ソフトサイエンスとしてそれに相当することが発揮できません。これはもっとうまくやれるはずです。

Which brings us to our fourth question: Judged with reference to an optimized feasible multidisciplinary goal, how much has elite soft-science education been corrected after we left?

The answer is that many things have been tried as corrections in the direction of better multidisciplinarity. And, after allowing for some counterproductive results, there has been some considerable improvement, net. But much desirable correction is still undone and lies far ahead.

For instance, soft-science academia has increasingly found it helpful when professors from different disciplines collaborate or when a professor has been credentialed in more than one discipline. But a different sort of correction has usually worked best, namely augmentation, or "take what you wish" practice that encourages any discipline to simply assimilate whatever it chooses from other disciplines. Perhaps it has worked best because it bypassed academic squabbles rooted in the tradition and territoriality that had caused the unidisciplinary folly for which correction was now sought.

In any event, through increased use of "take what you wish," many soft-science disciplines reduced folly from man-with-a-hammer tendency. For instance, led by our classmate Roger Fisher, the law schools brought in negotiation, drawing on other disciplines. Over three million copies of Roger's wise and ethical negotiation book have now been sold, and his life's achievement may well be the best, ever, from our whole class. The law schools also brought in a lot of sound and useful economics, even some good game theory to enlighten antitrust law by better explaining how competition really works.

Economics, in turn, took in from a biologist the "tragedy of the commons" model, thus correctly finding a wicked "invisible foot" in coexistence with Adam Smith's angelic "invisible hand." These days, there is even some "behavioral economics," wisely seeking aid from psychology.

However, an extremely permissive practice like "take what you wish" was not destined to have one-hundred-percent-admirable results in soft science. Indeed, in some of its worst outcomes, it helped changes like (1) assimilation of Freudianism in some literature departments; (2) importation into many places of extremist political ideologies of the left or right that had, for their possessors, made regain of objectivity almost as unlikely as regain of virginity; and (3) importation into many law and business schools of hard-form, effcient-market theory by misguided would-be experts in corporate finance, one of whom kept explaining Berkshire Hathaway's investing success by adding standard deviations of luck until, at six standard deviations, he encountered enough derision to force a change in explanation.

Moreover, even when it avoided such lunacies, "take what you wish" had some serious defects. For instance, takings from more fundamental disciplines were often done without attribution, sometimes under new names, with little attention given to rank in a fundamentalness order for absorbed concepts. Such practices (1) act like a lousy filing system that must impair successful use and synthesis of absorbed knowledge and (2) do not maximize in soft science the equivalent of Linus Pauling's systematic mining of physics to improve chemistry. There must be a better way.


備考です。文中に登場するロジャー・フィッシャーの著書は『ハーバード流交渉術』(原題: Getting To Yes)のはずです。わたしも10年以上前に読んだことがありますが、当時は日本語版の題名にあまり好印象を抱いておらず、腰が引けた姿勢で読んでしまいました。しかし内容は王道と言えるもので、厳しい交渉の場で闘っている方は本書のことはご存知でしょうし、これからそのような立場につく方にはお勧めできる本です。

2014年7月2日水曜日

13年間あります(チャーリー・マンガー)

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1998年に行われたチャーリー・マンガーの講演「学際的能力の重要性」の4回目です。前回の話題は途中で区切ったため、残りの部分になります。(日本語は拙訳)

第一に「必須とされるあらゆる能力」という概念は、「ラプラスが天体力学の分野で有していたまでに我々の能力を高める必要はないし、その他の学問でも同様な水準まで能力を高めるようにも要求されていない」と理解できます。そうではなく、各学問分野におけるまさに重要な概念、それは本質という意味でしか学べませんが、それらがほとんどの役割を担っているのです。幾多の人材と時間があることを考えれば、広く学際的に理解することのできない人がたくさん出てくるほど莫大な数には上らないですし、相互作用もさほど複雑でありません。

第二に、第一級の教育の場では要求にこたえられるだけの大量の人材や時間が用意されています。結局のところ、我々は上位1パーセントの才能を持つ人材を教育しており、教える教師も平均としてみれば学生よりも才能豊かな人たちです。さらには、非常に有望な12歳の子供たちを職業人の入り口に立たせるまでに、およそ13年の時間があります。

第三に、逆に考えることと「チェックリスト」を使うことは、航空機の操縦と同じように幅広い生活の場においても容易に学ぶことができます。

さらに、幅広い学際的能力に到達できると信じられるのは理由があります。アーカンソー出身のある同輩が浸礼に対する信念をこう語っていたのと同じです。「そうするのを見て育ったからね」と。現代のベン・フランクリンたちのことはだれもが知っているでしょう。(1)正規の教育を受けた時間はたくさんの賢い若者に許されたものより少なかったものの、学際的な総合を山ほどなしとげ、(2)みずからの専門領域を通常通り修める以外に、他のことに時間を回したにもかかわらず、それが足を引っぱることはなく、専門分野で優れた成果をあげた、という例です。

費やせる時間と利用できる人材、そして複数の学問分野を成功裏に修めた人の例を考え合わせると、ソフトサイエンスの世界が現状維持で満足したり、変化することのむずかしさにおびえて懸命に挑戦しないでいれば、学際的な面で大きな成果はあげられないでしょう。これは、「かなづちしか持たぬ傾向」からくる悪影響を最小限にとどめていない現状をみればわかります。

First, the concept of "all needed skills" lets us recognize that we don't have to raise everyone's skill in celestial mechanics to that of Laplace and also ask everyone to achieve a similar skill level in all other knowledge. Instead, it turns out that the truly big ideas in each discipline, learned only in essence, carry most of the freight. And they are not so numerous, nor are their interactions so complex, that a large and multidisciplinary understanding is impossible for many, given large amounts of talent and time.

Second, in elite education, we have available the large amounts of talent and time that we need. After all, we are educating the top one percent in aptitude, using teachers who, on average, have more aptitude than the students. And we have roughly thirteen long years in which to turn our most promising twelve-year-olds into starting professionals.

Third, thinking by inversion and through use of "checklists" is easily learned - in broadscale life as in piloting.

Moreover, we can believe in the attainability of broad multidisciplinary skill for the same reason the fellow from Arkansas gave for his belief in baptism: "I've seen it done." We all know of individuals, modern Ben Franklins, who have (1) achieved a massive multidisciplinary synthesis with less time in formal education than is now available to our numerous brilliant young and (2) thus become better performers in their own disciplines, not worse, despite diversion of learning time to matter outside the normal coverage of their own disciplines.

Given the time and talent available and examples of successful masters of multiple disciplines, what is shown by our present failure to minimize bad effects from man-with-a-hammer tendency is only that you can't win big in multidisciplinarity in soft-science academia if you are so satisfied with the status quo, or so frightened by the difficulties of change, that you don't try hard enough to win big.

2014年6月28日土曜日

ダーウィンのように一歩一歩進む(チャーリー・マンガー)

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チャーリー・マンガーの(再考)世知入門、26回目です。チャーリーからのはげましの言葉です。前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

<質問者> 判断について、もう少しお聞きできればと思います。おはなしの中で、心理学の教科書にでてくる理にかなったものから最良の原則15,16件をものにするようにとのことでしたが...。

<マンガー> そういったものは明らかに重要で正しいものです。それはそうですが、明らかに重要ながらも本には載っていないものが他にあるので、それらも挿し込みます。それでシステムができます。

<質問者> そうですね。ただ、わたしにとっての問題はその前の段階のようで、つまり明らかに正しいのはどれなのかを決める方法です。どうやら、そちらの質問のほうをお聞きすべきでした。

<マンガー> いやいや、そのむずかしさを過大評価していますね。たとえば人間というものは、他人がどう考えたり、何をしたかによって強く影響されるものです。またその中には無意識に生じているものもあります。この話を理解するのがむずかしいですか。[参考記事]

<質問者> いいえ、それは理解できます。

<マンガー> ならば、そういった原理をきちんと使えますよ。そしてひとつまたひとつと、同じように進めるわけです。むずかしいことはありません。

オペラント条件付け、つまり「人間はうまくいった過去の経験を繰り返す」という概念を理解するのに難儀を感じますか。[参考記事]

<質問者> ですがわたしには、すごく意味のあるものが他にもたくさんあるように思えます。そうなるとそれら同士の混線が増えてしまい、システムはあっという間にひどく複雑になると想像するのですが。

<マンガー> もし私のようにやるのであれば、多少複雑なほうがある種の楽しさを感じますよ。とことん簡単で、全部説明してほしいという人は、あらゆる答えを出してくれと要求するカルト団体にでも入会するのがいいでしょう。そういうのがいいとは思えません。世界の姿をそのまま受け入れるべきです。複雑なままの姿をです。アインシュタインはこうも見事に表現していますよ。「あらゆるものごとはできるだけ簡潔にすべきだが、必要以上にやってはならない」。

残念ながら、そういうものだと思います。たとえば要因が20個あって相互に関連しているとしたら、それをうまく扱える方法を学ぶ必要があるでしょう。世界とはそういうものだからです。しかしダーウィンがやったように、興味を傾けて一歩一歩粘り強くやっていれば、それほど難題だとは感じないでしょう。そして自分がどれだけすごいことを成し遂げられるか、やがて驚くと思います。

Q: I'd like to hear you talk a little bit more about judgment. In your talk, you said we should read the psychology textbooks and take the fifteen or sixteen principles that are best of the ones that make sense…

The ones that are obviously important and obviously right. That's correct…. And then you stick in the ones that are obviously important and not in the books - and you've got a system.

Q: Right. My problem seems to be the prior step, which is determining which ones are obviously right. And that seems to me to be the more essential question to ask.

No, no. You overestimate the difficulty. Do you have difficulty understanding that people are heavily influenced by what other people think and what other people do - and that some of that happens on a subconscious level?

Q: No, I don't. I understand that.

Well, you can go right through the principles. And, one after another, they're like that. It's not that hard….

Do you have any difficulty with the idea that operant conditioning works - that people will repeat what worked for them the last time?

Q: It just seems to me like there's a lot of other things out there, as well, that also make a lot of sense. The system would quickly get too complicated, I imagine - as a result of too much cross-talk.

Well, if you're like me, it's kind of fun for it to be a little complicated. If you want it totally easy and totally laid out, maybe you should join some cult that claims to provide all the answers. I don't think that's a good way to go. I think you'll just have to endure the world - as complicated as it is. Einstein has a marvelous statement on that: "Everything should be made as simple as possible, but no more simple."

I'm afraid that's the way it is. If there are twenty factors and they interact some, you'll just have to learn to handle it - because that's the way the world is. But you won't find it that hard if you go at it Darwin-like, step by step with curious persistence. You'll be amazed at how good you can get.

2014年6月24日火曜日

きわめて強力な教育訓練体系のつくりかた(チャーリー・マンガー)

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1998年に行われたチャーリー・マンガーの講演「学際的能力の重要性」の3回目です。チャーリーの話は秀逸なものばかりですが、今回はその中でも指折りの内容です。前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

おのずと次のような3つめの疑問が浮かびます。「現在は何を目標とすればよいか。第一級の教育において、学際性を最高の域まで高めるのに不可欠な性質とは何か」。この質問も簡単ですね。もっとも成功している狭い領域での教育状況を調べて、欠かせない要素を特定し、それらを拡大して適切な解決策へと導けばよいだけです。

その際に、ぴったりのお手本となる狭い領域をさがす先は、学校教育のような脅威にさらされていない場所ではありません。そのような場所は、先に述べた非生産的な2つの心理的傾向や他の悪い影響によって強く動かされています。そうではなく、教育によって得られる効果が大きいほどやる気がいっそう高まり、学んだ結果が測定されているも同然の場所をさがすことです。この論理に従ってたどりつく場所とは、すなわち「現代のパイロットに課されている、大成功をおさめてきた教育」です。(そうです。パイロット訓練のことを熟慮するようになれば、偉大なるハーバードがもっとよくなること請け合いだと示唆しているわけです)。他の職業と同様に航空機を操縦する際にも、「かなづちしか持たない傾向」によって生じる悪影響は重大な危険因子のひとつと考えられています。危機に直面したパイロットが「危機その1」しか知らないからといって、「危機その1」が起きたとは判断・対処してほしくありません。ですからそれも含めた上で、パイロットの訓練は以下の6つの厳格なシステムに基づくことが要求されています。

1) 正規の教育として網羅する範囲には、操縦中に有用だと考えられる事実上すべてのものを含むこと。

2) パイロットに必要とされる事実上すべての知識は、単に一度や二度の試験に合格できればよい程度に学ぶものではない。そうではなく、身につけたあらゆる知識は実際の現場で淀むことなくさっと思いだせること。2つあるいは3つの危機が重なって到来した際にも、同様に対応できること。

3) あらゆる優れた代数学者と同様に、あるときは順方向、またあるときは逆方向に物事を考えること。起こってほしいと願うことに最大限集中すべきはいつなのか、あるいは起きてほしくないことを避けるのに最大限集中すべきはいつなのかを学ぶこと。

4) 訓練に時間を費やすべき各対象は、将来起こりうる機能不全から生じる被害を最小限にとどめるためのものであること。訓練を受ける者が達成すべきもっとも重要なこととして、訓練内容をほとんどすべて習得し、この上ないほどに淀みなく実行できること。

5) いついかなるときにも、定型作業として「チェックリスト」を使った確認を必ず行うこと。

6) 所定の訓練を修了した後でも、知識を維持していくために設けた特別な確認作業を定期的に実施するよう義務づけること。たとえば、稀だが重要な問題に対処する際に必要な能力が衰えてしまうのを防ぐために、飛行シミュレーターを利用する例が挙げられる。

適切なること明白な6つの要素からなるこのシステムは、イチかバチかの性格が強い特定の領域では強く要求されており、人間の精神が持つ深層構造に根ざすことから必要とされるものです。だからこそ、さまざまな領域にわたる問題を解決するために必要な教育には、それらすべてを含むだけでなく、各要素が十分に拡張されていることを期待すべきでしょう。そうとしか考えられません。

そして昼のあとには夜がつづくように、鷹が鷹を産むことをめざす第一級のさまざまな領域にわたる教育に基づいて最高の結果を得るには、学際性が広大な範囲まで行きわたることが必要になります。その際には、営々と維持され実践を積み重ねてきたあらゆる能力が、必要に応じて淀むことなく発現されます。その能力のひとつ、学問領域の境界をまたいで行われる総合は、強力な力をもっています。さらにその学際性は、もっとも必要とされる場所でこの上なく流れるように発揮されます。順逆両方向から考えるやりかたは、代数でやる逆転の方法を思い起こす形で使われます。そして「チェックリスト」を使った定型的な確認作業は、知識体系の一角を恒久的に占めることとなります。さまざまな領域にわたる世知を築くには他のやりかたはありませんし、これより楽な方法もないでしょう。それゆえに、この作業の幅が広大であることをはじめて認識した時には、これは至難の業だとおじけづくかもしれません。

しかしあらゆる事情を考慮すれば、次の3つの要因を念頭におくことでこの作業が不可能からほど遠いものであることがわかります。

The natural third question then becomes: What is now the goal? What is the essential nature of best-form multidisciplinarity in elite education? This question, too, is easy to answer. All we have to do is examine our most successful narrow-scale education, identify essential elements, and scale up those elements to reach the sensible solution.

To find the best educational narrow-scale model, we have to look not at unthreatened schools of education and the like, too much driven by our two counterproductive psychological tendencies and other bad influences, but, instead, look where incentives for effective education are strongest and results are most closely measured. This leads us to a logical place: the hugely successful education now mandatory for pilots. (Yes, I am suggesting today that mighty Harvard would do better if it thought more about pilot training.) In piloting, as in other professions, one great hazard is bad effect from man-with-a-hammer tendency. We don't want a pilot, ever, to respond to a hazard as if it was hazard "X" just because his mind contains only a hazard "X" model. And so, for that and other reasons, we train a pilot in a strict six-element system:

1) His formal education is wide enough to cover practically everything useful in piloting.

2) His knowledge of practically everything needed by pilots is not taught just well enough to enable him to pass one test or two; instead, all his knowledge is raised to practice-based fluency, even in handling two or three intertwined hazards at once.

3) Like any good algebraist, he is made to think sometimes in a forward fashion and sometimes in reverse; and so he learns when to concentrate mostly on what he wants to happen and also when to concentrate mostly on avoiding what he does not want to happen.

4) His training time is allocated among subjects so as to minimize damage from his later malfunctions; and so what is most important in his performance gets the most training coverage and is raised to the highest fluency levels.

5) "Checklist" routines are always mandatory for him.

6) Even after original training, he is forced into a special knowledge-maintenance routine: regular use of the aircraft simulator to prevent atrophy through long disuse of skills needed to cope with rare and important problems.

The need for this clearly correct six-element system, with its large demands in a narrow-scale field where stakes are high, is rooted in the deep structure of the human mind. Therefore, we must expect that the education we need for broadscale problem solving will keep all these elements but with awesomely expanded coverage for each element. How could it be otherwise?

Thus it follows, as the night the day, that in our most elite broadscale education wherein we are trying to make silk purses out of silk, we need for best results to have multidisciplinary coverage of immense amplitude, with all needed skills raised to an ever-maintained practice-based fluency, including considerable power of synthesis at boundaries between disciplines, with the highest fluency levels being achieved where they are most needed, with forward and reverse thinking techniques being employed in a manner reminding one of inversion in algebra, and with "checklist" routines being a permanent part of the knowledge system. There can be no other way, no easier way, to broadscale worldly wisdom. Thus the task, when first identified in its immense breadth, seems daunting, verging on impossible.

But the task, considered in full context, is far from impossible when we consider three factors:

2014年6月14日土曜日

我々の受けた教育は十分に学際的だったか(チャーリー・マンガー)

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1998年に行われたチャーリー・マンガーの講演「専門家に学際的能力がいっそう要求される理由と、そこから学びとれる含意」(今後は縮めて「学際的能力の重要性」と呼びます)の2回目です。前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

2番目の問いも容易に答えられるので、それほど時間をかけないことにします。私たちの受けた教育はあまりにも単一学問主義的でした。「幅広い問題」とは、言葉の定義から言ってさまざまな学問領域にわたるものです。そうであれば、そのような問題に対して単一学問的に取り組むのは、コントラクトブリッジのハンドをプレイする際に手札をカウンティングするだけで、他のテクニックは一切無視するのと同じことです。「いかれ帽子屋のお茶会」のように狂ってますね。しかしそれにもかかわらず、専門家の現場ではそれと同じことが今でも非常に多く見受けられます。さらに悪いのは、ソフトサイエンスにおける孤立した各学問領域においてそれがずっと奨励されてきたことです。ソフトサイエンスとは、生物学よりも根本的ではないすべての学問が該当します。

我々がまだ若かった頃でさえも、最高水準の学者の中には、学術界を分断して縄張りを巡らせた孤立地帯に分ければひどい影響をもたらすことになる、と恐れた人たちがいました。その孤立した世界では、盲信に加えて不信心者を排除することで信念が維持されていました。一例としてアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドを挙げると、彼はずっと以前に「学術界における各分野の致命的なまでの非連携さ」について話したときに、激しい言葉で警鐘を鳴らしています。その後、第一級の教育機関ではホワイトヘッドに同調する動きが増え続け、学際的な取り組みを推進して非連携的なやりかたに立ち向かってきました。学問の境界における非連携と闘った偉大な人物、たとえばハーバードのE. O. ウィルソンやカルテックのライナス・ポーリングといった人たちは、我々の時代に絶大なる称賛を受けました。

現代の学術界は、我々が受けた教育よりもずっと学際的な内容を授けています。これは明らかに正しいことをしていますね。

My second question is so easy to answer that I won't give it much time. Our education was far too unidisciplinary. Broadscale problems, by definition, cross many academic disciplines. Accordingly, using a unidisciplinary attack on such problems is like playing a bridge hand by counting trumps while ignoring all else. This is "bonkers," sort of like the Mad Hatter's Tea Party. But, nonetheless, too much that is similar remains present in professional practice and, even worse, has long been encouraged in isolated departments of soft science, defined as everything less fundamental than biology.

Even in our youth, some of the best professors were horrified by bad effects from balkanization of academia into insular, turf-protecting enclaves wherein notions were maintained by leaps of faith plus exclusion of nonbelievers. Alfred North Whitehead, for one, long ago sounded an alarm in strong language when he spoke of "the fatal unconnectedness of academic disciplines." And, since then, elite educational institutions, agreeing more and more with Whitehead, have steadily fought unconnectedness by bringing in more multidisciplinarity, causing some awesome plaudits to be won in our time by great unconnectedness fighters at borders of academic disciplines, for instance, Harvard's E. O. Wilson and Caltech's Linus Pauling.

Modern academia now gives more multidisciplinarity than we received and is plainly right to do so.

2014年6月2日月曜日

学際的能力がいっそう必要な理由(チャーリー・マンガー)

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チャーリー・マンガーが「学際的なやりかた」(Multidisciplinary Approach)を強く勧めていることは、本ブログでもよくとりあげています。今回から始まるこのシリーズでは、学際的能力の重要性や訓練方法などを説いたチャーリーの講演を全訳します。『Poor Charlie's Almanack』に講演その5(Talk Five)として収録されているものです。

なお本講演の和訳は、既に『投資参謀マンガー』に収録されています。お急ぎの方はそちらをご覧ください。同書が手元にないので、いつものように迷訳・珍訳を連発するかもしれませんが、どうぞご了承ください。

専門家に学際的能力がいっそう要求される理由と、そこから学びとれる含意
ハーバード・ロー・スクール1948年度生50周年記念同窓会
1998年4月24日

今日は、いしにえの教育者を思い起こすやりかたに終始しようと思います。ソクラテス式の対話、これを独りで進めます。はじめに5つの問題をあげて、それぞれについて簡単に答えていきます。

1) さまざまな領域で働く専門家には、学際的な能力がさらに必要とされるか。

2) 私たちの受けた教育は十分なほどに学際的だったか。

3) さまざまな分野に関する第一級のソフトサイエンスの世界において、実際的でこの上なく高められた学際的教育を行うのに欠かせない性質とはどのようなものか。

4) この50年間のうちに、叶う限りでの学際性の高みに向かって第一級の学術界はどれだけ近づいたか。

5) [学際性を]もっと迅速に発展させるには、どのような教育的取り組みを行えばよいか。(2014/7/21、この項目のみ改訂)

それでは、最初の疑問「さまざまな領域で働く専門家には、学際的な能力がさらに必要とされるか」からはじめましょう。

この問いに答えるには、いっそう学際的に取り組むほど専門家の認知を改善するのかを、まず判断しなければなりません。まずい認知を正すものは何かを判断できれば、なにゆえにそうなるのかがわかりやすくなります。バーナード・ショーに出てくるある人物が、専門家の問題点を次のように説明しています。「結局のところ、あらゆる専門職とは部外者に対して仕組まれた陰謀なのだ」。ショーが言わせた独りごとには多くの真実が含まれています。16世紀に起きたあるできごとがそれを示しています。当時の聖職者は独占的な職業だったため、聖書を英語に翻訳したウィリアム・ティンダルは火あぶりにされたのです。

その問題提起は、意識的かつ利己的な悪意が主な原因であると言外に伝えています。しかし明らかにショーはそのことを軽視していました。そしてもっと重要なのは、専門家の世界では無意識に生じる心理的傾向が相互に関連して、ひどい効果を頻繁に生み出すことです。なかでも、とびぬけて問題を起こしやすい傾向が2つあります。

1) 動機づけによって生じるバイアス。専門家自身にとってよいことは、顧客ひいては社会発展の点でもよいとする方向へ認知がごく自然に曲げられ、結論を下します。

2) 「かなづちしか持たぬ傾向」。この名前は次の警句からとっています。「手持ちの道具がかなづちだけだと、なんでも釘に見えてくる」。[バカの一つ覚え]

「かなづちしか持たぬ傾向」をある程度まで治す方法は、はっきりしています。多岐にわたる学問分野に関する能力を幅広く身につけていれば、定義上は複数の道具を持つことになり、 「かなづちしか持たぬ傾向」から生じる認知上の悪しき影響を制限できるようになります。さらには私のあげた2つの傾向からくる悪い影響、これは自分自身と他人の両側からきますが、生涯を通じてそれらと戦わなければならないという考えを実践的な心理学から吸収できるまでに学際的になっていれば、世知を築く道において堅実に歩んでいることになります。

ある狭い専門的な一連の教えを「乙」と呼びましょう。一方で、重要かつきわめて有用な各種概念が別のさまざまな分野から得られるとして、それら一式を「甲」とします。当然ですが「甲乙」両方を持ち合わせる専門家は、「乙」しか持たない貧相な人よりも優れていることが多いでしょう。ほかに考えようがないです。それゆえに、さらなる「甲」を得ようとしない言い訳を正当化するには、「そうするのは現実的でないから」と答えるしかありません。必要なのは「乙」のほうで、生活上緊急の用件がほかにあるからというわけです。この「単一学問主義」をとる言い訳はあとで触れますが、他はどうであれ優れた才能を持つ人には筋が通らないと感じられるものです。

The Need for More Multidisciplinary Skills from Professionals: Educational Implications
Fiftieth Reunion of Harvard Law School Class of 1948,
April 24, 1998

Today I am going to engage in a game reminding us of our old professors: Socratic solitaire. I will ask and briefly answer five questions:

1) Do broadscale professionals need more multidisciplinary skill?

2) Was our education sufficiently multidisciplinary?

3) In elite broadscale soft science, what is the essential nature of practicable best-form multidisciplinary education?

4) In the last fifty years, how far has elite academia progressed toward attainable best-form multidisciplinarity?

5) What educational practices would make progress faster?

We start with the question: Do broadscale professionals need more multidisciplinary skill?

To answer the first question, we must first decide whether more multidisciplinarity will improve professional cognition. And, to decide what will cure bad cognition, it will help to know what causes it. One of Bernard Shaw's characters explained professional defects as follows: "In the last analysis, every profession is a conspiracy against the laity." There is a lot of truth in Shaw's diagnosis, as was early demonstrated when in the sixteenth century, the dominant profession, the clergy, burned William Tyndale at the stake for translating the Bible into English.

But Shaw plainly understates the problem in implying that a conscious, self-interested malevolence is the main culprit. More important, there are frequent, terrible effects in professionals from intertwined subconscious mental tendencies, two of which are exceptionally prone to cause trouble:

1) Incentive-caused bias, a natural cognitive drift toward the conclusion that what is good for the professional is good for the client and the wider civilization; and

2) Man-with-a-hammer tendency, with the name taken from the proverb: "To a man with only a hammer, every problem tends to look pretty much like a nail."

One partial cure for man-with-a-hammer tendency is obvious: If a man has a vast set of skills over multiple disciplines, he, by definition, carries multiple tools and, therefore, will limit bad cognitive effects from man-with-a-hammer tendency. Moreover, when he is multidisciplinary enough to absorb from practical psychology the idea that all his life he must fight bad effects from both the tendencies I mentioned, both within himself and from others, he has taken a constructive step on the road to worldly wisdom.

If "A" is narrow professional doctrine and "B" consists of the big, extra-useful concepts from other disciplines, then, clearly, the professional possessing "A" plus "B" will usually be better off than the poor possessor of "A" alone. How could it be otherwise? And thus, the only rational excuse for not acquiring more "B" is that it is not practical to do so, given the man's need for "A" and the other urgent demands in his life. I will later try to demonstrate that this excuse for unidisciplinarity, at least for our most gifted people, is usually unsound.

2014年5月16日金曜日

イエス・キリストを掲げた広告(チャーリー・マンガー)

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チャーリー・マンガーによる講演『経済学の強みとあやまち』の30回目です。短い質疑応答があるのでもう1回つづきますが、今回が実質的な最終回です。前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

私からの話を締めくくるにあたって、もうひとつお粗末な話を披露したいと思います。限られたレパートリーにしがみついていると、間違った考えに達することを示す話です。この話の主人公は、旧世界からアメリカにやってきたハイマン・リーボウィッツという人物です。彼は新しい国にやってきたものの、昔と同じように家業の釘製造に励みました。苦労に苦労を重ねて、小さな釘事業がやっと大きな成功をおさめました。そこで彼の妻はこう言いました。「あんたも年なんだからさ、フロリダにでも行って仕事のことは息子に任せておしまいよ」。

彼は事業を息子に任せてフロリダへと離れました。ただし業績報告は毎週受け取っていました。フロリダにそれほど長く滞在する間もなく、業績が赤字へと急降下しました。実にひどいものでした。そこで彼は飛行機に乗って工場のあるニュージャージーに戻りました。空港から工場へ向かう途中、煌々と照らされた巨大な野外広告をみかけました。十字架に架けられたキリストが描かれており、その下に次の説明文が大きく付けられていました。「このときにもリーボウィッツ社の釘が使われていました」。彼は工場へ行って怒鳴りたてました。「このばかったれ小僧が。おまえは一体何をしたと思っているのだ。会社がここまでくるのに50年もかかったんだぞ」。息子が答えました。「父さん、大丈夫ですよ。ちゃんと直しておきますから」。

彼はフロリダに戻りましたが、さらなる報告を受けとっても業績は悪くなる一方でした。そこでまたもや飛行機で戻ることにしました。空港を出て標識に従うまま運転していくと、明かりのついた例の大きな広告がみえました。今度の十字架には何も架けられていませんでした。しかしなんとまあ、十字架の下でキリストは地面に放り出されていました。そして広告の文句はこうです。「リーボウィッツ製の釘は使われていませんでした」(笑)。

たしかに笑える話です。しかし間違った考えに囚われている人がたくさんいる状況をみれば、それほど馬鹿げた話ではありません。ケインズはこう言っています。「難しいのは新しい考えを取り入れることではない。古い考えを捨てることだ」。もっとうまく表現しているのがアインシュタインです。頭を使う仕事で成功をおさめた要因として、彼は「好奇心、集中、根気、自己批判」を挙げています。彼の言う自己批判とは、最愛にしてまるで駄目な自分のアイデアをうまくお払い箱にできる能力のことです。みずからが出した駄目なアイデアを上手に捨てられるようになれば、それはすばらしい才能と言えます。

今日の短い話に登場していた大きな教訓をふりかえってみましょう。私が言いたかったのはこうです。様々な学問分野にわたる数々の重要な技を用い、それを流暢に使えるようになるまで腕をみがき、経済学だけでなくあらゆることに活用すること。また複雑さや逆説には避けられないものがありますが、それでがっかりしないように。それらは、問題解決をいっそう楽しくするものだからです。私を導いてきた言葉として、再度ケインズからご紹介しましょう。「厳密にやって間違えるよりも、だいたい当たっているほうがましだ」。

最後に、同じような場で申し上げたことを繰り返して締めくくりとします。「学際的なやりかたに熟達したら、以前に戻りたいとは思わないだろう。両手を切り落とすようなものだから」。

これでおわりです。あとはみなさんの望むまでご質問を受けましょう(拍手)。

As I conclude, I want to tell one more story demonstrating how awful it is to get a wrong idea from a limited repertoire and just stick to it. And this is the story of Hyman Liebowitz, who came to America from the old country. In the new country, as in the old, he tried to make his way in the family trade, which was manufacturing nails. And he struggled, and he struggled, and finally, his little nail business got to vast prosperity, and his wife said to him, "You are old, Hyman, it's time to go to Florida and turn the business over to our son."

So down he went to Florida, turning his business over to the son, but he got weekly financial reports. And he hadn't been in Florida very long before they turned sharply negative. In fact, they were terrible. So he got on an airplane, and he went back to New Jersey where the factory was. As he left the airport on the way to the factory, he saw this enormous outdoor advertising sign lighted up. And there was Jesus, spread out on the cross. And under it was a big legend, "They Used Liebowitz's Nails." So he stormed into the factory and said, "You dumb son! What do you think you're doing? It took me fifty years to create this business!" "Papa," he said, "trust me. I will fix it."

So back he went to Florida, and while he was in Florida, he got more reports, and the results kept getting worse. So he got on the airplane again. Left the airport, drove by the sign, looked up at this big lighted sign, and now there's a vacant cross. And, lo and behold, Jesus is crumpled on the ground under the cross, and the sign said, "They Didn't Use Liebowitz's Nails." (Laugher).

Well, you can laugh at that. It is ridiculous, but it's no more ridiculous than the way a lot of people cling to failed ideas. Keynes said, "It's not bringing in the new ideas that's so hard. It's getting rid of the old ones." And Einstein said it better, attributing his mental success to "curiosity, concentration, perseverance, and self-criticism." By self-criticism, he meant becoming good at destroying your own best-loved and hardest-won ideas. If you can get really good at destroying your own wrong ideas, that is a great gift.

Well, it's time to repeat the big lesson in this little talk. What I've urged is the use of a bigger multidisciplinary bag of tricks, mastered to fluency, to help economics and everything else. And I also urged that people not be discouraged by irremovable complexity and paradox. It just adds more fun to the problems. My inspiration again is Keynes: Better roughly right than precisely wrong.

And so, I end by repeating what I said once before on a similar occasion. If you skillfully follow the multidisciplinary path, you will never wish to come back. It would be like cutting off your hands.

Well, that's the end. I'll take questions as long as people can endure me. (Applause)

2014年3月2日日曜日

わかりやすい解法が見つかりました(ベノワ・マンデルブロ)

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複雑なものごとを分析する方法として、本ブログではチャーリー・マンガーのやりかたを繰り返し取り上げています。要約すると「学術界などから借りてきた種々のモデルを使って事象を説明できるか試し、よりよい説明モデル群を見いだす」とするものです。モデル化できるということは、行く末をある程度は予想できることにつながります。あらゆるものが容易にモデル化できるわけではないと思いますが、チャーリーは「徐々にものごとがうまくつながって認識できるようになる」と説明しています。

今回ご紹介するのは、少し前に取り上げた数学者マンデルブロの自伝『フラクタリスト―マンデルブロ自伝―』からの引用です。彼が大学に入学する前に体得した天才的なモデル化の話です。

数学教授のコワサール先生は、このころリセ・デュ・パルクに着任したばかりだったが、それから長いあいだここで立派な教員生活を送ることになる。トープの教授というエリート集団の中でも、コワサール先生は抜きん出ていた。毎日、1日の半分ほどを私はコワサール先生とともに過ごした。先生は黒板の前に立ち、やたらと長い問題を書いた。それは先生が過去何世代もの教師たちの経験を踏まえて、ばかばかしいほど複雑な計算が必要となるようにわざと作成したものだった。問題はいつも代数的または解析幾何学的に記述されていた。

私の中で、同じ問題を幾何学的に言い換える声が聞こえた。テュールにいたあいだずっと、私は時代遅れの数学の教科書を使って勉強していた。1930年代の教科書と比べて、あるいは今日の教科書と比べても、図版がはるかにたくさん載っていて、説明が充実し、やる気をかき立てる内容となっていた。そんな教科書で数学を勉強した私は、何世紀にもわたってきわめて特殊な図形が幅広く集められた一大図形"動物園"を知悉(ちしつ)するに至っていた。だからたとえ解析的な装いをまとっていても、そしてそれが私にとって"見知らぬ"装いであり、図形の基本的な性質とは無縁のように見えても、私はいろいろな図形をすぐさまそこに見出すことができた。

私はいつも最初にさっと図を描いた。そうするとすぐに、なにかが欠けていて美的に不完全だと感じられた。たとえば単純な射影変換や、何らかの円に関する反転操作を加えるとよくなったりした。この種の変換を何回かおこなうと、たいていの図形はもっと調和のとれたものになった。古代ギリシャ人ならこの新しい図形は「対称性が高い」と言っただろう。まもなく対称性を探して調べることが、私の勉強の中心となった。この愉快な作業は、とんでもなく難しい問題を単純な問題に変えた。必要な代数はあとで必ず補える。どうしようもなく複雑な積分の問題も、見慣れた図形に"還元"すれば簡単に解ける。私は手を挙げて自分の発見を発表したものだ。「先生、幾何学的なわかりやすい解法が見つかりました」。先生がどれほど難解な問題を考えても、私はたちまち解いてしまった。それからは、特に意識的に追い求めたわけでもないのに、即座に難なく、いかなる難問もクリアしてしまう一本の道が、私の前には開きつづけたのだった。1944年にリヨンで過ごした冬のあいだ、学期が進むにつれて、私の特異な才能は強固で信頼できるものであることが明らかになっていった。(p.133)


本ブログでメンタル・モデルに関する話題をはじめて読まれる方は、たとえば以下の過去記事がご参考になるかと思います。いずれもチャーリー・マンガーの講話の一部です。

2014年2月26日水曜日

経済学者リカードの盲点(チャーリー・マンガー)

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チャーリー・マンガーによる講演『経済学の強みとあやまち』の25回目です。二次的・三次的影響の話題は今回までです。前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

このこと[前回分のニーダーホッファーの事例]は、人間の作ったあらゆるシステムで如何にごまかしがされているかを示しています。さらにもうひとつ、結果がもたらす結果のことをきちんと考えていなかった例として、リカードが提唱した比較優位の法則に対して経済学の世界が示した一般的な反応があげられます。この法則は、貿易によって取引をする双方が利益を得るというものです。リカードはすばらしくもあいまいな説明を考えだしましたが、説得力があったために人々を惹きつけ、いまだに魅了し続けています。とても有用な概念だったからですね。経済学の世界におけるだれもが、貿易から生じる一次的優位性をリカードの説明する効果から考えると比較優位は重要な概念だと理解しています。しかしたとえば中国人のような、非常に有能な民族ながらもひどく貧しく遅れている状況があると考えてみてください。一方で我々は先進国の人間として中国と自由貿易を始め、ずっと継続していくとします。

それでは二次的、三次的な結果がどうなるか検討します。平均的なアメリカ人としての幸福度という意味では、中国と貿易しないでいるよりもずっと豊かになったのはわかりますね。リカードがそれを証明しています。しかし経済学的な意味ではどちらの国が速く成長し続けるでしょうか。ずばり中国です。彼らは自由貿易を通じて強力な手助けを受け、世界中のあらゆる現代的な技術を吸収しています。アジアの虎たちが示したように、中国も急速に発展するでしょう。香港や台湾、あるいは初期の日本を考えてみればわかります。ですから総勢12億人を超える後進的な貧農ばかりの弱国から始めても、やがては我々よりもずっと大きく強力な国家となるでしょう。原子爆弾だって、ずっと高性能のものを我々以上に保有するかもしれません。結局のところリカードは、当初は先を進んでいた国家にとってすばらしい結末となるのか否かは明らかにしていませんでした。二次あるいは高次にわたる影響については、彼は判断を下していなかったのです。

このような話題を経済学の教授に持ちかけてみるとどうなるでしょうか。私は3回やったことがありますが、彼らはこの種の話をしたくないゆえにおぞましさでひるんだり、攻撃的になるものです。このやりかたは彼らの麗しき原則をまさしくお釈迦にしますからね。二次・三次といった影響を無視しておけば、いたって簡単になるわけです。

この件を3回試して返ってきた答えで、ジョージ・シュルツ[レーガン政権の国務長官]のものが一番でした。彼はこう言いました。「チャーリー、わたしが言いたいのはだな、もし中国との貿易をやめても他の先進国はそのまま続けるだろうから、中国が発展して我々を超えていくのは止められないのだよ。つまり我々は、リカードが診立てた貿易上の優位を失うわけだ」。たしかにそれは当たっています。そこで私は言いました。「ジョージ、あなたは『共有地の悲劇』の新しい形を発明なさったわけですな。システムに囚われてしまい、それを修復することができない。世界の偉大なリーダーだった我々が世界をリードする点でいよいよ浅瀬に乗り上げるつもりであれば、早々に没落しようというわけですな」。彼は答えました。「チャーリー、そんなことは考えたくないのだよ」。彼は賢いだけでなく私より年上ですから、私のほうが彼から学ぶべきなのかもしれません。

This shows how all human systems are gamed. Another example of not thinking through the consequences of the consequences is the standard reaction in economics to Ricardo's law of comparative advantage giving benefit on both sides of trade. Ricardo came up with a wonderful, non-obvious explanation that was so powerful that people were charmed with it, and they still are because it's a very useful idea. Everybody in economics understands that comparative advantage is a big deal, when one considers first-order advantages in trade from the Ricardo effect. But suppose you've got a very talented ethnic group, like the Chinese, and they're very poor and backward, and you're an advanced nation, and you create free trade with China, and it goes on for a long time.

Now let's follow and second- and third-order consequences. You are more prosperous than you would have been if you hadn't traded with China in terms of average well-being in the United States, right? Ricardo proved it. But which nation is going to be growing faster in economic terms? It's obviously China. They're absorbing all the modern technology of the world through this great facilitator in free trade, and, like the Asian Tigers have proved, they will get ahead fast. Look at Hong Kong. Look at Taiwan. Look at early Japan. So, you start in a place where you've got a weak nation of backward peasants, a billion and a quarter of them, and, in the end, they're going to be a much bigger, stronger nation than you are, maybe even having more and better atomic bombs. Well, Ricardo did not prove that that's a wonderful outcome for the former leading nation. He didn't try to determine second-order and higher-order effects.

If you try and talk like this to economics professors, and I've done this three times, they shrink in horror and offense because they don't like this kind of talk. It really gums up this nice discipline of theirs, which is so much simpler when you ignore second- and third-order consequences.

The best answer I ever got on that subject - in three tries - was from George Shultz. He said, "Charlie, the way I figure it is if we stop trading with China, the other advanced nations will do it anyway, and we wouldn't stop the ascent of China compared to us, and we'd lose the Ricardo-diagnosed advantages of trade." Which is obviously correct. And I said, "Well, George, you've just invented a new form of the tragedy of the commons. You're locked in this system, and you can't fix it. You're going to go to a tragic hell in a handbasket, if going to hell involves being once the great leader of the world and finally going to the shallows in terms of leadership." And he said, "Charlie, I do not want to think about this." I think he's wise. He's even older than I am, and maybe I should learn from him.


この講演が行われたのは2003年10月3日でした。ブッシュ大統領によるイラク侵攻があった年です。そのころはまだ中国の経済的・軍事的影響力はあまり語られていなかったと覚えています。チャーリーの洞察は的確ですね。

2014年2月22日土曜日

ディズニー、自触媒反応のみごとな実例(チャーリー・マンガー)

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チャーリー・マンガーの(再考)世知入門の15回目です。前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

<質問者> キャピタル・シティーズ社の株式交換のときに、現金ではなくてディズニー社の株にしたことについてお聞かせください。報道によれば、現金で受けとることを検討されていたようですが[参考記事]。

<マンガー> ディズニーはこの上なくすばらしい会社ですが、非常に高値でした。その理由として一般向けの映画を製作していることもありますが、私としてはその商売にはまったく興味がありません。しかし、ディズニーは豊かな金鉱以上のものも有していました。孫が、つまり子供向けのビデオのことです。

ディズニーは自触媒反応のみごとな実例です。同社では製作したすべての映画をフィルムに撮ってありました。それらの版権も保有していました。冷却技術が登場したことで、コカ・コーラ社は繁盛するようになりました。それと同じで、ビデオテープが発明されたときにディズニーは何も発明しなかったものの、しまっておいた映画をひっぱりだしてビデオテープにコピーして売ったのです。世間のお父さんお母さん、そしてじいさんばあさんがたは、自宅で子や孫と並んで座ってビデオを観たがりました。このように、ディズニーは多大なる追い風を受けたのです。それも、何千億円という追い風でした。

そういう例がみつかれば最高なのは言うまでもないですね。なんら発明しないでいても、世界が自分たちを押し進めてくれる間、座しておとなしくしていればよいわけです。

もちろんディズニーはいろいろな新しいことを正しく実行しました。しかしこう言うからといってご誤解しないでほしいのですが、ディズニーでいろいろ起こったことは、我が友人が学生クラブの世間知らずな仲間のおさめた成功について話す様子と似ています。「彼は楽勝なアヒル君同然で、池の水位のほうが持ち上がってくれたのだよ」。

ディズニーをうまく経営したという点でアイズナーとウェルズは見事でした。しかし彼らが経営者の仕事についた時には、昔作ったあらゆるものをビデオで販売するという絶大な追い風があったのです。新たな経営陣にとって、これはまさに棚からぼたもちでした。

しかし公正を期す意味で言えば、同じように追い風をつかもうと彼らが創り出した新しい作品、ポカホンタスやライオン・キングなども見事でした。お役ごめんになるまでに、ライオン・キングだけで何千億円も売れるでしょう。「お役ごめん」とは、これから50年かそこら先のことです。しかし、1本の映画で何千億円とは。

Q: Could you talk about the thoughts that went into your decision to swap your Capital Cities stock for Disney rather than taking cash. In the media, it was reported that you mentioned thinking about taking the cash.

Disney's a perfectly marvelous company, but it's also very high-priced. Part of what it does is to make ordinary movies - which is not a business that attracts me at all. However, part of what Disney has is better than a great gold mine. My grandchildren - I mean, those videocassettes…

Disney is an amazing example of autocatalysis…. They had all those movies in the can. They owned the copyright. And just as Coke could prosper when refrigeration came, when the videocassette was invented, Disney didn't have to invent anything or do anything except take the thing out of the can and stick it on the cassette. And every parent and grandparent wanted his descendents to sit around and watch that stuff at home on videocassette. So Disney got this enormous tail wind from life. And it was billions of dollars worth of tail wind.

Obviously, that's a marvelous model if you can find it. You don't have to invent anything. All you have to do is to sit there while the world carries you forward….

Disney's done a lot of new things right. Don't misunderstand me. But a lot of what happened to Disney was like what a friend of mine said about an ignorant fraternity brother of his who succeeded in life: "He was a duck sitting on a pond. And they raised the level of the pond."

Eisner and Wells were brilliant in how they ran Disney. But the huge tail wind from videocassette sales on all of the old stuff that was there when they came in, that was just an automatic break for the new management.

To be fair, they have been brilliant about creating new stuff - like Pocahontas and The Lion King - to catch the same tailwind. But by the time it's done, The Lion King alone is going to do plural billions. And, by the way, when I say "when it's done," I mean fifty years from now or something. But plural billions - from one movie?


ディズニーの商売について、チャーリーは過去記事「手つかずのまま眠っている」でも触れています。

蛇足ですが、「自触媒反応」とくれば個人的に思い浮かぶのはAppleのiPhoneによる大成功です。「見た目のわかりやすさ」は消費者にとって重要なだけでなく、売り手にとっても真剣な課題なのだなと感じました。

2014年1月26日日曜日

2機の飛行機が空中衝突する確率(『異端の統計学 ベイズ』)

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「ベイズの定理」と言えば「モンティ・ホール問題」が思い浮かびます。「天才」マリリン・ヴォス・サヴァントが出した回答が、「並み」の数学者たちからバカ扱いされたものです(けっきょくは彼女が正解)。ご存知の方が多いと思いますが、ウィキペディアから以下に引用します。

モンティ・ホール問題 (ウィキペディア)

「プレイヤーの前に3つのドアがあって、1つのドアの後ろには景品の新車が、2つのドアの後ろにはヤギ(はずれを意味する)がいる。プレイヤーは新車のドアを当てると新車がもらえる。プレイヤーが1つのドアを選択した後、モンティが残りのドアのうちヤギがいるドアを開けてヤギを見せる。
ここでプレイヤーは最初に選んだドアを、残っている開けられていないドアに変更してもよいと言われる。プレイヤーはドアを変更すべきだろうか?」


正解は同ページで説明されていますが、「ドアを変えても確率は五分五分」という答えは不正解です。

この問題の答えを解説する文章をどこかで読んだときから「ベイズの定理を実践で使いこなしたい」という願望を抱いてきました。またチャーリー・マンガーがどこかで発言した「追加された情報によって逐次見直す」やモンテカルロ法の話題もひっかかっていました。何かきっかけとなる知識が得られないかと期待して読んだのが、今回ご紹介する本『異端の統計学ベイズ』です。個人的には当たりの一冊でした。

ベイズを始祖とする統計学の一派(ベイズ主義者)は、別の主流派(頻度主義者; ごく一般的な統計学)から不遇の扱いを受けてきました。しかし頻度主義では解けない現実上の難問を、ベイズの手法を使うさまざまな人たちが試行錯誤を通じて解決していきます。本書ではベイズの定理の数学的な説明はほとんど登場しないかわりに、歴史の舞台で各種の難題に立ち向かう人たちの姿が生き生きと描かれています。それらの登場人物の行く末を痛ましく感じたり、立派な生き方から学んだり、反面教師にしたりと、引き込まれる文章が随所にありました。ベイズの定理を真剣に学びたいと決意させてくれたのは、心にふれるさまざまなエピソードが取りあげられていることが大きいと思います。趣味の問題ですが、翻訳の文章も良質と感じました。

さて、本書からの引用です。はじめの2つは「過去に事例がないことを予測する例」で、こちらは飛行機の衝突事故の話題です。

ベイリーが亡くなった年に、崇拝者の一人がインシュランス・カンパニー・オブ・ノース・アメリカ社のクリスマスパーティーでマティーニをすすっていると、サンタクロースに扮した主催会社のCEOがとんでもない質問をした。

「誰か、2機の飛行機が空中衝突する確率を予測できる人間はいないか?」

そしてこのサンタは、自社の主任保険数理士であるL・H・ロングリー・クックに、そのような事故がまったく起きたことがないという前提で予測を行うよう求めた。商用機はそれまでに一度も深刻な空中衝突を起こしたことがなかった。過去に経験したことがなく反復実験もできない場合、正統派の統計学者なら、予測はまったく不可能だと答えるしかない。(中略)

ロングリー・クックはクリスマス休暇の間じゅうこの問題を考え続け、1955年1月6日には件のCEOに宛てて、今後の状況に関する警告を送った。業界の安全記録によればそれまでに航空機同士の事故は1件もなかったが、航空事故一般に関する入手可能なデータを見る限り、「これからの10年間に起きる旅客機同士の衝突事故の件数は0から4までのどれかであると思われる」したがって保険会社は、高額な保険料を支払わねばならない大惨事に備えて旅客機の保険料率を上げ、再保険を買わねばならないというのだ。2年後に、この予測が正しかったことが証明された。ニューヨーク市の上空でDC-7型機とロッキード社の大型機コンステレーションが衝突して、乗客乗員やマンションの住人など計133人が命を落としたのである。(p.179)


こちらはスペースシャトルの事故の話題です。

ところが驚いたことに、こうして大学人が疑いの目を向けるなか、アメリカ空軍のある契約業者が、ベイズの理論を使ってスペースシャトル・チャレンジャーの事故のリスクを分析した。空軍は、アルバート・マダンスキーが冷戦中にランド・コーポレーションで行ったベイズ派の研究に資金を提供していたが、それでもアメリカ航空宇宙局(NASA)は、不確定要素を主観的に表現するのはいかがなものかという態度を崩さなかった。そのためNASAが1983年にスペースシャトルの打ち上げ失敗の確率を評価する報告書をまとめたときも、資金を出したのは空軍だった。NASAの契約業者テレダイン・エネルギー・システムは、計1,902回のロケットモーター発射で32件の失敗が確認されたという事前の経験に基づいてベイズ解析を行い、「主観的な確率と運用経験」からして、ロケットブースターが故障する確率を35分の1と見積もった。当時NASAはブースターが故障する確率を10万分の1としていたが、テレダイン社は「事前の経験と確率分析に基づく保守的な故障評価を基本にするのが賢明というものだ」といって譲らなかった。けっきょく、チャレンジャーは25回目になる1986年1月28日の打ち上げで爆発し、7名の乗組員は全員死亡した。(p.384)


つぎはベイズ的なアプローチを文章で表した箇所です。企業分析のプロセスもこれに当てはまると思います。

ラプラス同様ジェフリーズも、生涯にわたってそれまでの観察を新たな結果に照らして更新する作業を続けた。「怪しいところがある主張は……科学のもっとも興味深い部分を構成している。科学のどの進歩にも、完璧な無知からはじまって証拠に基づく部分的な知識がしだいに確実になるという段階を経て事実上確実といえる段階に至る、という変遷が含まれている」のだ。(p.111)


最後はFRBの話です。事実というよりも伝説ととらえるべきでしょうか。なお傘の話題については、個人的には同感です。わたしも折りたたみ傘をカバンの底へ入れっぱなしのやりかたでした。

フェルドシュタインの説明によると、連邦準備制度理事会はベイズを使って、起きる確率が高くてダメージの少ない出来事よりも、起きる確率が低い大災害のリスクにより大きな重みをつけているという。フェルドシュタインはベイズを、雨の確率が低い場合も雨傘を持っていくべきかどうかを決断しなければならない男性に喩えて見せた。傘を持っていったのに雨が降らなければ、不自由な思いをする。だが、傘を持っていかずに土砂降りになったらずぶ濡れだ。「よきベイジアンは、雨が降らない日でも雨傘を持っていくことが多い」というのがフェルドシュタインの結論だった。(p.424)


今回の話題に関連する本(の題名)を以下にご紹介します。どちらも新刊で、わたしも昨日知ったばかりです。

・『シグナル&ノイズ 天才データアナリストの「予測学」
おもしろそうなので、近いうちに読みたいと思っています。

・『モンティ・ホール問題
12月に出たばかりの本です。件の問題について、その顛末や類題などが詳細に書かれています。

(2014/1/26追記) コメント欄で、飛行機事故の具体的な情報(ウィキペディア)を枯山さんがご指摘くださっています。

2014年1月18日土曜日

結果の結果のそのまた結果(チャーリー・マンガー)

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チャーリー・マンガーによる講演『経済学の強みとあやまち』の22回目です。前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

7) 二次的あるいはより高次にわたる影響に対する関心の低さ

次の話題へ進みます。7番目のあやまち、それは二次的影響あるいはさらに高次の影響に対して経済学ではほとんど関心が払われていないことです。この欠陥は非常に理解しやすいものです。つまり物事の結果が結果を生み、結果の結果がそのまた結果を生みだすということです。これはとても複雑になります。気象学者の任に就いていたときには、これを非常にいらだたしく感じていました。しかし経済学からみれば、気象学など楽勝なものです。

メディケアに関する当初の法律を制定するにあたって、博士号を有する経済学者を含むさまざまな専門家が推定費用を算出しました。しかし彼らが経済面で極端なまでに無知だったことが露呈しました。彼らがやったのは、過去にかかった費用をそのまま外挿しただけだったのです。

費用見積もりを超えること、割合にして1000%超となりました。つまり彼らが見積もった金額は、実際にかかった費用の10%未満だったのです。新たな奨励策が開始されるや否や、その誘因にしたがって動向に変化が生じ、見積もっていたものとはまるで違う数字になりました。また予想していたとおり、高価な薬や治療法が開発されました。では卓越した専門家のみなさんが、それほどお粗末な予測を出したのはなぜでしょうか。それは、容易に答えが求まるように物事を単純化しすぎたからです。まるで、無教養な人がπ[パイ;円周率]を3.2に丸めるようなものですね。影響が及ぼす影響のそのまた影響などは考慮しない、彼らはその方針をとったのです。

学術界という世界でこの一般的な思考ミスの姿をみましたが、これにはひとつ良い点があります。ミクロ経済学という点では、ビジネスに携わる人のほうが愚かだということです。先に述べたメディケアのような心神喪失の例をビジネスの世界から挙げてみましょう。織物工場の経営者を説得しようとする人の話です。「こいつの出来といったらどうでしょう。新しく開発された織機ですが、生産性が大幅に向上しています。3年で元(もと)が取れます」。そういった織機などを20年間も買いつづけると、得られる利益はどうなるでしょうか。投下資本あたり4%で、ずっとそのままです。これは技術面でうまくいかないわけではなくて、経済が支配する法則にしたがうからです。つまり新型織機による利益は織物を購入する顧客へと向かい、織物工場の所有者のものにはならない、ということです。基礎的な経済学の授業をとったりビジネススクールを出た人が、なぜこんなことがわからないのでしょうか。きっと学校が手を抜いているのでしょう。そのような心神喪失がそうそうおこるとは思えませんから。

ふつう私が見積もるときは、型にはまったやりかたには従いません。他の人にそれをやらせたこともありません。机の上に「おえっ」と吐きたくないですから(笑)。そういったバカバカしいやりかたを始終やっている人たちはたしかにいます。しかしどれほどバカげたことをやっていても、彼らのことを信じる人も多いものです。この国では、バカげた予測をせっせとやるのは、うまい売込みのやりかたですね。

投資銀行ともなると、このやりかたは芸術的な形となります。彼らの予測にも目を通したことはありませんが、ある会社をウォーレンと共に買うことになったときの話をしましょう。その会社の売り手は、投資銀行が作成した莫大な調査結果を携えていました。こんなに分厚いのですよ。我々はそれが病死体であるかのようにお返ししました。「これに200万ドルも払ったんですよ」と、彼は言いました。「そういうのは使ったことも見たこともありません」と、私は答えました。

7) Too Little Attention to Second- and Higher-Order Effects

On to the next one, the seventh defect: too little attention in economics to second-order and even higher-order effects. This defect is quite understandable because the consequences have consequences, and the consequences of the consequences have consequences, and so on. It gets very complicated. When I was a meteorologist, I found this stuff very irritating. And economics makes meteorology look like a tea party.

Extreme economic ignorance was displayed when various experts, including Ph. D. economists, forecast the cost of the original Medicare law. They did simple extrapolations of past costs.

Well, the cost forecast was off by a factor of more than one thousand percent. The cost they projected was less than ten percent of the cost that happened. Once they put in place various new incentives, the behavior changed in response to the incentives, and the numbers became quite different from their projection. And medicine invented new and expensive remedies, as it was sure to do. How could a great group of experts make such a silly forecast? Answer: They oversimplified to get easy figures, like the rube rounding pi to 3.2! They chose not to consider effects of effects on effects, and so on.

One good thing about this common form of misthinking from the viewpoint of academia is that business people are even more foolish about microeconomics. The business version of the Medicare-type insanity is when you own a textile plant and a guy comes in and says, "Oh, isn't this wonderful? They invented a new loom. It'll pay for itself in three years at current prices because it adds so much efficiency to the production of textiles." And you keep buying these looms, and their equivalent, for twenty years, and you keep making four percent on capital; you never go anywhere. And the answer is, it wasn't that technology didn't work, it's that the laws of economics caused the benefit from the new looms to go to the people that bought the textiles, not the guy that owned the textile plant. How could anybody not know that if he'd taken freshmen economics or been through business school? I think the schools are doing a lousy job. Otherwise, such insanities wouldn't happen so often.

Usually, I don't use formal projections. I don't let people do them for me because I don't like throwing up on the desk (laughter), but I see them made in a very foolish way all the time, and many people believe in them, no matter how foolish they are. It's an effective sales technique in America to put a foolish projection on a desk.

And if you're an investment banker, it's an art form. I don't read their projections either. Once Warren and I bought a company, and the seller had a big study done by an investment banker. It was about this thick. We just turned it over as if it were a diseased carcass. He said, "We paid $2 million for that." I said, "We don't use them. Never look at them."

2013年11月6日水曜日

樹木が発生するのは水を好むからではない(エイドリアン・ベジャン教授)

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流れとかたち ― 万物のデザインを決める新たな物理法則』という本を最近読みました。熱力学の大家である著者はマクロな視点に立ち、無生物の物理的傾向と生物の進化さらには人間文明の方向性を、ひとつの統一原理「コンストラクタル法則」によって説明しようとしています。これは「あらゆるものごとは、流れをよくする形へと変化する傾向がある」とするものです(英文Wikipedia)。本書で展開される説明はそれなりに説得力のあるものがつづき、なるほどと感心させられます。ただし適用範囲が壮大で、すべて納得できるかというと疑問符がつくかもしれません。意欲作というか問題作というか、先週末に丸の内の丸善をのぞいたときには各所に平積みされており、話題を呼びそうな作品です。

一般に、ミクロ的な基本原理の積み重ねでものごとを説明できればそれに越したことはありません。しかしそれがむずかしかったり、本質をつかみにくい場合には、本書の著者が提示するように俯瞰してとらえるやりかたは有効的だと思います。今回同書から引用する文章はその「俯瞰」の話題とは少し離れますが、本ブログでとりあげる話題に関連する箇所をご紹介します。

まずは、発想の逆転について。チャーリー・マンガーおなじみの思考プロセスですが、この発想には仰天させられました。

熱力学の第二法則によれば、自然界は局地的にも全体的にも、湿気の多い所から少ない所へ水を動かす傾向を示すことになっている。木も草も、湿気の少ない空気が大気から水分を吸い取るために使うストローのようなものだ。(中略)コンストラクタル法則は、樹木と森林が現れて存続するのは大地から大気への水の迅速な移動を促進するためであることを教えてくれる。(中略)樹木が「発生する」のは、そこに水があり、(上方へ)流れなければならないからであって、「木は水を好む」からではない。(p.198)


つぎは、規模の経済についてです。なお、この話題は本書の主題の一部を占めるもので、他の場所でも何度かとりあげられています。

たとえば、質量1,000キログラムのゾウが1キロメートル移動すると、移動する質量1キログラム当たりの食物摂取量は0.0562に比例する。質量が10キログラムのジャッカル100頭が同じく質量1キログラムを同じ距離だけ移動させたら、その1キログラムに必要な食物の量は0.383に比例する。ここで大事なのは、2つの食物必要量の比率、0.0562/0.383(約7分の1)という数値だ。結論として、ゾウが質量1キログラムを移動させると、ジャッカルの質量1キログラムを移動させるときと比べ、食物のコストはわずか7分の1にしかならない。

この事実から、さらに2つの大きな考えが浮かび上がる。第一にこれは、工学、経済学、ロジスティックス、ビジネスの各領域で認められている規模の経済という現象に、理論物理学的な基盤を提供してくれる。何かを大量に動かすときの効率は、規模に応じて向上する。第二にこれは、進化にはものの動きの向上へと向かう方向性があるという考えを際立たせてくれる。雨粒があって初めて川が生じるように、地球上では小さい動物が出てきてから大きい動物が登場した。ゾウより前に単細胞生物が、オオアオサギより前に蚊ぐらいの大きさの昆虫が現れた。コンストラクタル法則を使うと、動きが活発になるだけでなく、動きの効率も向上するという紛れもない傾向が見て取れる。(p.151)


最後の引用は、「コンストラクタル法則」に対する著者の所信表明の中でも東洋的なひろがりが感じられる箇所です。

コンストラクタル法則は、進化についてのダーウィンの考えに物理的原理の後ろ盾を与える。この法則は、特定の変化が他の変化よりも良い理由を説明し、そうした変化は偶然ではなく、より良いデザインの生成を通じて現れることを示してくれる。コンストラクタル法則はまた、進化についての私たちの理解を拡げ、生物学的変化という自然の傾向が、無生物の世界を形作るものと同じ傾向であることを示してくれる。

コンストラクタル法則とはそういうものだから、私たちが森の中を歩くときに感じる統一性の圧倒的な感覚の科学的根拠を提供してくれる。大地も、樹木も、大気も、私たち自身も、本当につながっている。いっさいのものは、同一の普遍的な力によって形作られ、創造の一大交響楽を奏でながら、それぞれが全体を支えているのだ。(p.223)


本書は万人向けするものではないと思いますが、生物の進化や地球物理的な現象のどちらにも興味のある方には刺激を与えてくれる作品です。個人的にはものごとをながめる視点のひとつとして、このメンタル・モデルを積極的に使っていきたいと感じました。

なお、規模の経済については過去記事で何度かとりあげていますが、以下の2つの投稿では「規模の不経済」が登場しています。この件は企業分析を行う際の要所のひとつと感じています。

規模の不経済(チャーリー・マンガー)
何も発明していない男、サム・ウォルトン(チャーリー・マンガー)

2013年10月12日土曜日

おとなりのことは気にならんよ(チャーリー・マンガー)

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チャーリー・マンガーによる講演『経済学の強みとあやまち』の17回目です。前回ご紹介した話題「コワい隣人」の答えになります。(日本語は拙訳)

おぞましい隣人のせいでダメになったホテルをどうすればいいか、マッキンゼーやハーバードの先生方にお願いすればよかったのかもしれません。そうすれば厚さが30センチにもなる報告書を出してくれたでしょう。しかしそうするかわりに、我々はその物件にこう掲げました。「売ります/貸します」。すると、それを見た人がこう持ちかけてきたのです。「お宅のホテルを改修するのに20万ドル使うことになるので、ツケでいいならそれなりの値段で買おう。それから、用途地域を変えてもらえるなら、駐車場はゴルフのパット用練習場にしたいね」。我々は言いました、「ホテルには駐車場がないと困るのでは。どうするおつもりですか」。彼は答えました、「いいや、うちの商売はフロリダの年寄りを飛行機にのせてきて空港のそばに泊まらせ、そこからディズニーランドやいろんな場所へバスで行き来するんだ[話題となっている場所はロサンゼルス]。おとなりのガラが悪くても気にならんよ。うちのお客さんはホテルの中で満足しているタチだからな。連中のやることは、朝になったらバスに乗って、夜になったら帰ってくるだけ。だから駐車場はいらんが、ゴルフのパットは練習したいんだ」。そういうわけで取引成立です。かように美しくまとまり、貸付金は返済されてすべてがうまくいきました。

あきらかにこの例では、リカードとピン工場の事例が相互作用しています。高齢者を楽しませるようにこの男が考え出した風変りなシステム、これがピン工場そのものです。一方で、そのシステムを有する男を見つけるに至った点は、まさにリカードです。これらは互いに影響し合っています。

Now we could have gone to McKinsey, or maybe a bunch of professors from Harvard, and we would have gotten a report about 10 inches thick about the ways we could approach this failing hotel in this terrible neighborhood. But instead, we put a sign on the property that said: "For sale or rent." And in came, in response to that sign, a man who said, "I'll spend $200,000 fixing up your hotel, and buy it at a high price on credit, if you can get zoning so I can turn the parking lot into a putting green." "You've got to have a parking lot in a hotel," we said. "What do you have in mind?" He said. "No, my business is flying seniors in from Florida, putting them near the airport, and then letting them go out to Disneyland and various places by bus and coming back. And I don't care how bad the neighborhood is going to be because my people are self-contained behind walls. All they have to do is get on the bus in the morning and come home in the evening, and they don't need a parking lot; they need a putting green." So we made the deal with the guy. The whole thing worked beautifully, and the loan got paid off, and it all worked out.

Obviously that's an interaction of Ricardo and the pin factory examples. The odd system that this guy had designed to amuse seniors was pure pin factory, and finding the guy with this system was pure Ricardo. So these things are interacting.


これは「おもしろい小ばなし」として記憶されるものかもしれません。ですが個人的には、このような経験を学術的な視点から一般化し、知恵の一例として示せるマンガーの思考プロセスのほうがずっと興味ぶかく感じられます。

ご参考までに、以下の地図はハリウッド・パーク競馬場の場所(A地点)を示したものです。L.A.の国際空港から6kmほどの場所にあります。


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2013年9月24日火曜日

みなさんが受けた教育はまちがっています(チャーリー・マンガー)

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チャーリー・マンガーの(再考)世知入門の4回目です。今回は短い上に具体的な事例がないですが、大切なことを言っています。これは、経験や観察に裏付けられたものだと思われます。なお、前回分はこちらです。(日本語は拙訳)

しかし基本的なモデルをわかっておらず、またモデルを扱うための基本的な思考方法をわかっていなければ、バリュー・ラインのグラフを目の前にしても手持ち無沙汰に終わることでしょう。しかし手をこまねいている必要はないのです。100ほどのモデルを学び、ひとにぎりほどの精神的な技を体得し、人生のあらゆる局面で使いつづけることです。そんなにむずかしいことではありません。

これが麗しいのは、そうやっている人がほとんどいないということです。まちがった教育を受けたのもそうなった理由のひとつですが、みなさんも同じようにまちがった教育を受けたことで危機に見舞われるかもしれません。それを避ける手助けになると思い、今ここで私がお話ししている次第です。

However, if you don't have the basic models and the basic mental methods for dealing with the models, then all you can do is to sit there twiddling your thumbs as you look at the Value Line graph. But you don't have to twiddle your thumbs. You've got to learn one hundred models and a few mental tricks and keeping doing it all of your life. It's not that hard.

And the beauty of it is that most people won't do it - partly because they've been miseducated. And I'm here trying to help you avoid some of the perils that might otherwise result from that miseducation.


近年になって、中学・高校程度の学科を学びなおしたり、うまく活用しようとする本が書店でよく見られます。時代がチャーリーに少しずつ追いつこうとしている、と個人的には感じています。